海外派遣スタッフ体験談

戦闘下の南スーダンで見た過酷な現実

白川 優子

ポジション
正看護師
派遣国
南スーダン
活動地域
マラカル
派遣期間
2014年2月~2014年4月

Q国境なき医師団(MSF)の海外派遣に再び参加しようと思ったのはなぜですか?また、今回の派遣を考えたタイミングはいつですか?

長い夢を追って2010年にMSFの初参加を果たし、初回派遣のスリランカで素晴らしい経験をして以来、これからもMSFの活動を続けていくと決断しました。

今回で派遣歴が6回目となった今でもその気持ちは変わらず、MSFの活動優先の生活をしています。派遣依頼が来たときが、私の派遣のタイミングです。

Q派遣までの間、どのように過ごしましたか? どのような準備をしましたか?

MSFの派遣までの間はだいたい、短期の看護師の仕事や医療通訳の仕事などをしていますが、帰国直後や、派遣出発前は何もせずにゆっくりと過ごしています。特別な準備は特にしていないです。

Q過去の派遣経験は、今回の活動にどのように活かせましたか? どのような経験が役に立ちましたか?

今回の派遣に限っては、過去にMSFの経験が何回もあって良かったと思っています。南スーダンのマラカルで急に戦闘が起こり、家も病院もすべてを失った患者さんを、MSFも物資や薬剤をほとんど失ってしまった状態で、救出や治療を行う事になりました。

この究極な緊張と過酷な状況の中で、チームが一体となって冷静で柔軟な活動ができたのは、過去のMSFでの経験の積み重ねが生きたのだと思っています。こんなに過酷な活動経験は後にも先にもないと思っていますが、今までの紛争地での生活経験、戦争外科治療の経験はすべて役に立ちましたし、逆にそのような経験がなかったら、今回はここまで冷静に対応ができたかどうか分かりません。

Q今回参加した海外派遣はどのようなプログラムですか?また、具体的にどのような業務をしていたのですか?
ボートでへき地の住民に医療を届けるアウトリーチ活動 ボートでへき地の住民に医療を届けるアウトリーチ活動

もともとは、マラカルの街で現地の病院をサポートするチームと、ナイル川を下ってへき地に住む人びとの援助をするアウトリーチ・チームの2つに分かれて活動をしていました。私はアウトリーチ・チームのメンバーとして派遣され、医療用具を積んだボートで毎日へき地に出向いて僻地住民の援助をしていました。

へき地では、子どもの栄養失調や、カラアザール、マラリアなど現地特有の病気を含めたあらゆる内科系疾患への対応と、またアウトリーチのメンバーには助産師もいましたので産科の援助を行っていました。

ところが、私が到着して間もなく状況が一変、マラカルの街で激しい戦闘が始まってしまい、MSFのようなNGOを含め、マラカルで暮らしていたすべての住民が家を失いました。15万人の一般市民が一瞬にして難民になってしまったのを目撃したのです。

テント1つで始まった外科活動 テント1つで始まった外科活動

MSFのスタッフもすべてを失い、国連基地内の隅の何もない土地にテント1つで生活する事になりました。摂氏50度以上の気温、トイレもシャワーも食料もなく、飲料水はあっという間になくなり、空港が占拠されたために避難の道も、首都からの物資援助の道も絶たれました。

戦闘犠牲者が続出し、この日から連日、外科活動となりました。私はもともと外科系看護師だったのが幸い役立ちましたが、ほかの医療チームメンバーは助産師と内科医のみで、MSFではこの3人が医療の中心となって活動を行っていました。

まったく何もない場所に患者用のテントを建てただけの、劣悪な環境の中での医療活動でした。今すぐ点滴が必要な患者がたくさんいるのに、数少ない点滴が50度以上の気温のせいで中身が熱くなってしまい、患者さんにはとうてい投与できないような状況でした。怪我のひどさもですが、この日射のせいで患者さんがどんどん弱っていきました。 怪我人に対応する傍ら、MSFは2台のジープで、まだ完全に安全が確認されていない街に戻っていきました。国連基地から出た瞬間から、私たちが目にした光景は凄まじいものでした。道に横たわる多くの遺体、それに群がる動物たち。15万人が数日前まで幸せに暮らしていた街は破壊され、焼かれていました。

