「人道援助が残された唯一の希望」──停戦と攻撃再開のはざまで日本人看護師が見たガザの現実
2025年06月12日
「人道援助は人びとにとって、見捨てられていないと思える最後の希望なんです」
パレスチナ・ガザ地区に医療・人道援助活動のため2025年1月下旬から派遣された国境なき医師団・看護師の中池ともみは、ガザの人びとにとっての人道援助の意味をこう語る。
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一時期の停戦と激しい攻撃の二つの局面を目の当たりにした中池が、ガザで見た現実とは。
「頑張って」とさえ言えない現実
私はガザ南部ハンユニスにあるナセル病院の整形外科や熱傷ケアの病棟で活動しました。爆撃によって建物の下敷きになったり、飛んできた破片に当たったりしてやけどや骨折のけがをした患者がたくさんいました。
2月中旬からは中部デールバラハでMSFが運営する仮設病院にも並行して週2回ほど通い、そこでは小児科を任されました。

ガザで見たのは、日本から映像を通じて見ていた光景そのものでした。あらゆる建物が爆撃を受けて崩れ落ち、かろうじて残っている建物も部分的に崩れたり、真っ黒に焦げたりしていました。
人びとは簡易なテントを張って避難生活を送っています。辺りには草木の緑も見当たりません。私はガザでも中部と南部の一部しか状況を知りませんが、現地の人には「北部はもっとひどい」と教えられました。

ガザの人びとは勤勉で優しい人たちばかりです。みんな自分の家族や身内を殺された人ばかりなのに、周りを気遣いながら一生懸命に働いていました。
例えば、デールバラハの病院にいたある洗濯係のスタッフは、近くでミサイルが落ちている最中にも看護師になろうと必死に勉強していました。
ただ、中にはあまりのつらさに「いっそ大きい爆弾が落ちて一瞬で死んだほうがましだ」と嘆く人もいました。
5分後の命さえ保証されない状況で懸命に生きている彼らに、私はさらに「頑張って」とは絶対に言えなかった。それがとてもつらかったです。
病院に届かなかった命
3月18日に破られるまで続いた停戦期間中、自分は身の危険を感じませんでした。しかし、別の場所から銃弾や爆弾の音はよく聞こえてきました。
また、上空ではイスラエル軍のドローン(無人機)が「ブーン」という大きな音を立ててよく飛んでいました。ガザの人たちを至るところで監視しているようで、とても異様な光景でした。
そして3月18日、午前2時ごろだったでしょうか。いつものように宿舎で寝ていたら、突如として「バーン」という雷が落ちたような爆音が近くから聞こえました。
爆音が聞こえ続ける間、自分の身よりも、病院の同僚とその家族たちの安否の方が心配でたまりませんでした。しばらくしてSNSで連絡がつき始めたとき、本当に安心したことを覚えています。

安全を確認して、ナセル病院に出勤できたのは翌19日のことでした。
大勢の患者が運ばれてくると覚悟していましたが、実際は想像より少なかったです。その理由について、同僚に「爆撃に巻き込まれた人のほとんどは、病院に到着した際に既に亡くなっていたから」と聞かされました。

ガザの人びとにとっての人道援助
停戦が破られる3月18日の以前から、援助物資を積むトラックの出入りは止められていました。肉や野菜といった生鮮食品は入らず、価格も上がって普通の人では買えない状況でした。パンや缶詰はまだありましたが、量はどんどん少なくなっていました。
物資の搬入が止まったのは、医療の面でも大きな影響を及ぼしています。例えば患者の骨折部位を固定するための金属器具が足りず、困りました。「武器に使われる可能性がある」とイスラエル側が判断し、金属がほぼ入らない状況だったのです。

ガザの人びとにとって、人道援助は「自分たちは国際社会からまだ見捨てられていない」と思える唯一の希望だと、私は感じました。食べ物や医療の提供を受けることそれ自体はもちろん大切ですが、人道援助があることで「まだ救いがある」と思うことができます。
最近、ガザで新しい食料配給の仕組みが始まったと報じられています。なぜ、食料の配給場所がガザ南部に集中しているのでしょう。一体どれだけの距離を歩かされるのでしょう。
本当に支援を必要としている人が、適切な場所で、適切な支援を受けられる。それが人道援助だと私は思います。
平和を願う声、もっと
日本に帰ってきた3月下旬はちょうど桜の季節でした。至るところにきれいな花が咲いていました。
一方のガザでは、花を見た記憶が全くありません。私はガザの人たちを置いて自分だけ安全な別世界に来たような感覚になり、罪悪感からつらい気持ちになりました。
ガザは日本から遠いので、現地のイメージはつきにくいかもしれません。それでもまずは関心を寄せて、何が起こっているのか正しく知るところから始めてください。
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その上で、もっとガザの平和を求める声が社会から多く上がってほしい。そう、切に願っています。
中池ともみ(なかいけ・ともみ)
鹿児島県生まれ。鹿児島市の看護学校を卒業後、国内の病院で働く。2015年から国境なき医師団に参加し、これまで南スーダンやイエメン、イラクなどで活動してきた。現在は東京都内の病院に勤める。長崎大学大学院修士課程修了。
#人道援助は紛争の道具じゃない
パレスチナ・ ガザ地区で、イスラエルと米国が「人道援助」を管理する計画を進めています。国境なき医師団(MSF)は、人びとの命を守るための援助は、政治や紛争の道具にされるべきではないと訴えます。
MSFは、ガザの人びとの尊厳を守り、安全に継続して、必要な物資や医療などの援助を届けること。そして即時かつ持続的な停戦を求めています。ガザで起こっていることを知り、一緒に声をあげましょう。
皆さんがガザの状況を知り、ともに考え、伝えることが、変えるための第一歩に──。ぜひ、見て、知って、周りの人にシェアしてください。