ガザ:廃墟の中で生き抜く人びと──日本人医師が見つめた停戦後の現実

2026年02月27日
パレスチナ・ガザ地区ハンユニスにあるナセル病院で、子どもの手術を行う小杉郁子(中央) © MSF
パレスチナ・ガザ地区ハンユニスにあるナセル病院で、子どもの手術を行う小杉郁子(中央) © MSF

2025年10月、パレスチナ・ガザ地区において停戦合意が発効した。しかし、その後も攻撃や民間人の死傷が後を絶たず、不安定な状況が続いている。

さらにイスラエルはパレスチナで人道援助活動を行う非政府組織の活動登録を認めない可能性を示し、ガザ地区およびヨルダン川西岸地区で、国境なき医師団(MSF)を含む37のNGOの活動登録を2025年末で失効させた。

そうした中、MSFの外科医・小杉郁子は、12月11日から約7週間、南部ハンユニスのナセル病院と北部ガザ市内の診療所で医療活動に従事した。

小杉が見た光景、向き合った現実、そしてガザの人びとから感じたこととは──。

© MSF
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小杉郁子(こすぎ・いくこ)

血管外科医。金沢大医学部卒業後、国内勤務やドイツへの大学病院留学を経て、2008年からMSFに参加。これまでナイジェリア、イエメン、南スーダン、カメルーン、レバノンで活動。パレスチナは2023年のヨルダン川西岸地区に続き2度目。現在は福井県済生会病院に勤務。2025年3月からMSF日本の副会長を務める。

「ヒロシマと同じ」──同僚が語った北部の惨状

──ガザでは、どんな光景や被害の状況を目にしましたか?

日本を出発し、MSFの事務所があるヨルダン・アンマンを経て、陸路でパレスチナ・ガザ地区へ向かいました。ガザ地区に入る検問所から目的地のハンユニスへ移動する途中、南部の町ラファを通りました。その車窓から目にしたのは、爆撃によって破壊しつくされた建物群です。そして、畑や草原だったと思われる平地には、大きな砂の山と谷がいくつもできていました。

MSFスタッフが生活している宿舎から勤務先のナセル病院までは、車で20分ほどでした。その道のりは、どこもかしこも避難生活を送る人びとのテントで埋め尽くされていました。病院の周辺にはかろうじて建物が残っていましたが、多くはほぼ全壊か半壊、壁には爆撃の痕があるなど、かなりひどい状態でした。

そういった壊れかけの建物のすぐ脇にもテントが並び、過密状態は極限に達しているように見えました。

避難生活をしている人びとのテントが立ち並ぶハンユニスの光景 © MSF
避難生活をしている人びとのテントが立ち並ぶハンユニスの光景 © MSF

しかし、同僚の一人は「(北部の)ガザ市はもっとひどい」と語っていました。「ヒロシマと同じだと一瞬で思った。まるで現実のものとは思えなくて、すぐには受け入れられなかった」と。私はその時点では北部に行ったことがなく、想像するしかありませんでしたが、ハンユニスの被害状況を見るだけでも、ミサイルや爆弾、ドローンなどの兵器がもたらす破壊力がいかに恐ろしいかがよく分かりました。

それから約1カ月後、私はガザ市の診療所へ向かうことになり、同僚が語った光景を目の当たりにしました。

もともとガザ市は大きなビルが立ち並ぶ都会だったはずですが、その多くが激しく損傷していて、少し郊外に出ると、右にも左にも完全に崩れ落ちた建物が延々と続いているのです。同僚の言葉に納得せざるを得ませんでした。

破壊された自宅のがれきの上に座るガザ市の住民=2024年11月3日 © MSF
破壊された自宅のがれきの上に座るガザ市の住民=2024年11月3日 © MSF

避難生活が生む子どものやけど

──病院ではどのような患者さんに対応しましたか?

ナセル病院は南部最大の医療施設で、私は整形外科・形成外科病棟で手術や入院患者のサポートを行いました。

患者さんのほとんどは熱傷(やけど)と開放骨折(※)でした。やけどは特に子どもが多かったです。避難用テントには暖房器具やコンロがないので、多くの家庭が業務用のドラム缶や大きな缶詰の缶に焚火をして調理したり、暖を取ったりしています。そういった生活の中で、熱いものに触ったり、お湯をひっくり返したりしてやけどするというケースが非常に多かったです。

開放骨折は、日常生活や交通事故でけがをした方がほとんどでした。停戦合意後は爆撃や銃で負傷した患者さんはゼロではないものの明らかに減っていて、入院患者の多くがだいぶ前に受傷してまだ治っていない方でした。