MSFが援助していた病院は、もはやかつての病院ではありませんでした。チーム5人で手分けして、荒れ果てた病棟のすべてをまわり、生存者を探しまわりました。容赦ない50度以上の気温、いつ兵士に遭遇するかもしれないという緊張、まさに体力と精神力と時間との勝負でした。

マラカルでは病院も攻撃され、多くの犠牲者が出た。 マラカルでは病院も攻撃され、多くの犠牲者が出た。

そんな状況でも、病院には生存者はいたのです。小児科病棟は破壊されただけでなく、焼かれていました。子どもの遺体もありました。この日から連日、生存者を国連基地内に運び、最終的に数十人を救出しました。

ある日、戦闘前まで一緒に働いていた南スーダンの現地スタッフが生きて私たちの目の前に現れました。彼は街の教会に隠れていて、そこにはまだたくさんの人が隠れているとの事でした。

早速、現場へ出向いたところ、教会には確かにたくさんの人がいましたが、人数が多かったのと、この時期からマラカルでの戦闘が終わったと思われていたので、国連基地から毎日教会に出向いて医療援助をすることにして、翌日から援助をスタートする計画でした。

ところが、翌日に出向いてみると教会はほぼ空っぽになっていました。前夜に兵士たちによる強奪とレイプ、誘拐があったからです。一般市民はこうして家を失い、家族を目の前で殺され、強奪されレイプされ、みんな、みんな傷ついていました。

約2万人の避難民が国連内に収容されましたが、怪我で傷ついていなくても、暑さと劣悪な環境のために市民は脱水で弱っていき、少しの下痢も命取りとなる状況でしたので、特に老人の衰弱には気を付けて治療を行っていました。

キャンプ内で栄養失調アセスメントを行う筆者 キャンプ内で栄養失調アセスメントを行う筆者

またキャンプ内で子どもの栄養失調が目立ってきて、私たちは手分けしてキャンプ内に入り栄養状態のアセスメントを行いました。

後に空港が解放され、MSFに人材と薬剤・物資が届くようになり、またロジスティック・チームが大きなテント病院を建ててくれたので、ようやく、薬剤も物資も揃うきちんとした環境で医療援助ができるようになりました。ここまでに、戦闘開始から1ヵ月以上かかりました。

また、雨季が近づくとMSFの予防接種チームが到着し、水と衛生の整わないキャンプで暮らす避難民に対し、コレラ予防のためワクチンの投与を行ったほか、蔓延に備えてコレラセンターも設置が完了しました。

かつて行っていたアウトリーチ活動も再開し、改めてアウトリーチ・チームも派遣されてきました。援助先の僻地での患者数があまりにも膨大なため、そちらでも新たに病院を作って、栄養失調をはじめとする避難民の援助を始めました。当初は5人で始めた活動でしたが、私の活動期間が終了するころにはメンバーが15人以上になり、チーム一丸となってそれぞれの役割を担っていました。

Q派遣先ではどんな勤務スケジュールでしたか?また、勤務外の時間はどのように過ごしましたか?

戦闘中は、その時々で柔軟に動くしかありませんでした。負傷者の対応をしながらも、自分たちに危険が及びそうな時は「バンカー」と呼ばれる防空壕のような場所に逃げ込む事も、1日に何回もありました。

MSFの病院が建てられ、入院人数も何十人もいて忙しかったですが、難民キャンプの中から現地の看護師を雇って24時間体制で病院を回していました。

私たちは日中を病院で過ごし、夜は交代でオンコールをしていました。私は病院での看護活動の他に薬剤・物資の管理を含むいろいろな業務をしていて流動的に動いていましたので、固定したスケジュールはありませんでした。

戦闘状況が落ち着いてからは、勤務時間外はチームメンバーと楽しく過ごす余裕ができてきました。また、ほかのNGOもたくさん入っていましたので、みんなで料理や飲み物を持ち寄って夜は楽しく交流しながら過ごしていました。

