「撃たれた、いま病院に向かっている」 イスラエル軍に襲われたMSFスタッフの証言…ガザで相次ぐ人道援助従事者への攻撃
2026年07月23日
パレスチナ・ガザ地区では2025年10月に停戦が発表されて以降も、パレスチナ人がイスラエル軍に殺害されることが続き、避難を強いられている。
ガザで働く国境なき医師団(MSF)のスタッフも例外ではなく、こうした攻撃の対象に含まれている。
2026年6月、イスラエル軍の無人航空機(ドローン)による銃撃を受けて負傷したMSFの無線オペレーター、アシュラフ・アフィフィが被弾時の状況を証言した。
ガザで働く国境なき医師団(MSF)のスタッフも例外ではなく、こうした攻撃の対象に含まれている。
2026年6月、イスラエル軍の無人航空機(ドローン)による銃撃を受けて負傷したMSFの無線オペレーター、アシュラフ・アフィフィが被弾時の状況を証言した。
たった1回の油断で
ジェノサイド(集団殺害)の最中でも「いつも通りの日」があるとすれば、あの日はそんな金曜日でした。
私はテントの中で過ごしていました。息子のアダムは外でたこを揚げて遊んでいました。
突然、アダムが言いました。
「お父さん、すぐそばに弾が落ちてるよ」
私は信じませんでした。外に出て確かめてみましたが、特に変わった様子はありません。息子の見間違いか、気のせいだろうと思いました。
何かがたまたま近くに落ちただけだろう。怖がるほどのことではない。そう考えてテントに戻りました。その直後、木の机をハンマーでたたいたような、鋭く乾いた音が響きました。
それなのに、あの時だけは油断してしまったのです。本当に銃弾なのか確かめようとしていたその時、私は撃たれたのでした。
何かがたまたま近くに落ちただけだろう。怖がるほどのことではない。そう考えてテントに戻りました。その直後、木の机をハンマーでたたいたような、鋭く乾いた音が響きました。
弾がどこに当たったのか確かめようと、テントの中を見回していた、その時です。突然、木の棒で脇腹を強く殴られたような衝撃が走りました。同時に、先ほどと同じ乾いた音が、もう一度聞こえました。
「撃たれた」
すぐにそう分かりました。そばにいた妻が悲鳴を上げました。自分の体を見ると、脇腹が血まみれになっていました。
「弾よ。ほら、テントに当たったの。何かがぶつかって、テント全体が揺れたの」
「弾よ。ほら、テントに当たったの。何かがぶつかって、テント全体が揺れたの」
妻は泣き叫んでいました。
ジェノサイドが始まって以来、私は危険な兆候を見過ごしたことは一度もありません。たとえ1キロ先に危険を感じても、何としてでも子どもたちをその場から遠ざけてきました。
ジェノサイドが始まって以来、私は危険な兆候を見過ごしたことは一度もありません。たとえ1キロ先に危険を感じても、何としてでも子どもたちをその場から遠ざけてきました。
それなのに、あの時だけは油断してしまったのです。本当に銃弾なのか確かめようとしていたその時、私は撃たれたのでした。
終わりの見えない道
傷口を手で押さえながら、きょうだいが運転する車で病院へ向かいました。
「もし意識が遠のきそうになったら、気を失わないように呼びかけ続けてくれ。それが一番大事だから」
きょうだいにそう頼みました。そして、MSFの同僚であり、友人でもあるビラル・アブ・サーダに電話をかけました。
「撃たれた。今、ナセル病院に向かっている」
この時、私はまだ、大した傷ではないと思い込もうとしていました。脇腹を見ると、近いところに二つの穴が開いていました。弾が横から入って、そのまま抜けたのだろう。それなら単純な傷だ。怖がるほどではない。そう自分に言い聞かせていました。
しかし、痛みは尋常ではありませんでした。耐え難いほどの激痛でした。
「背中にも血が付いている。後ろを向いて」
「背中にも血が付いている。後ろを向いて」
私は体をひねり、シャツを持ち上げました。
「背中からだ。弾は背中から入っている」
弾が背中から入り、脇腹へ抜けたのだと分かった瞬間、それまで気丈に振る舞っていたのがうそのように怖くなりました。これは深刻な傷かもしれない。腎臓や脾臓(ひぞう)など、内臓が傷ついているのではないか。そんな考えが次々に頭をよぎりました。
「背中からだ。弾は背中から入っている」
弾が背中から入り、脇腹へ抜けたのだと分かった瞬間、それまで気丈に振る舞っていたのがうそのように怖くなりました。これは深刻な傷かもしれない。腎臓や脾臓(ひぞう)など、内臓が傷ついているのではないか。そんな考えが次々に頭をよぎりました。
手がしびれ始め、やがて顔にもしびれが広がりました。次第に息をするのも苦しくなり、視界が暗くなっていきました。きょうだいは私の顔をたたきながら、何度も呼びかけました。
「眠るな!」
あれは、人生で最も長い道のりでした。何十回も通ったことのある道なのに、あの日は、どこまでも続いているように感じました。途中で何度も車が止まり、渋滞や障害物に行く手を阻まれました。終わりの見えない道でした。
長い道のりを経て、ようやく病院北側の正面玄関にたどり着きました。
あれは、人生で最も長い道のりでした。何十回も通ったことのある道なのに、あの日は、どこまでも続いているように感じました。途中で何度も車が止まり、渋滞や障害物に行く手を阻まれました。終わりの見えない道でした。
