1971年の設立から50年以上にわたる、国境なき医師団の歩み
国境なき医師団(MSF)は1971年に、医師とジャーナリストによってフランスで設立されました。
1967 年にアフリカのナイジェリアで勃発したビアフラ戦争。2年半の内戦で、市民は食料補給路を断たれ、餓死を含め150万以上が亡くなる事態となりました。国際赤十字の援助活動に参加していたフランス人医師らは、非道な事態に強い憤りを覚え、国際赤十字のルールであった沈黙の原則を破って政府軍による市民への暴力を公に非難。世界に向けた抗議の声は、国際社会の反響を呼びました。
1971年12月22日、このフランス人医師らとジャーナリストら13 人によって国境なき医師団(Médecins Sans Frontières = MSF)が設立されました。以来50年にわたり、世界中で医療・人道援助活動を行うとともに、活動の現場で目撃した人道危機を社会に訴えています。
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1970~1980年代
設立から数年後、カンボジア難民の救援のために大規模な医療援助活動を開始。その後、内戦が激化する中東・レバノンに56人の医師・看護師を派遣し、初めて紛争地での活動を行った。80年代半ばのエチオピアの飢餓では大規模な栄養治療を実施し、軍事政権の不正を告発した。
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1975年 初の大規模な難民援助活動。物流・調達のターニングポイントに
ポル・ポト政権から逃れるカンボジア市民を援助するため、カンボジアとタイの国境の難民キャンプで、 国境なき医師団 (MSF) としては初の大規模な医療援助プログラムを立ち上げた。 この援助活動で、 医療活動をサポートする物資調達や資機材管理の重要性が明らかになった。 MSFの物流・調達のターニングポイントとなり、 緊急医療キットが考案された。
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1976年 紛争地における初めての援助活動を中東で開始
内戦が激化する中東・レバノンに56人の医師・看護師を派遣。紛争地における初の医療・人道援助活動を行う。チームは連日、砲弾や銃弾で負傷した患者、手足の骨折ややけどの患者の治療に当たった。レントゲンや人工呼吸器など、必要とする医療機器や輸血用血液の確保が限られる中、約7カ月にわたって5000人の負傷者を治療した。
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1980年 カンボジアで「生存のための行進」 援助活動を制限する政府に抗議
タイとカンボジアの国境で1978年にベトナムの軍隊がカンボジアに侵攻。後にベトナム当局が国境なき医師団(MSF)のカンボジアでの援助活動を妨害。そのことに抗議し「生存のための行進(March for Survival)」を実行した。MSFが行った、政府に対する最初の抗議活動となる。
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1984年 エチオピア飢餓、大規模な栄養治療を実施。軍事政権の不正を告発し、国外退去に
大干ばつと政府の失策により、エチオピアで約100万人が飢餓で命を落とした。国境なき医師団(MSF)は大規模な栄養治療を実施。一方、軍事政権は援助物資を横領し、地域住民を強制的に移住させるためにそれを利用していた。MSFは人道援助が政治的に利用されていることを告発。これにより、翌年MSFは国外退去を強いられた。
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1986年 物流センターと疫学研究組織を設立。高い効率性と専門性を追求
医療活動に必要な物資を調達・管理する物流センターとして、「MSFロジスティック」を設立。医薬品から、車両、発電機に至るまで管理し、現場への迅速な発送を可能にした。さらに、医療援助活動で集まった医学的データの分析や調査研究報告などを行う疫学研究組織「エピセンター」を設立。高い効率性に専門性を兼ね備えた医療・人道援助団体として成長していった。
1990年代
1990年に勃発した湾岸戦争では、難民となったクルド人への援助を実施。内戦で30万人以上が命を落としたソマリアでは、人道的支援を理由にした多国籍軍の軍事介入を非難。1999年、世界での先駆的な人道援助活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。
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1991年 湾岸戦争、過去最大規模の援助活動