Q現地での住居環境についておしえてください。

とてもワイルドなテント内の生活でした。初めはトイレもシャワーも使えずに、また水もなかったので、ほかのNGOがナイル川から汲んできた水を分けてもらっていました。

その水を節約しながら体を拭き、洗濯に使っていました。当時は、その茶色の水に塩素の錠剤を入れて飲んでさえいました。昼間は、水は水ではなく「熱湯」でしたので、夕方涼しくなってからでないと触れませんでした。

空港が占拠されて初めの2週間は、避難時に持ってきたビスケットとイワシの缶詰、日持ちのするニンジンなどで乗り切りました。私は8キロ痩せ、一緒にいた内科医は1週間ごとに新たなベルトの穴を開けていました。

国連基地内に食堂があるのですが、戦闘中当時は大量の負傷患者の対応に追われていたために、食堂に行く時間はありませんでした。なにしろ猛暑だったので、飲んでも飲んでも汗で出てしまい、5リットルの水分を飲んでもトイレに行くのは1日に1回程度でした。

空港が解放されてからはとても環境が良くなりました。水・食料も届き、また当時は使えなかったシャワーとトイレは、国連スタッフとほかのNGOの人たちと共同ですが、使わせてもらえるようになりました。

空港が解放された事で環境は生活も医療活動も改善されました。私も、8キロ痩せてしまった体重のうち6キロは、食料が手に入るようになってからすぐに戻り、残りも帰国時には無事にほとんど戻りました。

Q活動中、印象に残っていることを教えてください。
戦闘により一瞬にして難民となってしまった市民 戦闘により一瞬にして難民となってしまった市民

紛争地での活動は過去に何回も経験していたにも関わらず、今まではいつも手術室の中で活動していたために、ここまで一般市民の犠牲を目の当たりにする事は初めてでした。

マラカル市内での戦闘は兵士たちにとっては終了したのかもしれませんが、その戦闘のために一瞬にして難民となってしまった一般市民の悲惨な生活を、毎日目撃していました。

国連基地内にかくまわれたとはいえ、棒切れとあらゆる布を繋ぎ合わせただけの住居。炎天下の中、倒れそうになりながらも生きるために重たい水を運び、少ない食料配布の行列に何時間も並ぶ市民たち。

栄養失調の子どもに配る食料を、やはり空腹で苦しむ親が食べてしまったり、更なる食料確保のために売られてしまったりもしていました。戦闘が、このように悲しく一般市民を追い込んでいってしまう現実を、私は初めて目撃してしまいました。

医療援助だけではなく、このような現実を目撃した者として、世間に証言していかなくては、と改めて思いました。

Q今後の展望は?

縁があり、2014年6月からMSF日本事務局のリクルーター(海外派遣スタッフの採用業務担当)として働く事になりました。派遣活動を続けたいという気持ちはもちろんありますが、MSFが私のような海外派遣スタッフをもっと必要としているのも事実です。引き受けた仕事を責任もって頑張っていくつもりです。

Q今後海外派遣を希望する方々に一言アドバイス

過去にも数回、派遣者の声を書いていますので、そちらも参考にして下さい。

多くの人が語学やキャリア、ご家族からの理解の壁などで参加を躊躇している事かと思います。世界には命の危機にあるにも関わらず、最低限の医療さえ追いついていない場所がたくさんあります。このような危機の中にいる人たちに対し、日本という恵まれた医療世界の中で培った知識・技術を直接届けたいという強い思いを持ち続けていれば、参加するにあたっての壁は乗り越えられるでしょう。

MSF派遣履歴

  • 派遣期間:2013年6月~2013年9月
  • 派遣国:シリア
  • プログラム地域:-
  • ポジション:手術室看護師
  • 派遣期間:2012年9月~2012年12月
  • 派遣国:シリア
  • プログラム地域:—
  • ポジション:手術室看護師
  • 派遣期間:2012年6月~2012年8月
  • 派遣国:イエメン
  • プログラム地域:アデン
  • ポジション:手術室看護師
  • 派遣期間:2011年7月~2012年1月
  • 派遣国:パキスタン
  • プログラム地域:ペシャワール
  • ポジション:手術室看護師
  • 派遣期間:2010年8月~2011年4月
  • 派遣国:スリランカ
  • プログラム地域:ポイント・ペドロ
  • ポジション:手術室看護師

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