ウクライナで深刻化する「見えない傷」──支援を阻む内なる偏見
2025年06月19日
世界保健機関(WHO)によると、ウクライナで最も多い健康問題は「メンタルヘルスの不調」 で、人口の46%に及んでいる。更に「精神疾患」(41%)、「脳や神経系の病気」(39%)と続く。
国境なき医師団(MSF)は、ウクライナ各地で心のケアを支援している。中でも支援を必要としているのは、戦闘の前線近くに暮らす住民、重傷を負った人や家族、国内避難民、そして愛する身内や恋人を失った人たちだ。
高まる心理ケアの需要
ウクライナ中部の都市ビンニツァ。ここでは、MSFが心的外傷後ストレス障害(PTSD) の治療に特化した心のケアセンターを運営している。
センターでは、医師や精神科医、心理士、健康推進員が連携し、戦争の影響でPTSDに苦しむ人びとを支援する。個別のカウンセリングに加え、創作などに取り組めるグループ活動も提供し、回復を後押ししている。

=ビンニツァで2025年4月4日 Ⓒ Caroline Thirion/MSF
例えば、センターでは「眼球運動による脱感作と再処理法(EMDR) 」を取り入れている。つらい記憶を思い出して脳内の記憶を整理することで、心の反応を和らげる心理療法だ。
支援の需要は高まる一方だ。センターでPTSDの治療を受ける患者数は、2024年1月に57人だったのに対し、2025年4月には118人と倍増した。
「患者の割合は男性、特に退役軍人が多くなっています」。MSFの医療コーディネーター、クリスティン・ムウォンゲラは患者の傾向についてこう指摘する。
彼らは戦地よりは安全な環境に戻ってきたものの、社会に適応することに苦しんでいます。多くの人びとが計画的な治療を必要としています。
クリスティン・ムウォンゲラ MSFの医療コーディネーター
支援を阻む「偏見」
男性特有の課題も浮き彫りになっている。男性は心の不調を抱えることに恥じらいを感じやすく、誰かに助けを求めることをためらう傾向にある。
こうした偏見は、ウクライナの文化や歴史に深く根ざしており、家族や周囲の人でさえ支援が難しい場合がある。苦しくても「自分で何とかするべき」と思い込み、医療的な支援を避けがちだ。
しかし、この「見えない傷」は心と体を更に疲弊させていく。その積み重ねがトラウマや孤立感、身体的な疲労の悪循環につながり、慢性疾患を深刻化させることもある。

「目の前の心理士に『何がつらいのか』と問われて、私は正直に答えました。『すべてがつらいです、いま話しているあなたも含めて』と」
こう振り返るのは、退役軍人のオレクサンドル・ゼレニーさん(27)だ。
ゼレニーさんは2022年5月、ウクライナ・ルハンシク州で爆発に巻き込まれ、脳損傷などの重傷を負った。以来、多くの後遺症に悩まされ、不眠や記憶障害、PTSDに伴ういら立ち、無気力、対人関係の難しさ──などに苦しんできた。
しかし、数年にわたるリハビリに加え、2025年1月からはMSFによる心のケアを受け始めた。すると少しずつ症状が和らいでいき、現在は同じ悩みを持った当事者の相談に乗る「ピアサポーター」として働けるほど回復したという。
ゼレニーさんは前を向く。
センターは安心できる場所。支援を通じて感情が落ち着き、今ではずっと強くなることができました。これからは自らの経験を生かして、同じように苦しむ人たちを支えていきたいです。
オレクサンドル・ゼレニーさん 退役軍人