1990年のイラクのクウェート侵攻により勃発した湾岸戦争とそれに続く内乱で、難民となったクルド人への援助活動を開始。国境なき医師団は、物資2000トンを運び、スタッフ150人と共にトルコ、イラン、ヨルダンで過去最大規模の援助活動を展開した。
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1992年 ソマリア、紛争下の医療・人道援助
ソマリアで1988年から続く内戦により30万人以上が死亡。第一次国際連合ソマリア活動が実施されるが状況が改善せず、人道的支援を理由に米国主導で武力行使を伴う多国籍軍がソマリアに派遣される。国境なき医師団は、こうした戦略の矛盾と過剰な軍事介入を非難。1992年には、国際社会に対して、飢餓の拡大も警告した。
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1994年 ルワンダ、武力介入を呼びかける異例の決断
ルワンダで民族大量虐殺(ジェノサイド)が発生。約3カ月間で少数派ツチ族ら80万人以上が組織的に殺害された。緊急援助を行い、残虐行為を目の当たりにした国境なき医師団は、「医師は虐殺を止められない」と、設立以来はじめて、国際社会に武力介入を求める異例の呼びかけを行った。
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1995年 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。民族虐殺の唯一の証言者に
1992年に旧ユーゴスラビア連邦のボスニア・ヘルツェゴビナの独立を機に民族間で紛争が勃発。紛争当初から現地で援助活動をしていた国境なき医師団は、ボスニア・ヘルツェゴビナの国連保護地域がセルビア人勢力の攻撃を受け、8000人以上の虐殺や強制移住が発生していることを国際的な唯一の証言者として報告書とともに国際社会に訴えた。
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1995年 第一次チェチェン紛争で医療援助
1994年12月、ロシア南部に位置するチェチェン共和国の首都グロズヌイにロシア軍の戦車が侵入し、第一次チェチェン紛争が勃発した。100万人の市民がロケット弾や機銃掃射の集中砲火の下に閉じ込められ、市街地が壊滅状態になる中、国境なき医師団のチームは医療・人道援助を開始。
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1998年 北朝鮮からの撤退。政府介入で、独立した活動継続が困難に
洪水により食糧事情の悪化した北朝鮮国内で援助活動を1995年に開始。北朝鮮政府の要請に基づき、食糧や医薬品の供給、栄養補給センターの設置や医療スタッフのトレーニングなどを実施した。しかし北朝鮮政府が援助プログラムに著しく介入し、援助物資が必要とする人びとに確実に届いているかを確認できなくなった。国境なき医師団は、活動原則に沿った独立した医療援助活動ができないとし、1998年に北朝鮮国内での活動を断念し撤退するという苦渋の決断をした。
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1999年 コソボ紛争。NATO軍による「人道的介入」を批判、資金提供を拒否
1998年にセルビアのコソボ自治州で、セルビア政府とアルバニア系住民の内戦が激化。アルバニア系住民の民族浄化の拡大を理由に、1999年3月に北大西洋条約機構(NATO)軍がセルビアに対し大規模な空爆を開始した。NATO軍は、多くの民間人が犠牲となった空爆を、人道目的として正当化した。国境なき医師団は、軍事介入を「人道的介入」とする発想を非難。近隣国に逃れた難民の援助を行うも、NATO加盟国からの資金提供を拒否した。
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1999年 ノーベル平和賞受賞。沈黙はしない、政治責任を強く求める姿勢を貫く
世界での先駆的な人道援助活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞。受賞記念スピーチの冒頭で、ロシア政府によるチェチェン市民に対する非人道行為の即時停止を訴えた。スピーチでは「言葉が常に命を救えるわけではありませんが、沈黙は確かに人を殺し得ます」と述べ、「国境なき医師団にとっての人道援助活動とは、苦痛を和らげる方法を探す、自治を回復する道を見つける、不正の真実を証言する、そして政治責任を強く求めること」と、団体としての姿勢を明確にした。
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1999年 「アクセス・キャンペーン」開始。薬がないために失われていく命に抗議の声
