パレスチナ・ヨルダン川西岸地区:ガザだけじゃない──ぜひ知ってほしい、西岸地区の人びとの思いとその惨状

2025年08月07日
ヨルダン川西岸地区のMSF事務所でパレスチナ人の同僚と作業する北川順子 Ⓒ MSF
ヨルダン川西岸地区のMSF事務所でパレスチナ人の同僚と作業する北川順子 Ⓒ MSF

パレスチナ・ガザ地区への激しい攻撃で注目が集まるなか、時期を同じくしてイスラエル軍による侵攻や入植者による暴力が激しくなっているヨルダン川西岸地区。

北川順子は外資系金融機関などの勤務を経て、国境なき医師団(MSF)が非医療人材も募集していることを知り、活動に加わった。2024年10月から半年間、ヨルダン川西岸地区に派遣され、イスラエル軍が西岸地区で大規模な侵攻作戦「鉄の壁」を始める厳しい状況の中、家を追われた人びとへの物資の緊急配布など、現地での医療・人道援助を財務・人事マネージャーとして支えた。

北川は訴える。

「80年前の戦争に関心が高まる時だからこそ、日本ではなかなか注目されないヨルダン川西岸地区の状況を、ぜひ知ってほしい。ガザと同じように何千、何万という罪のない市井の人が自宅を追われ、同じ人間が暮らす社会が、少しずつ壊されているのです」  

北川順子(きたがわ・ゆきこ)

大阪府出身。外資系金融機関での勤務などを経て、 2019年にMSFの財務・人事マネージャーとしてイラクへ初の派遣。その後、ナイジェリア、リベリア、南スーダン、アフガニスタン、イエメン、パレスチナ・ヨルダン川西岸地区で活動。2025年8月からはメキシコで活動。  

初めて聞いた銃声と爆撃音

──日本では、パレスチナ問題を伝えるメディアの報道はガザ地区が中心で、ヨルダン川西岸地区はその陰に隠れがちです。

私は2024年10月末にヨルダン川西岸地区に着任しました。西岸地区北部ジェニンにある事務所を本拠に、ジェニンとトゥルカレムでの活動の財務や人事を担当しました。書類の処理などは主にジェニンで行い、1~2週間ごとに両地区を行ったり来たりしていました。

私自身も当然ガザに関する報道はよく目にして把握していたのですが、西岸地区の状況は恥ずかしながら、そこまで詳しくは把握していませんでした。

イスラエル軍が侵攻していて、入植者がパレスチナ人に暴力を働いているということは、もちろん聞いていましたが、それが実際にどういうことなのか、具体的な状況がなかなかイメージできず、ピンとは来ていなかったのです。  

北川順子 Ⓒ MSF
北川順子 Ⓒ MSF

 2024年秋に西岸への派遣が決まり、現地の担当者とオンラインで打ち合わせをすると「先日、9日連続でイスラエル軍のインカージョン(侵攻)があって外出できなかった。それまでは割と落ち着いていたんだけどね」という話を聞きました。

10月末に現地に赴任しました。当初は情勢が落ち着いていて、医療援助活動もでき、地元スタッフもみんな毎日出勤していました。しかし、12月上旬からまた侵攻が始まると、外出が危険になり、検問所の閉鎖などでスタッフも出勤できなくなりました。

私はイエメンやアフガニスタンといった紛争地への派遣を経験していますが、実際に銃撃や爆撃の音を間近で聞いたり、戦闘機が夜中に上空を飛んだりするというのは、西岸地区が初めてでした。

「ああ、西岸の人びとは日々、こんな中で暮らしているのか」と、実感しました。

侵攻下での職務

12月末には「今後、攻撃がひどくなる可能性があるから、いったんヨルダン川西岸を出てエルサレムへ」と言われて、1週間ほどエルサレムに避難し、そこからリモートで業務しました。

12月15日付で採用の新しいスタッフがいたのですが、一度もオフィスに来ることができず、しばらく自宅からのリモート作業になりました。そういう状況が1カ月近く続きました。

