パレスチナ:ガザ、戦時下の救急救命室(ER)——MSF日本人外科医の報告
2014年09月01日
イスラエル軍とハマスの紛争が無期限停戦に至り、パレスチナ・ガザ地区の人びとは、日々の生活を取り戻しつつある。しかし、爆撃・砲撃で重傷を負った人の治療は今も続いている。国境なき医師団(MSF)日本から派遣した田辺康医師(外科)は、ガザ最大のシファ病院の救急救命室(ER)などで負傷者の治療にあたっている。
田辺医師が着任した8月中旬は、一時停戦中だった。そのまま戦闘が終結すれば、手術が後回しになっていた患者に対応する予定だった。
しかし、2014年8月19日、停戦合意が破られた。病院はあっという間に負傷者で埋め尽くされ、昼夜を問わず緊急手術が続く。その間も爆音は鳴り響き、建物が揺れるほどの地響きが起きる。ERで重傷者の手術を続けている田辺医師が、ガザの現状を報告する。
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戦闘再開、MSF宿舎でも爆音が……

イスラエル軍とハマスの一時停戦期間が延長に次ぐ延長となり、このまま収束するのでは、との楽観的見解が広がっていた8月19日の午後、状況は一変した。攻撃と報復が再び始まったのだ。海辺からは子どもたちの姿が消え、車の往来も途絶えた。
その日の21時、MSFの宿舎近くで爆音がとどろき、「ズドン!」と地響きが続いた。5発、6発……皆の顔が青ざめる。一番安全な階下に集合。ベッドからマットを引きずり下ろし、ここで寝ることになった。"戦時体制"である。
いつも冗談ばかり飛ばしているドイツ人のマイケルでさえも、険しい顔を崩さない。英国からの派遣で2日後には帰国するはずだったレイチェルと、ドイツ人の若く才気煥発(かんぱつ)なメディカルリファレンスのアリスは平静。優しく私の肩に触れ、大丈夫ね!と声をかけてくれる。メキシコ系アメリカ人のラモニは70歳の麻酔科医で、百戦錬磨の登山家でもある。病院では私の大切な相棒だ。彼は黙々とスマートフォンに向い、家族に情報を発信している。
私はと言えば、逃げ出すための荷物をいち早くまとめ、万が一のことを考えて家族と親しい知人にメールを慌ただしく発信したところで、やっと一息ついた。「こうなったら、サムライの国の代表として見苦しい姿は見せまい。せっかく医者になったのだから、可能な限り患者さんに寄り添おう!」
そう、楽観は覆されたのだ。爆撃で家を破壊された人びと、亡くなった人びと。イスラム教のモスクもことごとく破壊された。イスラエルによるガザ封鎖の状況下、地区外に逃げることも出来ない。まさに"監獄"の中で、なんとか生き延びてきたガザの人びと。彼らの戦闘終結への期待は粉々に打ち砕かれた。
手術を待たされている患者たち

戦闘が再開されてから一晩がたった。この間だけでも、爆撃音やロケット弾が少なくとも10回は鳴り響いただろうか。
幸い、MSFチームは皆たくましく、活気を保っている。戦闘が収束するかどうかでMSFの活動方針が変わる。収束すれば、紛争被害に遭った人びとや、戦闘で病院に行けなかった人びとのニーズに対応する予定だった。
外傷の初期治療だけが終わり、その後の治療やリハビリテーションを必要としている患者が多数いる。また、緊急度が低いということで手術の順番が後回しになっている患者も多い。そうした手術をこなしていく予定だったのだ。しかし、戦闘が続けば、次々に運びこまれてくる負傷者の対応に追われることになる。
負傷者で埋まる病院、周囲には避難者2000人

私は現在、ガザ最大の医療施設であるシファ病院で活動している。ベッド数が600床を超える近代的な総合病院だ。しかし、戦闘再開で総合病院としての機能に大きな影響が出ている。多数の負傷者に対応するため、外傷以外の患者は受け入れが制限され、治療が滞ったり転院を余儀なくされたりしているのだ。一方、 病院の敷地内には、家を失った2000人以上もの人びとがテントを張って滞在している。
ERには絶え間なく負傷者が運び込まれてくる。玄関にはテレビ局のカメラが陣取り、悲惨な現状を中継している。警察官も多数待機している。患者の家族が興奮し、ERがパニック状態に陥ることがあるからだ。
13床の集中治療室も、6室の手術室も、重傷者で埋め尽くされている。負傷の原因はロケット弾で、その外傷には特徴がある。高エネルギーの爆風で身体が飛ばされ、破裂した爆弾の金属片が身体のあちこちを貫き、重度の熱傷を負う。胸や首に大きなダメージを受けていれば、まず、病院にはたどり着けない。
手術室に運ばれてくる患者の多くに、四肢骨折と腹部臓器損傷が見られる。血まみれの手術室。若い命が手術台の上で力尽きる事もまれではない。
戦時下に身を置くということ

上空のブーンという耳障りな音が絶えることはない。複数のドローンと呼ばれる無人偵察機が飛び回っているのだ。こいつらは目を凝らしても、小さくて見ることができない。
ガザから発射されるロケット弾は、爆裂音を残して遠ざかって行く。ガザへの着弾は、空気を引き裂く鋭い音に引き続いて、ごう音が鳴り響く。時に空気が振動し、ドアがバタンと音を立てる。そして、救急車のサイレンが鳴り響き、ERが負傷者でごった返すのだ。
こんな事が昼も夜もなく、何度も繰り返されている。最初は飛び上がるくらい驚いていたのに、いつの間にか、「ああ、またか!」と思うようになっていた。感覚がまひしたのだろうか。
ガザの人びとは爆撃のたびに携帯電話を取り出す。家族や知人の安否を確かめているのだ。手術室看護師が言う。「ストレスたまってとってもつらいんだ。戦闘が起きるたびに病院に呼び出される。自宅に残してきた家族を心配しながら仕事しているんだ」
そして、再び停戦合意に

8月23日夕方、 病院の建物が地震のように揺れた。1回、2回。ガザで一番大きな14階建のマンションが、空爆で倒壊した瞬間だった。24日未明、再び激震が走り、今度はショッピングセンターの大きなビルが犠牲となった。
8月26日もひどい空爆だった。着弾が激しく、何度も街全体が揺れ動いた。ロケット弾の応酬は絶える事がなかった。夕方、情勢が一変した。19時に長期停戦が宣言されるとの情報が広がった。テレビやインターネットでニュースが伝わり、あちこちで歓声が上がった。
そして、ついにその瞬間。いつもはアザーン(イスラム教の礼拝の呼びかけ)を伝えるモスクから、悲痛な泣き声にも近い叫び声で停戦が伝えられた。人びとは街に繰り出し、祝砲がとどろく。空から銃弾が降ってくるので危険極まりない。興奮した叫び声や車のクラクションが響く。戦闘は終わった。
停戦直後から、救急救命室には銃創患者の搬入が相次いだ。祝砲の銃弾があたったのだ。1時間後、子ども2人と女性1人が亡くなった。
病院は休む間もなく、次のステージに移行しなければならない。負傷者の治療を続けつつ、なおざりにされていた患者の治療を再開しなければならない。身体のみならず、心に傷を負った人びとへの医療ニーズも高いだろう。身体の一部やその機能を失った多くの人へ、リハビリテーションや社会的支援を行うなど、山積する課題と重い負担がのしかかっている。