ノーベル平和賞の賞金を基に、「アクセス・キャンペーン」(旧名:必須医薬品キャンペーン)を開始。国境なき医師団が活動地で直面するのが、薬やワクチン、診断ツールなどが手に入らず失われていく命があること。高すぎる薬価の問題や、収益が伴わない治療薬が開発されない問題などを社会に訴え、医薬品の公平な普及を求めるアドボカシー活動を開始し、現在も続く。
2000年代
HIV/エイズの治療を多くの患者に届けられるよう、MSFはジェネリック薬(後発医薬品)を輸入して治療数の拡大に努めた。2003年のイラク戦争では、「テロとの戦い」のもと人道援助組織が攻撃の対象となる事態が起こった。スマトラ沖地震・津波、ハイチ大地震など自然災害における緊急対応にも当たった。
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2001年 HIV/エイズ治療を拡大
抗レトロウイルス薬(ARV)によるHIV感染者の治療をタイ、カンボジア、マラウイ、南アフリカ共和国(以下、南アフリカ)など7カ国で開始。1990年代後半に導入されたARV治療は、途上国では経済難で普及が進まない中、国境なき医師団はジェネリック薬(後発医薬品)を輸入し、治療数の拡大に努めた。
治療拡大には、医薬品を安価に入手するための法律を巡り、南アフリカ政府を訴えていた製薬企業39社が市民社会の批判から訴訟を取り下げ、ジェネリック薬の輸入を可能にする薬事法施行への道が開かれた背景がある。
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2002年 アンゴラ飢餓対応。人道援助の後回しを非難
アフリカ南西部のアンゴラで、政府軍と反政府勢力軍の間で停戦合意に関する覚書が署名され、27年間続いた内戦が終結。50万人が飢餓状態にあったため、国境なき医師団は40カ所に栄養治療センターを開設し、2200人以上のスタッフが活動を展開。国際社会からの援助が不十分な中、国際連合が人道援助よりも、戦後の政治的解決を優先していることを非難した。
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2003年 DNDiの創設パートナーに
国境なき医師団は設立以来、治療薬がなく顧みられない病気で命が失われている現状を目の当たりにしてきた。このことから、アフリカ睡眠病やシャーガス病、リーシュマニア症などの「顧みられない熱帯病」の薬や治療法の開発、普及に取り組む非営利組織であるDNDi(顧みられない病気の新薬開発イニシアティブ)の創設パートナーになる。
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2003年 イラク戦争、人道援助組織が攻撃対象に
米英などの多国籍軍がイラク侵攻を開始。戦争勃発の直後から、国境なき医師団(MSF)は、首都バグダッドをはじめ各地で緊急援助活動を展開した。米軍は援助機関を「テロに対抗する戦い」の一部を担うものと位置付ける発言を繰り返し、人道援助が軍事計画の一環であるようにみなされ始めた。こうした動きから人道援助組織が攻撃対象となり、MSFはスタッフの安全維持が不可能な状態に。翌年2004年11月、MSFはイラクでの活動の一時停止を決断した。
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2004年 アフガニスタンからの撤退。スタッフ5人が襲撃され犠牲に
2004年6月、国境なき医師団(MSF)のスタッフ5人が移動中に襲撃され死亡した。アフガニスタン当局はこの事件の対応を行わず、人道援助の従事者の安全確保に消極的な姿勢を示した。援助活動は、スタッフや患者の安全が確保されなければ継続できない。MSFは、同国13の州で80人の海外スタッフ、1400人の現地スタッフが実施していた医療プログラムを全て停止せざるを得ないと判断。1980年から24年にわたって行ってきた医療・人道援助活動から撤退した(後に2009年に活動を再開)。
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2004年 スマトラ沖地震・津波で援助。寄付の一部を返還、適正な資金規模に
12月、スマトラ沖地震と直後の大規模な津波で22万人以上が犠牲に。援助を行う国境なき医師団のもとには、災害発生から1週間で4000万ユーロ(約54億円)もの寄付金が世界中から届き、最終的に156億円以上に達した。災害援助の必要金額を超えたため、一部を他地域の活動へ振り替える承認を寄付者に求め、振り替えできない寄付は返還。援助の必要性に基づき資金規模を適正に維持する姿勢を貫いた。
200人以上の海外派遣スタッフを派遣し、約1年にわたってインドネシア、スリランカを中心に援助活動を行った。