当時のイスラエル軍の攻撃対象は、主にジェニンやトゥルカレムなどの難民キャンプでした。多くの民間人が暮らしている地域なのですが、イスラエル軍の論理では、そこに「テロリスト」が潜伏している、だから作戦を行うということになるわけです。私が日本に帰任するころには、ジェニン難民キャンプはブルドーザーで破壊され、ほぼ無人になっていました。

そんな中でも、人事担当者として採用活動などを行っていました。MSFは2025年1月からトゥルカレム、2月からジェニンで移動診療を始めたのですが、そのための医師や看護師をはじめとするスタッフの採用などを担当しました。治安状況は厳しいのですが、だからこそどんどんやっていこうと、チームの士気が高かったことが印象に残っています。

ジェニンで活動するMSFの移動診療チーム。北川は採用や予算などの面で貢献した=2025年3月5日 Ⓒ Oday Alshobaki/MSF
ジェニンで活動するMSFの移動診療チーム。北川は採用や予算などの面で貢献した=2025年3月5日 Ⓒ Oday Alshobaki/MSF

家を追われ行き場のない人びと

──西岸では4万人を超える人びとがジェニンなどの難民キャンプから強制的に移動させられています。しかし、難民キャンプからどこに避難するのですか?

避難できる先は、ありませんよね。

キャンプ外に親族がいる人は、そこに行っていました。しかし、主には学校などの公共施設やモスクです。そして、着の身着のままで、建築途中でまだ使われていない建物に身を寄せ、なんとか雨をしのいでいる家族もたくさんいました。

こういう暮らしが長期化すると、大変です。だから、マットレスや衛生用品、衣服や水などを配布して支援しました。私にとっても、緊急でこうした物資の供給支援を行ったのは、MSFでの勤務経験で初めてでした。 

イスラエル軍が破壊し、人びとが出入りできないよう土盛りを作ったジェニンの通り=2025年3月5日 ⒸOday Alshobaki/MSF
イスラエル軍が破壊し、人びとが出入りできないよう土盛りを作ったジェニンの通り=2025年3月5日 ⒸOday Alshobaki/MSF

イスラエルナンバーの車なら素通しの検問所

──西岸地区ではイスラエル軍の検問などで、パレスチナ人の移動が困難になることがあると聞きます。

私たちも業務上の移動のため、イスラエルのナンバープレートが付いた車と、パレスチナナンバーの車の両方と、それぞれを運転できる人を用意しなければならないんですね。

この2つのナンバーは色が違うので、すぐ分かります。イスラエルナンバーの車を、イスラエル側の身分証明証を持っている人が運転していないと、イスラエル軍の検問を通るのが大変なことがあるのが現実だからです。

ある時、イスラエル軍の検問で、ものすごく長い列ができていました。

1台ごとに荷物や身分証をチェックされるため3時間ぐらい待たされたのですが、前後に止まっている車のパレスチナ人から「この車はイスラエルナンバーだから、あなた方は列を離れて、そのまま進んでしまえばいいんじゃないの」と言われました。

とはいえ、それも悪いし、どうなるか分からないということで、待っていました。

そして私たちの車の順番になると、何のチェックもなくスーッと検問を通れたのです。 

ヨルダン川西岸地区ヘブロンで、街の入り口にある検問所のゲートが閉ざされたため、通行再開をまつパレスチナ人の車列=2025年6月14日 Ⓒ MSF
ヨルダン川西岸地区ヘブロンで、街の入り口にある検問所のゲートが閉ざされたため、通行再開をまつパレスチナ人の車列=2025年6月14日 Ⓒ MSF

いとこの釈放を祝えず

──MSFの現地スタッフをはじめ西岸の人びとは、どんな思いで暮らしていたのでしょうか。

2025年1月にガザで停戦が発効し、ガザでとらわれていたイスラエル人の人質が解放され、交換のかたちでイスラエルの刑務所などに収監されているパレスチナ人が釈放された時のことです。

スタッフの一人に、いとこの男性がイスラエルの刑務所に収監されているという人がいました。いとこが釈放の対象となって出てくるということで、親族一同で喜んで帰宅をお祝いしようとみんなで集まっていた時にイスラエル軍が来て、お祝いをするなと解散を命じられ、彼の写真も全て破り捨てられたというのです。泣く泣く解散したそうです。

