南スーダン:治療中に戦闘が!——MSF医師の勇気と決断
2016年03月09日
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危険はそこまで迫っていたが……

銃声が近づき、メンデス医師は顔を上げた。窓の外に、患者とスタッフがMSF宿舎内の指定安全区域に向かって走っている姿が見えた。それでもなお、彼女は治療を続けた。流れ弾を避けるために病棟の床に座り、子どもの母親の隣で姿勢を低くして。
ぎりぎりまで治療を続けていたが、もう危険はそこまで迫っていた。ついに、メンデス医師も指定安全区域に駆け込んだ。区域内に着いた瞬間、弾丸が風を切って飛んで来る音が間近に聞こえた。
重火器の音までが迫ってきて、十字砲火に巻き込まれる危険が現実になりかけたとき、MSFチームは町の反対側にある国連基地への避難を開始した。病院の正門前に手配した車に、そこまでたどりついた患者も飛び乗り、一行は脱出した。が、メンデス医師が治療していた男の子は、いなかった。
立ち止まっている時間はない

戦闘は2016年2月23日から25日まで続いた。避難から1週間後の国連基地。メンデス医師は断腸の思いに苦しんでいた。戦闘が迫る混乱のなかで患者を置き去りにした——恐怖に満ちた体験をしたことよりも、そのことがひどくつらいことだった。
ただ、個人的な感情とは別に、メンデス医師を含むMSFチームは、国連基地に到着してすぐ、負傷者の治療支援を始めた。患者の1人は6歳の男の子で、腹部に銃弾を受け、重体だった。医師らは最善を尽くしたがかなわず、男の子は翌日亡くなった。ただ、そのほかの負傷者35人は一命をとりとめた。
地域医療の拠点病院も略奪の標的に

MSFチームが懸命に負傷者の治療にあたっていたころ、ピボールのMSF病院は何もかも略奪されて使用不能になっていた。この地域の医療を10年以上も支え続けた病院が崩壊した。
病棟の天井に設置していた扇風機、電子機器、燃料などが奪われ、栄養失調児の治療に使う栄養治療食もすべて盗まれていた。少しでも価値があり、ボルトで床に固定されていなかったものは、根こそぎ持ち去られていた。メンデス医師が治療していたあの男の子のベッドさえも……。
国連基地内へ避難してからしばらく経ち、戦闘が収まってから病院に戻ったMSFチームが見たものは、宿舎全体に散乱した薬きょう、辺り一面にばらまかれていた救命薬やカルテ、ひっくり返されたキャビネットや棚……。正気の沙汰とは思えなかった。
戦闘のショックで早期陣痛が多発
ただ、避難中は病院の略奪を気にしている時間さえもなかった。MSFチームは国連基地内で活動を続け、患者の治療を最優先とした。戦闘直後の数日間、多くの妊婦に早期陣痛が来て、MSFの医師と助産師は早産を防ぐためにかかりきりになった。早産は合併症や死産につながることさえあるからだ。
国連基地内の避難者は約2000人。子どもと女性が大半だ。トイレは350人に1つしかなく、水は1人分が1日あたりわずか1.5リットル、食糧の配給はない。それでも人びとはここにとどまっている。外へ出る恐怖もあるが、自宅は略奪されてもう何も残っていないだろうと諦めているからだ。
「食べ物はもう、それしかなかったのに」

MSF診療所の待合室で、メアリーさんは「持ち出せたのはポリタンク1つだけよ」と口を開いた。急ごしらえで、必要最低限の機能しかないこの診療所に、2歳になるダヴィド君を連れてきていた。ダヴィド君は体調を崩していた。
メアリーさんの一家は6人家族で暮らしていたが、家屋は焼かれ、家財はすべて略奪された。国連基地に避難した一家は、とにかく何らかの仮住まいを確保するために、ビニールシートをわけてもらえないかとあちこちで懇願しなければならなかった。一家の先行きはまったく見えない。「新しい家を建てる材料さえないのよ」とメアリーさんはため息をついた。
その隣で、ヤヨさんも身の上を話し始めた。腕には2歳のジュアンちゃんを抱いている。飲料水がどうしても手に入らず、やむにやまれず川の水を飲ませたところ、下痢を発症したのだ。ヤヨさんの家屋は焼かれずに済んだが、家財は全て略奪された。衣服も、主食のソルガム(注:モロコシ、コーリャンとも言う)の最後の1袋も。一家の食べ物はもう、それしかなかったのに。
MSF診療所にやってきた少年

ピボールは人口約4万人だが、戦闘発生で数千人が脱出した。国連基地だけでなく、ブッシュの中に逃げ込んだ人も多い。戦闘の数日後、国連基地とは別の場所にある国連民間人保護区域に、少年がやってきた。隠れていたブッシュを出て、MSF診療所を目指してきたのだ。少年は足首を蛇にかまれていた。傷はすでに壊死していたため、MSFのヘンリク・ボンテ医師が感染組織除去手術を行った。
少年は蛇にかまれた後も数日、ブッシュに隠れていた。町に戻って助けを求めることは怖くてできなかったのだ。他にも2人の子どもがやってきた。いずれもブッシュに隠れていたという。数日前から重度のけいれんが起きていたが、危険が去ったと思えるまで隠れ場所から出られなかったのだ。
ピボールには現在、大部隊が進駐し、町中が武器だらけだ。あちこちで家屋が焼かれ、焼け焦げた基礎部分から黒こげの柱が突き出ている。ピボールは地域最大の商業都市で、市民の多くは商業で生計を立てていた。商業の町の象徴だったトタン屋根の商店街は、そのほとんどが破壊または焼失した。略奪された店の裏では、黒こげの遺体がほこりまみれで放置されたままとなっている。
多忙な日々、再会、そして……医師の祈り
国連基地に話を戻そう。メンデス医師は1歳の女の子を受け持った。合併症を伴うマラリアからはようやく回復してきたが、重度栄養失調に陥っていた。メンデス医師は、マラリアの治療薬と感染症予防用の抗生剤のほか、そのまま食べられる栄養治療食(RUTF)14袋を処方した。RUTFはピーナッツを基剤にしたもので、子どもの体重回復を助けるのだ。女の子の母親に、RUTFの1回の分量や与え方を説明する。子どもがはいてしまわないように、少量ずつ、指に乗せてなめさせるのだ。
こうした困難な状況でも、お祝いの瞬間がときどき訪れる。例えば、メンデス医師と患者との再会だ。すでに、避難前に担当していた子どもたち数人やその家族と、国連基地内の診療所で再会した。そのたびに歓喜の声がわき起こる。
子どもの母親と再会したときは特に大きな喜びとなる。「皆さん、私を抱きしめてくれます。MSFがここにとどまり、今も子どもたちのために医療を提供していることを喜んでくれているのでしょう。私としては安心の一言に尽きます。ずっと心配でしたから、再会して無事を確認できることは何ものにも代えがたい喜びです」
ただ、メンデス医師は今も、戦闘が始まった瞬間まで治療していたあの男の子のことが頭から離れない。「ここに帰ってきてくれることを願っています」