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2005年 ニジェールで画期的な治療食を導入。子どもたちの栄養治療を変える
従来のトウモロコシ・大豆粉を与える栄養治療プログラムでは、成長期の幼児に必要な栄養素を十分に補えず期待通りの治療効果が出ていなかった。そこで国境なき医師団は、1袋当たり500キロカロリーで、ビタミンとミネラルが豊富なピーナツペースト状の高たんぱく栄養治療食を世界に先駆けて導入。ニジェールで6万人以上の栄養失調児の治療を実施し、9割以上の治癒率で効果を実証した。これにより、栄養治療のガイドラインを改訂し、入院方式から通院方式での治療に転換した。
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2009年 スリランカ内戦。市民の窮状を証言するか否か、ジレンマに直面
スリランカ政府と反政府勢力「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE )」との内戦で、多くの市民が巻き添えになった。スリランカ政府は、国際援助の活動や情報発信を制限。国境なき医師団(MSF)は、市民が犠牲になっている状況を伝えるか否か多くの議論を重ねた。証言すれば政府により国外へ追放され、援助の届かない人びとを救うことができないことから、一時的に政府の要求を承諾し、証言を控える苦渋の選択をした。
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2009年 スーダン、ダルフール紛争。スタッフの拉致、政府による国外退去命令
2003年、アフリカ・スーダン西部のダルフールで政府・アラブ系民兵と、反政府勢力の本格的な武力衝突が勃発。同年12月、国境なき医師団(MSF)は、高まる医療ニーズに応じるためダルフールでの援助活動を開始。 2006年には死者約30万人、難民・避難民約200万人という人道危機へと発展した。
2009年、国際刑事裁判所(ICC)が人道に対する犯罪および戦争犯罪の容疑でバシール大統領に対する逮捕状を出した。スーダン政府は、MSFがICCに協力しているという誤った情報を根拠に、多くのMSFスタッフに対し国外への強制退去を命令。スタッフが拉致される事件も発生した。活動の一部を停止せざるを得ない中、残るチームで援助を継続し、12万9000件の診療と、現地診療所の援助を行った。
2010年代
東日本大震災では発生の翌日から被災地に入り医療援助を提供した。内戦が激化したシリアでは、高まる医療ニーズに対応すべく援助活動を展開。西アフリカで流行したエボラ出血熱では前例のない規模で対応。2015年にはアフガニスタンの病院が米国による空爆を受け、紛争下の病院への攻撃を強く非難した。
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2010年 ハイチ大地震。活動史上最大規模の緊急医療援助
1月12日(現地時間)、マグニチュード7.0の大地震が発生、31万人以上が死亡し150万人が家を失った。国境なき医師団は24時間以内に緊急医療援助を開始、活動開始から最大規模の援助となり35万人以上を診療した。10月からはコレラが流行したため、全国50カ所にコレラ治療施設を開設し、数百人のスタッフを動員して11万人以上の治療を行った。
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2010年 パキスタン洪水。他団体が入れない地域での援助も
7月下旬からの集中豪雨による大洪水は、パキスタンのほぼ全土に壊滅的な被害をもたらした。資金の独立性を維持する国境なき医師団(MSF)しか援助に入れない地域もあった。MSFは被災者のニーズに即座に対応し、12月までに8万人以上を診療。約200万リットルの清潔な水と約6万5000セットの救援物資を配布した。
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2011年 東日本大震災。緊急医療援助を開始
3月11日に発生した東日本大震災の翌日から、国境なき医師団(MSF)は被災地に入り、特に医療の届いていない地域で緊急援助活動を開始。避難所での移動診療から、被災者の心のケア、物資や通院用バスの提供、仮設診療所や仮設住宅の建設などを行った。4356件の診療を行ったほか、毛布4030枚、飲用水6500リットルなどを配布した。
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2012年 シリア内戦。医療・人道援助の継続危機に直面