しかも、そのいとこは18歳の時に拘束され、その後25年間ずっと、塀の中にいたというんです。彼は帰宅後も体調はすぐれないと聞きました。

また、別のスタッフは2025年2月、弟さんがバイクに乗っていたらイスラエル軍の車両にひかれて亡くなりました。西岸では当時、イスラエル軍の「鉄の壁」という大規模な侵攻作戦が始まって、イスラエル軍用車両が多数、行き来していたのです。彼女は見ていてつらくなるくらい、落ち込んでいました。

さらに別のスタッフから聞いた話ですが、ジェニン近郊の村落では、イスラエル軍がパレスチナ人の家に来て「ここを使うから出ていけ」と住民を追い出すということが起きていました。 

18歳というと、人生で一番楽しいころのはずです。それから20代、30代をずっと塀の中で過ごすのがどんなものなのか、私には想像がつきませんでした。

パレスチナ人が検問所に集まったり徒歩で越えたりするのを阻止するために配置されたイスラエルの軍用車両=2025年6月14日  Ⓒ MSF
パレスチナ人が検問所に集まったり徒歩で越えたりするのを阻止するために配置されたイスラエルの軍用車両=2025年6月14日  Ⓒ MSF

現場で感じた「不条理」

医療機関への攻撃もしばしばあったと聞きました。

「聞いた」というのも、侵攻により自分自身が外出できなかったので、一つ一つの現場を確認できなかったからですが、そういったニュースは耳にしていました。あとは道端で狙撃されて倒れた人がいても救急車が近づけない、救助しようとして近づいた一般人もまた撃たれるため、地面に横たわったままという、すぐ近くで起こっている映像をスタッフがSNSで見せてくれたこともあります。

私たちと同じ人間が、こんな日々を送っている。私自身も現地に行っても、この状況を自分の手で止めることはできない。それが非常につらいです。

「西岸での侵攻」とか、「入植」という言葉が時折、日本でも伝えられます。ガザのように多くの人が一度に犠牲になるというわけではないにしても、そのたびに、一般の人びとの命が残念ながら失われているわけです。

この不条理はいったい、何なのか。国際社会は、どうしてこれを止められないのか。それを伝えたいと、私は強く思います。ガザでは多数の爆弾で、西岸ではさまざまな手段で、じわじわと社会が壊されていっています。 

ヘブロンで子どもたちの心のケアのため一緒に遊ぶセッションを開くMSFスタッフ=2024年11月29日 Ⓒ MSF
ヘブロンで子どもたちの心のケアのため一緒に遊ぶセッションを開くMSFスタッフ=2024年11月29日 Ⓒ MSF

──今年は戦後80年です。ご家族から戦争体験を聞いたことはありますか。

母は東京の女子高等師範学校に通っていて、長野県に疎開したと聞きました。学校で理系の専攻だったので、 どうやったら敵の爆弾を撃ち落とせるか迎撃の角度を計算する業務をしたとか、工場への動員で手伝わされたとかいう話がありました。東京大空襲の話も少ししていましたが、私が戦争のことに興味を持つころになると、母は年を取って昔の話をするのはしんどいという感じになってしまい、じっくり体験を聞けなかったのが、心残りです。

西岸で、現地の人に「日本から来た」というと、いつも驚かれ、わざわざ来てくれたのかと、むしろ感動されました。

パレスチナだけでなくイエメンやアフガニスタンなど紛争を経験した各地の人びとは、日本が戦争を経て復興を遂げたことを知っています。「日本は別世界だ」と言われたことも何度かあります。すべてがきちんと整備され、街は清潔で、人びとは謙虚で思いやりがあり、丁寧な生活を送っている、というイメージを持たれているようでした。

だからこそ、私は今、日本のみなさんに、西岸にも関心を持っていただきたいのです。何万、何千人もの市井の人びとが一方的に攻撃され、住居を追われ、未完成の建物やモスク、学校に身を寄せ、寝る場所、水もない状態で避難生活を余儀なくされています。それがいつまで続くかもわかりません。

そういった現状があることを、心にとめて頂けると幸いです。  

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