患者さんはとても多く、初めて出勤したときは整形外科病棟の病床率は100%を超えていて、廊下にもベッドがあふれていました。

このままだと通路が狭くて危ないし、衛生的にも問題だと思ったので、入院でなくても大丈夫そうな方には退院してもらい、何日かかけて廊下のベッドを減らしていきました。 

  • 開放骨折:骨が露出する重度の骨折
ナセル病院で回診を行う小杉 © MSF
ナセル病院で回診を行う小杉 © MSF

ひっ迫する医療現場で出会った人びとの現実

──医療現場ではどんなことに困っていましたか?

医療品の不足は感じました。特に手術用の手袋や医療用ホチキスは、常に在庫が少ない状態でした。私に合うサイズの手袋のストックが一番少なかったので、普段は少し大きめのサイズで代用し、本当に大事な時だけぴったりのサイズを使う、といった工夫をしていました。

鎮痛剤もなかなか手に入りませんでした。ある日、箱単位でまとまった量が入荷しましたが、とても貴重なものなので、必要以上に処方しない、患者さんの部屋に置き忘れない、誰に何錠渡したかを記録するなど、管理を徹底していました。

手術中に意外と悩ましかったのが、ハエです。出入りの際にどうしても入り込んでしまって、数は多くないものの、集中を要する場面では大きな問題でした。さらに、ガザの冬の特徴なのか、暴風雨が続いたときもあり、宿舎や病院の一部が雨漏りして使えなくなることもありました。


──患者さんについて、印象に残っているのはどんなことですか?

患者さんの多くは英語がまったく話せないので、コミュニケーションには常に工夫が必要でした。やけどを負った小さい子どもを抱っこした母親が、身振り手振りで「手術はうまくいったのか」と尋ねるので、私も同じようにジェスチャーで「大丈夫!」と伝えて、安心してもらったこともありました。

また、ガザ市内の診療所に勤務していた時、10歳の女の子が点滴を受けに来ました。彼女は紛争で両親と兄弟をすべて亡くし、おばあさんに付き添われて通院していました。右足のけがのリハビリのために通っていましたが、痛みがあって辛く、精神的に追い込まれていたようで、病院に着いたら嘔吐し、失神してしまったのです。食事もほとんど取れないと聞き、実際に顔色も悪い状態でした。心のケアが絶対に必要だと感じ、すぐに臨床心理士を呼びました。

「家族で生き残ったのは自分だけ」という子どもがたくさんいるとは聞いていました。親族がいる場合は引き取られて生活しているのかもしれませんが、もし本当に誰もいなかったら、どうなってしまうのだろう──そう思わずにはいられませんでした。

終わらない攻撃で続く喪失と悲しみ

──滞在中、身の危険を感じたことはありましたか?

爆撃で宿舎が揺れるのを感じたことは多々ありました。早朝に衝撃で目が覚めた日もありますし、ヘリコプターでMSFの施設付近が射撃され、全員で一時避難したこともありました。

また、警備員が施設の門をそっと開けた瞬間に、かなりの至近距離で銃声が聞こえたこともありました。さらに、上空にはほぼ常にドローンが飛んでいました。

停戦合意中のはずですが、攻撃は続いており、守られるべき病院の近くでさえ、危険な状況が続いています。

「遠くで起きた爆撃の様子です。結構離れているなと思っても振動は感じました」 © MSF
「遠くで起きた爆撃の様子です。結構離れているなと思っても振動は感じました」 © MSF

──一緒に働いた現地スタッフとの会話で、どんなことが印象に残っていますか?

現地スタッフからは、色々な話を聞きました。ある看護スタッフは、この紛争で息子を亡くしたそうです。子どもたちが集まってサッカーをしていたところに爆撃され、全員即死だったとのこと。

別の医師は、お金をかけて建てた家を失ったと話していました。

「妻や子どもたちはきれいな服もたくさん持っていたのに、全部なくなって、今はテントで暮らしている。紛争が終わってリラックスできるかと思っていたけれど、とんでもない。生活は何も良くならなくて、とても怖いよ。いつも『神さま、助けて』と祈っているんだ」 

普段は明るく元気な彼が「怖い」と言ったことに驚き、かける言葉が見つかりませんでした。

現地の医療スタッフと話し合う小杉(右) © MSF
現地の医療スタッフと話し合う小杉(右) © MSF

厳しい日常にも息づく人びとの温かさ

──ガザで出会った人びとの様子や、彼らの生活についてどのように感じましたか?