2011年、多くのシリア人が民主化を求めて行ったデモ運動が大規模な抗議運動に発展。アサド政権が民主化運動を徹底的に弾圧し始め、やがて武力紛争へと激化していった。国境なき医師団は2012年、政府の支配地域での援助活動が認められない中、高まり続ける医療ニーズに対応すべく、シリア北部で医療・人道援助活動を開始。紛争で多くの医療機関が破壊されたため、学校や養鶏場、建物の地下室などに医療設備を配置し、外傷のケアや手術を中心に救急医療を提供した。さまざまな勢力が介入する中、2014年には、外国人派遣スタッフ5人が拉致・拘束される事件が発生。過激派組織「イスラム国」が支配する地域での活動中止と、シリア北西部からの外国人派遣スタッフの避難を余儀なくされた。
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2013年 ソマリアからの撤退、22年の活動に終止符
内戦が勃発した1991年以来、無政府状態が続いたソマリアでは、紛争や干ばつ被害が重なり、深刻な人道危機に直面していた。人道援助団体のスタッフへの襲撃、拉致、殺害が容認される風潮が強まったことから、国境なき医師団は武装警護を導入するという異例の措置に踏み切った。しかし、1991年の活動開始から2013年までに、合計16人のスタッフが殺害され、最低限の安全を保障できなくなったことから、22年に及ぶ医療・人道援助活動を終了し撤退することを決断。これにより何十万人ものソマリア人が人道援助を受けられなくなることから、「今回の撤退決定は、国境なき医師団の最も悔やまれる歴史の一部になった」と会長のウンニ・カルナカラは述べた。その後、ソマリアでの援助活動再開までに4年の歳月を要し、2017年に栄養治療プログラムと小児科治療を再開した。
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2014年 エボラ出血熱、前例のない規模の流行に対応。国際的な対応の遅れを批判
3月22日、西アフリカのギニアでエボラ出血熱が公式発表され、前例のない規模で流行。
西アフリカの6つの国で、500人以上の医療スタッフを含む1万1300人以上が犠牲となった。
国境なき医師団は、流行のピーク時に海外派遣スタッフ320人以上を派遣し、約4000人の現地スタッフと共に対応。専門の治療施設を開設し、計1万376人の患者を受け入れた。
うち5226人が感染者であることを確認した。
世界保健機関(WHO)を含む国際的な対応の遅れに対し、厳しく批判する内容の報告書を発表した。 -
2015年 イエメン、激化する紛争
ハディ暫定政権と反政府勢力のフーシ派との衝突により内戦に突入したイエメン、さらに政権を支援するサウジアラビアと、反政府勢力を支援するイランの軍事介入で内戦は泥沼化へ。無差別攻撃によって負傷した多くの一般市民が国境なき医師団(MSF)の病院に運び込まれた。2015年10月には、サウジアラビア主導の連合軍により、MSFが援助する病院が空爆を受け全壊した。その後も国内各地で医療施設への爆撃が続く。2017年にはコレラが大規模に流行し、公的な医療がほぼ機能していない中、MSFは対応に追われた。
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2015年 地中海で救助活動を開始、活動史上初の海難捜査
紛争などの危機から逃れるため、中東やアフリカから救命胴衣もつけず命がけで地中海を渡り、欧州を目指す人びとが後を絶たない。海難者の急増を受け、2015年5月、国境なき医師団(MSF)は他のNGOと連携し、史上初の地中海での海難捜索・救助活動を開始した。年末までの約8カ月間で計2万129人を救助。一方で、多くの溺死者や行方不明者がいた。こうした人命喪失は許されないと、MSFは欧州各国の政府に人命優先の支援を訴えた。
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2015年 アフガニスタン、紛争地で命を救う場所に降りそそぐ爆弾
10月3日、アフガニスタン北部のクンドゥーズ州で、国境なき医師団(MSF)の外傷センターが米国による空爆を受け全壊、患者とスタッフ42人が命を落とした。人口100万人以上のクンドゥーズ州で唯一の高度な外科治療を行っていたが、この攻撃で地域住民から医療が奪われた。2015年だけで、イエメンやシリアなど紛争地におけるMSF関連の医療施設への砲爆撃は75件106回に上った。
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2016年 国連決議を全会一致で採択。紛争下で医療は攻撃されてはならない
