戦後70年特集:世界の紛争地でMSFは......?
2015年08月05日「紛争や戦争が国家の問題だとしても、人道的な法を侵すこと、戦争のもたらす罪、人間性に背いた行為は、この社会に生きる私たちすべてを苦しめるものなのです」
国境なき医師団(MSF)が1999年にノーベル平和賞を受賞した際の記念スピーチの一節です。
日本が終戦をむかえた1945年と私たちが生きている2015年を比べたとき、紛争の形態は様変わりしていますが、多くの人びとが傷つく状況は何も変わっていません。70年前にはまだMSFは世界の舞台に登場していませんでしたが、1971年の紛争地での援助活動を機に設立されて以来、世界各地で医療を受けられずに苦しむ人びとへ手を差し伸べてきました。
MSF日本では戦後70年を機に改めて紛争と人道援助について考え、本特集記事にまとめました。ご意見・ご感想はこちらにお寄せください。広報部:messageboard@tokyo.msf.org
繰り返される紛争——写真で見る「今」と70年前の日本
ガザ、シリア、南スーダン、中央アフリカ共和国……現在も世界のあちこちで紛争が続き、がれきと化した街で傷ついた子どもたちや大人たちが助けを待っています。遠い国や地域のこと、そう決めてしまう前にぜひ、こちらのフォトギャラリーを見てください。そして、私たちにできることを一緒に考えてみてください。
MSFスタッフが見た世界の紛争
MSFの医療・人道援助プログラム件数の3割は、現在も戦闘が続いている紛争地を対象としています。停戦中や政情不安などの不安定な地域を含めると、その割合は5割を超えます。日本から派遣したスタッフが、紛争地の現実について証言します。
南スーダン:現地で見た過酷な現実——白川優子(正看護師として派遣)

医療を受ける機会がとぼしい地域に出向いていくアウトリーチ・チームのメンバーとして派遣され、医療用具を積んだボートで各集落をまわる活動に参加して間もなくのことでした。マラカルで激しい戦闘が起き、全住民15万人が一瞬にして難民になった現実に直面したのです。
マラカルに拠点を置いていたMSFもすべてを失い、国連基地内の片隅のテント1張で生活することになりました。気温50度以上、トイレもシャワーも食料もなく、飲料水はあっという間になくなり、空港が占拠されたために避難できず、物資援助も届きません。
そんな状況下に、戦闘被害を受けた多数の負傷者が運ばれてきたのです。何もない場所にテントを建てただけの、劣悪な環境の中での医療活動が始まりました。 全文を読む
シリア:"たる爆弾"は止まなかった——村田慎二郎(活動責任者として派遣)

最も憤りを覚えたのは、アレッポ市の人口密集地に政府軍が軍用ヘリコプターから投下していった"たる爆弾"により、2013年12月中旬から2014年1月末までの1ヵ月半の間に、市内だけで941人が殺害、5257人が負傷し、そのほとんどが一般市民だったことです。
私たちが医療物資の支援を行っていた、市内に20ある現地医療施設は完全にまひし、攻撃のため私たちの病院も2度移転せざるをえず、援助活動は困難を極めました。
2014年2月初旬、人びとはスイスで行われた2度目の「シリア和平会議」に停戦へのわずかな期待を抱きましたが、その国際会議が開かれていた5日間にも、アレッポ市では子ども73人を含む246人が"たる爆弾"により殺害されました。「何にも、期待できない。あなたたちだけだ」。"たる爆弾"により妻と自身の右脚を失い、MSFの病院に入院した私と同じ年の男性の言葉が、今でも胸に残っています。(『REACT 2015年6月号』より抜粋)
パレスチナ:戦時下に身を置くということ——田辺康(外科医として派遣)

その日の21時、MSFの宿舎近くで爆音がとどろき、「ズドン!」と地響きが続いた。5発、6発……皆の顔が青ざめる。一番安全な階下に集合。ベッドからマットを引きずり下ろし、ここで寝ることになった。"戦時体制"である。
私が活動しているER(救急救命室)には絶え間なく負傷者が運び込まれ、重傷者で埋め尽くされている。ロケット弾の爆風で身体が飛ばされ、破裂した爆弾の金属片が身体のあちこちを貫き、重度の熱傷を負った人びと。その多くに、骨折や内臓の損傷が見られる。血まみれの手術室。
上空のブーンという耳障りな音が絶えることはない。複数の無人偵察機が飛び回っているのだ。ガザから発射されるロケット弾は、爆裂音を残して遠ざかって行く。ガザへの着弾は、空気を引き裂く鋭い音に引き続いて、ごう音が鳴り響く。空気が振動し、ドアがバタンと音を立てる。そして、救急車のサイレンが鳴り響き、ERが負傷者でごった返すのだ。
最初は飛び上がるくらい驚いていたのに、いつの間にか、「ああ、またか!」と思うようになっていた。 全文を読む
MSFはなぜ紛争地で活動するのか
戦後70年を経て、日本からも多くのスタッフがMSFの活動に参加しています。彼らにとっても、この夏は自らの活動の意義を問い直す機会となりました。
鈴木基(内科医)
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私は広島市出身で、両親を含め多くの親族が被曝しています。しかし、小さいときに彼らの体験を聞く機会は、ほとんどといっていいほどありませんでした。学校で聞かされる話は暗く説教臭いものばかりで、生意気な思春期の子どもの耳にはうんざりでした。
しかし、紛争地などで荒廃した光景を目にし、その中でのごく普通の日常に触れたときに、何度も、自分の親しい人たちが当事者としてそこにいる姿が思い浮かぶという体験をしました。
そして、つい最近、初めて父の詳細な被爆体験を聞き、彼があえてその体験を子供たちに語ろうとしていなかったことを知って衝撃を受けました。いま私は、これから自分が何をすべきかについて考えているところです。
山本嘉昭(産婦人科医)
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私の両親は長崎の病院で原爆被害者の治療に当たっていたので、その現場の話を幼いころから聞いて育ちました。また、院長の伯父が途上国で数日間の医療援助を行ったときの話を今でも覚えており、今の私の活動の原点ではないかと思っています。
私はMSFの南スーダンでの活動に参加し、50年間にも及ぶ内戦が、すべての社会インフラや文化さえも破壊してきた状況を目にしました。
戦争の主な原因と思われる貧困に対して、人間としての愛情を示すことが、MSFだけではなく多くのNGO や国際団体の意義だと私は考えています。
河野暁子(臨床心理士)
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紛争が続くパレスチナとイエメンで活動し、臨床心理士として強く感じたことがあります。戦争は一度起きてしまえば、大勢の人が苦しみます。争いを終えることは難しく、人が人として生きる当たり前の権利が奪われていきます。被害者の怒りや憎しみは長く続き、新たな加害者を生みだすこともあります。このようなことをミッション中に目の当りにしてきました。
そこにMSFのような人道支援が入り、莫大なお金と労力と時間がつぎ込まれたとしても、対症療法的な関わりで人を支えることしかできません。それは人道支援に携わる者に無力感を抱かせます。できれば、この莫大なお金や労力や時間は、戦争を起こさせないために使われた方が、一度でも起きてしまった後に対処するよりもはるかに有益なのではないかと思うようになりました。
それでも、現実に起きている争いから目を背けることなく、関わり続けていたいと思います。中立の立場である私たちが目を背けてしまったら、争いの渦中にいる人々は、世界から見放されたと感じるでしょう。そのような諦めの気持ちは、争いをさらに長引かせることにつながっていくのかもしれません。