停戦合意の影響で物流が少し回復したようで、露店に果物や野菜が並んでいるのも見かけました。とはいえ、食料に加え、水や電気、燃料など多くをイスラエルにコントロールされているため、生活は大変なはずです。さらに、冬の寒さも苦難に拍車をかけています。

街中では、私たちの車に駆け寄って「食べ物をちょうだい」「お金を」と仕草で訴えてくる子どもたちもいます。しかし、一部にだけ渡すと争いの元になるため、笑顔で手を振ることしかできず、心苦しさでいっぱいでした。

ハンユニス郊外のマワシ地区にあるテントで、焚火をして食事を準備する母娘=2025年10月9日 © Motasem Abu Aser/MSF
ハンユニス郊外のマワシ地区にあるテントで、焚火をして食事を準備する母娘=2025年10月9日 © Motasem Abu Aser/MSF

こんな状況にもかかわらず、ガザでは多くの優しさに触れました。「一緒に食べよう」とランチを勧めてくれたり、「どうぞ座ってください」と気遣ってくれたり。病院の中庭で休んでいると、学生らしき女の子たちがクッキーを差し出してくれたこともありました。MSFのシャツを着ていたからかもしれませんが、見知らぬ外国人にもそういったことができるホスピタリティには胸を打たれました。

日本に親しみを感じている人も多く、特に若い世代は日本のアニメや漫画に詳しくて、スマホの着信音が日本の人気アニメのテーマソングだったり、「日本語の勉強をしている」と話してくれたりしました。

あるスタッフは、「僕ら(パレスチナと日本)は、戦争で同じ経験をしたよね。自分たちもいつか、日本のように立ち直れると信じている」と伝えてくれました。

「日本に行ってみたい」という声も聞きました。自由に移動できれば、行きたいところがたくさんあるはずなのに──そう思うと、彼らの置かれている現実があまりにも残念でなりません。

──MSFの活動が停止したら、現地ではどのような影響があると思いますか?

医療資源は深刻に不足する恐れがあります。すでにベッドが足りず、本来は入院が必要な患者さんがテントで生活せざるを得ない状況です。

車いすや寝たきりなど介護が必要な人にとっては、適切なケアが受けられず弱ってしまうリスクが高まります。平時であれば治療できるはずの人が、栄養管理や創傷ケアなどの基本的な医療が後回しになることで、衰弱してしまう。これは非常に厳しい現実です。

ナセル病院で患者の容態を見守る小杉(右) © MSF
ナセル病院で患者の容態を見守る小杉(右) © MSF

失われない未来への希望 一刻も早い「終戦」を

──ガザでの活動を通して、強く感じたことや日本の人びとに伝えたいことは何ですか?

ガザで活動する中で感じたのは、人びとの価値観と物事の優先順位がこの2年間の紛争によって大きく変わってしまったということです。多くの人が家や家族を失って、生き延びること、家族を守ることが最重要となり、先を考える余裕がありません。治療方針も、その時の家族の状況や本人の意向によって変わることがあり、こちらはその都度、対応を考えなければなりませんでしたが、これはやむを得ないと感じました。

現地のあちこちで、すさまじい破壊の跡を見てきました。到着してすぐは圧倒されましたが、10日ほど経つと次第に慣れてしまっている自分がいました。何かを作り上げるには時間がかかるのに、破壊は一瞬です。

これまで何度も大きな戦争を経験してきた世界が、どうして再び争いを繰り返してしまうのか──その疑問がずっと心に残っています。

それでも、ガザの人びとは未来を諦めていません。通勤途中、植えられたばかりの若いオリーブの木を目にしたり、壊れた建物の1階に手描きの「学校」と書かれた看板が掲げられていたりすると、どんな状況でも前に進もうとする力があると感じ、心から応援したいと思いました。 

壊れた建物の1階に作られた語学教室 © MSF
壊れた建物の1階に作られた語学教室 © MSF

整形外科に入院している父親を看病していた大学生の娘さんは、「紛争で授業が止まり、英語の勉強もできなくなった。でも落ち着いたらITの勉強を再開したい」と話してくれました。私立学校は授業を再開しているという話も聞きました。教育は未来への希望そのものだと改めて感じます。

教育ができれば、将来的に自立への道が開けます。そのためには、若い世代の学びを妨げている紛争そのものが終わらなければいけません。

ガザの未来のために、一刻も早い恒久的な「終戦」が必要だと強く思っています。

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