5月3日、国連安全保障理事会(国連安保理)が、紛争下の病院への攻撃を強く非難し、全ての紛争当事者に対して医療・人道援助活動の安全確保を要求する決議第2286号を全会一致で採択。同会合で、国境なき医師団(MSF)の会長のジョアンヌ・リューが「医療は命がけの仕事であってはならない。患者は病床で攻撃されてはならない」と訴えた。MSFは9月28日にも国連安保理の会合に招かれた。決議が実行されない事態を受け、連合国として戦闘に加わっている国連加盟国や、それらを支持する国々に政治的意志が欠落していると非難。直ちに決議を実行に移すよう強く求めた。
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2016年 EU諸機関および加盟国からの資金受給を停止。難民・移民の抑止政策に反対
国境なき医師団(MSF)は6月、欧州連合(EU)の諸機関、および加盟国からの資金受給の停止を発表した。これは、EUおよび加盟国が難民や移民に対して強硬な抑止政策を強めていることに反対を示すもので、世界中の援助活動においてEUからの資金拠出を受けないことを決定した。前年の2015年は5600万ユーロ(約66億円)を受給していたが、2016年分から受給を停止した。これ以前から、MSFの活動資金の9割以上は民間からの寄付で支えられており、医療ニーズに基づく独立した援助活動を可能にしている。
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2017年 ロヒンギャ難民危機。1カ月間で6700人が殺害されたと発表
8月25日以降、ミャンマー西部ラカイン州からイスラム系少数民族ロヒンギャがバングラデシュに一斉に避難。国境なき医師団は、難民キャンプの医療体制を大幅に拡充し、プライマリ・ヘルス、性暴力被害、感染症などの対策を実施。さらに難民への聞き取り調査を行い、2017年8月25日からの1カ月間で、少なくとも9000人のロヒンギャがミャンマー西部ラカイン州で死亡、うち少なくとも6700人が殺害されたとの推計を発表した。暴力が原因の死者のうち少なくとも730人は5歳未満の子どもだった。ミャンマー政府が発表した死者数約400人を大きく上回る証言となった。
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2018年 エボラ出血熱と紛争。はしか流行の同時対応で前例のない事態に
8月1日にコンゴ民主共和国政府は10回目のエボラ出血熱の流行を発表。長年の紛争で住民が大規模な避難を余儀なくされる中、エボラ出血熱の流行に加え、過去最悪のはしかの流行が同時に発生。2019年には31万人以上がはしかに感染、6000人以上が死亡した。さらに流行地域ではエボラ治療に対する根強い不信感から、国境なき医師団(MSF)の治療センターが襲撃されるなど援助活動は困難を極めた。高まる医療ニーズに、MSFは国際社会に援助拡大を呼びかけた。
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2018年 パレスチナで「帰還の行進」。軍による非人道的行為を非難、患者搬送の自由を
中東パレスチナのガザ地区で3月30日、パレスチナ難民の帰還を求めるデモ行進にイスラエル軍が発砲。イスラエル軍はガザとイスラエルを分離するフェンスに近づく者は、誰でも合法的な軍事標的だとして実弾による銃撃を正当化し繰り返し発砲。7週間足らずで約3600人が負傷し、102人が死亡した。国境なき医師団は、約7週間で680人以上の重傷患者を治療し、930人以上の術後ケアにあたった。援助体制を3倍に拡大するも、10年以上封鎖されたガザで高まる医療ニーズに追い付かず、イスラエルとパレスチナ当局に医療活動や患者搬送の自由を求め、周辺国や国際社会には資金援助や外科治療体制の提供を求めた。
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2018年 人命を最優先にした政策議論を
12月、政府間による「国連移住グローバル・コンパクト採択会合」に国境なき医師団(MSF)の会長ジョアンヌ・リューが出席し、各国で実施されている移民や難民を締め出す政策に強い懸念を示した。生きるために暴力から逃れる人びとが、世界のさまざまな場所で非人道的な移民政策によって過酷な環境に留め置かれている現実を訴えた。地中海での救助活動をはじめ、
MSFの人道援助活動が政治的な妨害や法的な嫌がらせ、暴力を受けている実情を伝え、
「命を救うことは犯罪ではない」と主張。各国政府に人命を最優先にした政策議論を求めた。 -
2019年 南アフリカでHIV対策。1年早く国際目標を達成、地域密着型の活動による成果
