ガザ:ジェノサイドから逃れた子どもたち──看護師の父が語る“医療搬送”の記録

2025年11月19日
ヨルダンの首都アンマンにある国境なき医師団(MSF)の再建外科病院で、姉(左)と一緒にベンチに座るオマルさん=2025年11月2日 Ⓒ Mohammad Shatnawi / MSF
ヨルダンの首都アンマンにある国境なき医師団(MSF)の再建外科病院で、姉(左)と一緒にベンチに座るオマルさん=2025年11月2日 Ⓒ Mohammad Shatnawi / MSF

パレスチナ・ガザ地区では紛争の激化以降、イスラエル軍の激しい攻撃によって甚大な被害が生じている。
 
繰り返された攻撃で多くの人びとが殺害され、傷つき、家屋や財産を失った。国境なき医師団(MSF)のパレスチナ人スタッフも、例外ではない。
 
ガザで手術室看護師として働いていたムハンマド・アル・ハワジリは2025年6月、息子のオマルさん(5)が空爆に巻き込まれて脚に重傷を負った。現在はヨルダンの首都アンマンへ医療搬送され、MSFの再建外科病院で治療を受けている。

ムハンマドはガザ北部での避難や帰路の銃撃で失った同僚、そして故郷を離れることを決めた経緯について証言する。

日本でもMSFは、政府に対しガザからの患者受け入れ数の拡大を求めるとともに、多くの患者を受け入れている周辺国の医療体制への支援を呼びかけています。

現在、日本社会の皆さまに向け、オンライン署名を実施中。どうか皆さまの力をお貸しください。

広がり始めた戦火

2023年10月7日にガザで紛争が激化してから数日後、イスラエルは人口の約半分に南部へ避難するよう命じました。

私たちは北部に残り、最寄りのMSF事務所に移動しました。そこには多くのスタッフと家族が集まっていました。

空爆によって重度のやけどを負った少年(右)を治療する、MSFの看護師ムハンマド・アル・ハワジリ(中央奥)=パレスチナ・ガザ地区のMSFやけどクリニックで2023年10月19日 Ⓒ MSF
空爆によって重度のやけどを負った少年(右)を治療する、MSFの看護師ムハンマド・アル・ハワジリ(中央奥)=パレスチナ・ガザ地区のMSFやけどクリニックで2023年10月19日 Ⓒ MSF


数週間が過ぎると、イスラエル軍がシファ病院に突入し、ガザ市は恐怖に包まれました。その頃には商店やパン屋が閉鎖され、ガザ北部は飢えに苦しみ始めていました。

「南部へ逃げれば、生き残れる可能性が少しはあるかもしれない」

私たちはそう考え、避難を決意しました。

空爆で重度のやけどを負った男性に包帯を巻くMSFの看護師ムハンマド(手前)=ガザのMSFやけどクリニックで2023年10月19日 Ⓒ MSF
空爆で重度のやけどを負った男性に包帯を巻くMSFの看護師ムハンマド(手前)=ガザのMSFやけどクリニックで2023年10月19日 Ⓒ MSF

車列への銃撃、失った同僚

MSFは、イスラエル軍が許可するわずかな時間を利用して、スタッフを安全に南部へ移動させようとしました。私たちはMSFのスタッフと家族を乗せた車の隊列で出発しました。

しかし、何千人もの人びとが必死に逃げようとしていて、南部に至る道は混乱に陥っていました。結局、渡り切る前に制限時間を迎えてしまい、私たちはガザ市へ引き返さざるを得ませんでした。

そのときです。MSFのロゴがはっきりと表示された車列がクリニックへ戻る途中、突然銃撃が始まりました。銃弾が空を裂き、窓ガラスが粉々に砕け、破片が車両を貫きました。

イスラエル軍に破壊されたMSFの車両には、大きく文字とロゴが描かれていた Ⓒ MSF
イスラエル軍に破壊されたMSFの車両には、大きく文字とロゴが描かれていた Ⓒ MSF


そして、銃撃の混乱の中、MSFで緊急看護師としてボランティアをしていたアラア・アッシャワが、私の子どもたちを抱えてくれたときに頭を撃たれ、即死しました。

子どもたちは、いまでも昨日のことのように覚えています。

四方から銃撃が降り注ぎ、どこから撃たれているのか分からない状況。子どもたちの頭上をかすめ、アラアに当たった弾丸。そして彼らが深く愛していた、私の同僚であり友人が殺される瞬間──。

クリニックまであと少しの距離だったので、急いで中に駆け込みました。救命措置を必死に試みましたが、アラアは血を流して亡くなりました。

ガザ地区中心部のMSF事務所前で破壊され、炎上するMSFの車両4台=2025年11月20日  Ⓒ MSF
ガザ地区中心部のMSF事務所前で破壊され、炎上するMSFの車両4台=2025年11月20日  Ⓒ MSF


私たちはその後の数日間、クリニックに閉じ込められました。
 
寝るときは、アラアの遺体が埋められた場所のすぐそばでした。他に行く場所はどこにもありませんでした。

長男は特にショックを受けていて、毎晩泣きながら目を覚まし、アラアの遺体を見たときの光景にうなされていました。

ガザ地区中心部にあるMSFの診療所もイスラエル軍に攻撃を受けた。診療所の前に止めていた車が銃撃を受け、大破している=2025年11月20日 Ⓒ MSF
ガザ地区中心部にあるMSFの診療所もイスラエル軍に攻撃を受けた。診療所の前に止めていた車が銃撃を受け、大破している=2025年11月20日 Ⓒ MSF