長い道のりを経て、ようやく病院北側の正面玄関にたどり着きました。
まるで映画のワンシーン
救急外来の入り口にいた人が言いました。
「車から降りて」
降りようとしましたが、あまりの痛みに体を動かせませんでした。
「車から降りて」
降りようとしましたが、あまりの痛みに体を動かせませんでした。
「無理です。けがをしていて、自分では降りられません」
そう伝えると、相手は言いました。
「担架がないんだ。支えるから、何とか降りて」
叫びたい気持ちでした。
「一体、どうしろというんだ。降りられないと言っているのに!」
それでも、何とか車から出ようとしました。その時、誰かが救急外来からベッドを運んできました。私はそこに横たわり、院内へ運ばれました。
まるで映画のワンシーンでした。主人公があおむけに寝かされたまま廊下を運ばれ、頭上の照明が次々と流れていく。あの光景です。
やがて、レントゲンの検査室に着きました。私が横たわっていたベッドが検査台の横に付けられ、スタッフが言いました。
「こちらの台に移ってください」
てっきり、持ち上げるか、体を支えてくれるのだと思いました。ところが、誰も助けてくれません。私は激痛に耐え、体をくねらせるようにしながら、自力でベッドから検査台へ移らなければなりませんでした。
もしかすると、体を動かしておいた方がよいという医療上の理由があるのだろうか。そんなことまで考えました。一方で、もし内出血していたら、動くことで悪化するのではないか。そんな心配はしないのだろうか、とも思いました。
「こちらの台に移ってください」
てっきり、持ち上げるか、体を支えてくれるのだと思いました。ところが、誰も助けてくれません。私は激痛に耐え、体をくねらせるようにしながら、自力でベッドから検査台へ移らなければなりませんでした。
もしかすると、体を動かしておいた方がよいという医療上の理由があるのだろうか。そんなことまで考えました。一方で、もし内出血していたら、動くことで悪化するのではないか。そんな心配はしないのだろうか、とも思いました。
次に、超音波検査を受ける場所へ運ばれました。自分がこの検査を受けるのは初めてでしたが、その機械には見覚えがありました。妻が長女を妊娠していた時、赤ちゃんが男の子か女の子かを調べるために、医師が使っていたものと同じでした。私は冗談を言いました。
「男の子ですか、女の子ですか」
スタッフは言いました。
「けがをしているのに、まだ冗談が言えるんですか」
私は答えました。
「あなたは私のことを知らないでしょう。私は、最悪の時ほど冗談を言う人間なんです」
その後、CT検査を受けました。検査が終わると、最初に電話をかけたビラルが、すぐそばに立っていました。
スタッフは言いました。
「けがをしているのに、まだ冗談が言えるんですか」
私は答えました。
「あなたは私のことを知らないでしょう。私は、最悪の時ほど冗談を言う人間なんです」
その後、CT検査を受けました。検査が終わると、最初に電話をかけたビラルが、すぐそばに立っていました。
「もう十分甘やかしてもらっただろう。さあ、起きろ」
その軽口を聞いて、胸が温かくなりました。ビラルがそんな冗談を言えるのなら、命に関わるような状態ではないのだろう。その時、初めてそう分かりました。
3時間後、同じ場所へ
その日の夜、私たちはテントに戻りました。
私は、撃たれた場所から2メートルほど離れたところに座りました。もう少しで命を失うところだった場所に戻れば、恐怖で何もできなくなるのではないかと思っていました。
私は、撃たれた場所から2メートルほど離れたところに座りました。もう少しで命を失うところだった場所に戻れば、恐怖で何もできなくなるのではないかと思っていました。
医師から「入院する必要はまったくありません」と言われた時、私は思わず、こう答えました。
「よかった。病院にはいたくありません」
けれど本当は、テントに戻るのが怖かったのです。それでも、撃たれてからわずか3時間後、私は何事もなかったかのようにその場所の近くに座っていました。すべてが現実とは思えない、不思議な感覚でした。
こんな経験は、誰にもしてほしくありません。
「停戦」後も、民間人と援助スタッフを襲う暴力
パレスチナ保健省によると、停戦合意が成立した2025年10月11日以降、3500人以上が負傷した。2026年6月には121人が死亡し、今年に入って最も多くの死者が出た月となった。
「停戦」はもはや名ばかりだ。民間人の命は、今も軽視され続けている。
ガザで働くMSFスタッフたちも、避難先のテントで銃撃を受け、家族を殺害され、恐怖に駆られて自宅から逃れ、空爆で家を失っている。
3月には、MSFの看護師が、4歳のいとこが空爆で命を奪われるのを目の当たりにした。6月には、別のスタッフが妻と娘と車で移動中、イスラエル軍の銃撃を受け、車内に閉じ込められた。障害のあるきょうだいと避難先を逃れ、持ち物をすべて失った看護師もいる。
MSFの運転手だった夫を殺害された女性は、今もガザを東西に分断する「イエローライン」の近くで暮らしている。あるときには、寝ていたマットレスに銃弾が撃ち込まれて目を覚ました。今も毎朝、砲撃の音で目を覚ますという。
これらは、決して例外的な出来事ではない。ガザでは人道援助スタッフも民間人も決して安全ではないのだ。