南アフリカ東南部クワズル・ナタール州エショウエで、国境なき医師団(MSF)による地域密着型HIV・結核プロジェクトが、国連合同エイズ計画(UNAIDS)の定めるHIVの流行を抑える目標値を期限である2020年よりも1年早く達成した。国際目標 の「90-90-90目標」は、①HIV感染者の90%以上が自身の状況を把握すること、②診断を受けた感染者の90%以上が抗レトロウイルス薬(ARV)による治療を受けること、③ARV治療を受けた感染者の90%以上でウイルス抑制すること。これに対し、MSFのプロジェクトは「90-94-95」の成果を上げた。一貫した地域コミュニティの関与によってHIV対策の成果を上げられることを実証した。
2020年代
アフガニスタンでMSFが援助する産科病棟が襲撃され、病院にいた妊産婦らの命が奪われた。新型コロナウイルス感染症の流行拡大に伴い、世界各地で緊急医療援助活動を展開。合わせて、世界にワクチンや物資の公平な供給を訴えた。
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2020年 アフガニスタン、産科病棟の襲撃で妊産婦ら死亡。活動中止の苦渋の決断
アフガニスタンの首都カブールで5月12日、国境なき医師団(MSF)が援助するダシュ・バルチ産科病棟が襲撃され、16人の母親、7歳と8歳の子ども、助産師1人が命を奪われた。2019年には同産科病棟で約1万6000件の分娩を介助し、MSFにとって世界最大級の産科プロジェクトであったが、同様の攻撃の可能性があることから、活動中止という苦渋の決断をした。
武力によってMSFを活動中止に追い込んだ襲撃は、この地域で暮らす女性と新生児から必要とする医療を奪った。 過去16年間にアフガニスタンでは、MSFのスタッフや治療していた患者など70人以上が殺害されている。
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2020年 新型コロナウイルス感染症。世界各地で緊急医療援助活動を展開
2020年1月に香港で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の対応活動を開始。世界各地での感染拡大に伴い、医療機関における感染予防・制御に関する取り組みをはじめ、専門の治療センターの設置、感染者の治療、感染予防のための健康教育など、幅広い活動を実施。特に医療や衛生面が脆弱な環境に暮らす難民や避難民など、弱い立場に置かれた人びとへの援助に力を入れてきた。入国制限などのため、現地に派遣するスタッフ数が前年よりも一時期7割も減少して追加人員を派遣できなくなったり、医療用防護具など物資の供給不足が発生したりするなど困難な状況も発生した。
国境なき医師団は、新型コロナウイルスのワクチンや治療薬などが、あらゆる人びとに公平に行きわたる、各国政府をはじめとした国際社会に訴えている。
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2021年 エチオピア、州の7割以上の医療施設が攻撃被害。一部活動停止に
エチオピア北部のティグレ州で、政府軍とティグレ人民解放戦線の戦闘が2020年11月から激化し、多くの市民が避難を強いられた。こうした人道危機の中、医療への攻撃が意図的に行われ、州内の医療施設の73%が略奪や破壊の被害に遭った。救急車が武装集団に襲われ、患者の搬送もできず、医療システムは機能不全に陥った。
国境なき医師団(MSF)は国内避難民や難民に緊急援助を提供したが、 6月、同州で活動中だったMSFのスタッフ3人が殺害され、一部の活動を停止。事件の即時調査を求めるとともに、紛争下で医療施設と医療スタッフを守る国際人道法の遵守を求めた。
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2021年 アフガニスタン、政変でも貫く援助。5つの州で継続
2021年5月以降、政府軍と武装勢力タリバンの間で戦闘が激しさを増し、各地で銃撃や爆撃による死傷者が増加。数十万人が避難を余儀なくされた。国境なき医師団(MSF)は5つの州で現地の人びとの医療ニーズに対応したが、医療を必要とする人びとが戦闘を恐れて病院に来られない状況が続いた。
8月15日にタリバンが全土を制圧し政権を奪還すると、欧米などからの資金援助が停止され、それらの資金に頼っていた多くの病院が閉鎖に追い込まれた。医療崩壊の危機に直面する中、MSFは活動を続けるとともに、国際社会の支援継続を強く訴えた。
これまでに実施した主なキャンペーン
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設立50年「私たちは声を上げる。」
(2021年) -
「いまこそ、国境を越える想像力を。」
(2020年) -
「エンドレスジャーニー ~終わらせたい、強いられた旅路~」
(2019年) -
「答えは変えられる」
(2019年) -
「病院を撃つな」
(2016年)
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