爆撃が止まない「安全地域」

2023年11月末、ようやく南部へ渡ることができました。
 
しかしその道中には、放置されたままの遺体が無数に横たわっていました。その光景が人びとの記憶から消えることは、決してないでしょう。
 
ようやく南部ハンユニスに到着し、MSFの施設に避難 できました。

しかし、そこも紛争のさなかにありました。近くで爆撃があり、窓ガラスが粉々に砕け、建物全体が激しく揺れました。

弾痕ができたMSF施設の内壁 Ⓒ MSF
弾痕ができたMSF施設の内壁 Ⓒ MSF


さらに、MSFの旗とロゴがはっきり見えるように掲げられていたにもかかわらず、戦車の砲弾が施設を直撃しました。その攻撃で、MSFの同僚の娘が命を落としました。

爆撃の後、私たちは再び逃げました。今度はイスラエル軍が「安全地域」というラファへ。

しかしそこでも空爆は止まりませんでした。爆弾が家屋に直接落ちなくても、破片が壁や避難所を貫き、安全とはほど遠い状況でした。

「最悪は乗り越えた」の矢先に

その後も数カ月にわたり、耐え難い喪失と、非人道的な生活環境の中で避難生活が続きました。時間の感覚は失われ、ただ日々を生き延びるだけで精いっぱいでした。
 
「でも、最悪の事態は乗り越えられた」

そう思った矢先のことです。イスラエル軍による「ジェノサイド(集団殺害)」は、私たちに新たな恐怖を突きつけました。

2025年6月27日、自宅近くの通りで空爆がありました。私の末息子オマルが玄関先に立っていたところ、空爆の破片が彼の脚を貫いたのです。

イスラエル軍の攻撃で負傷したオマルさん。その後、医療搬送されて快方に向かっている=アンマンで2025年11月2日 Ⓒ Mohammad Shatnawi / MSF
イスラエル軍の攻撃で負傷したオマルさん。その後、医療搬送されて快方に向かっている=アンマンで2025年11月2日 Ⓒ Mohammad Shatnawi / MSF


彼はまだ5歳。何カ月にもにわたる恐怖と飢えで、すでに衰弱していました。

ガザでは、イスラエルの封鎖によって手に入らなくなった食料・医薬品の価格高騰、そして飢餓が続いています。そのような状況で、彼は何度も手術を受けました。

回復への道、消えない傷

それから6週間後、同僚たちが尽力してくれたおかげで、私たちはヨルダンのMSF再建外科病院へと医療搬送してもらえました。その時、オマルは栄養失調に陥っていて、きょうだいも危険なほど体重が減っていました。
 
オマルはアンマンで追加の手術を受け、心のケアも受けています。いまでは立ち上がり、遊び、子どもらしく過ごせるようになりました。

アンマンにあるMSF再建外科病院の遊び場で過ごすオマルさん。追加手術や心のケアを経て、現在は元気に遊べる状態にまで回復した=2025年11月2日 Ⓒ Mohammad Shatnawi / MSF
アンマンにあるMSF再建外科病院の遊び場で過ごすオマルさん。追加手術や心のケアを経て、現在は元気に遊べる状態にまで回復した=2025年11月2日 Ⓒ Mohammad Shatnawi / MSF


彼が回復への第一歩を踏み出す姿を見ると、すべてを経験した後でも、人生は再び始められるのだと感じます。
 
しかし、どれほど手厚いケアを受けても、彼が幼少期に受けた傷跡は一生残ります。

それは、私たち自身、子どもたち、そして深く愛する土地に対して、こんなジェノサイドが許されてしまったという現実なのです。

息子のオマルさん(右)を抱いてベンチに座るムハンマド=アンマンのMSF再建外科病院で2025年11月2日 Ⓒ Mohammad Shatnawi / MSF
息子のオマルさん(右)を抱いてベンチに座るムハンマド=アンマンのMSF再建外科病院で2025年11月2日 Ⓒ Mohammad Shatnawi / MSF

ヨルダンのMSF再建外科プログラムとは?

ガザ地区で紛争が激化した2023年10月7日以降、ヨルダンのMSF再建外科プログラム(RSP)は、ガザから医療搬送された子ども45人と付き添い人を受け入れ、専門的な再建手術とリハビリを提供してきた。

このプログラムは2006年、イラク戦争の被害者を治療するために設立された。その後、中東全域で紛争による負傷者が急増したことを受け、6カ国以上から患者を受け入れるまでに拡大。各国では難しい専門的な医療を実施してきた。

RSPは現在までに、人生を左右させてしまうようなけがをした患者を治療する地域拠点へと成長した。治療内容は、整形外科、形成外科、顎顔面外科の外傷、やけど、その他の紛争関連の負傷に対する手術、リハビリ──と、多岐にわたる。

治療の際には、外科治療、理学療法、作業療法、心のケア支援、心理社会的ケアを組み合わせた包括的な手法を取り入れている。多くの患者は、身体的・心理的な傷を癒すために数カ月間は滞在している。

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