シリア内戦は何をもたらしたか──避難民が語った「恐怖と流浪」の14年
2025年08月21日
国境なき医師団(MSF)は10年以上前から北部のイドリブ、アレッポなどで援助活動を続けていたが、旧政権崩壊を受け、首都ダマスカスをはじめ、これまで許可を得られなかった地域での活動を開始した。そこで目の当たりにした深刻な人道危機、そして、その中で生きる人びとの姿を伝える。
廃墟と化した首都ダマスカス
シリアの首都ダマスカスから、北へと延びる砂漠の道を行く。道沿いには、廃墟と化した建物のがれきが川のように連なっている。わずかに原型をとどめた崩れかけの外壁には、無数の弾痕が刻まれている。
シリア北西部のイドリブまで行くと、廃墟はあまり見えなくなった。代わりに、街が姿を見せる。オリーブ畑の合間にテントやビルが無秩序に散らばっている。この風景がトルコ国境まで続いているのだ。
その丘陵地帯には、ビニールシートもかけられていない屋根なきテントが並んでいる。MSFでヘルスプロモーターを務めるヤヒア・アブードが、それらを指差しながら説明する。
「ああいうふうに屋根のないテントや避難所もありますが、今はもう空き家ですよ。あそこに住んでいた人たちは、幸運にも自宅が残っていました。荷物をまとめて家に帰っていったのです」
14年前の2011年にシリア内戦が始まって以来、数百万人が国内外に避難した。2024年12月にアサド政権は崩壊したが、現在もシリア国内には約720万人の避難民がいる。ヤヒアは続ける。
「政権が崩壊して以来、故郷に帰ろうとした人たちも多かったのです。でも、このイドリブでは今もなお、数百万人が仮設キャンプで暮らし続けています」
帰郷しても自宅はすでになく、町は荒れ果て、生活インフラも崩壊している──そのような人たちも少なくありません。
ヤヒア・アブード MSFのヘルスプロモーター

流浪の旅を続けた14年
この14年間、戦争と恐怖と破壊に耐え続けてきました。故郷に帰り、我が家に戻って、子どもたちが当たり前の暮らしを送る──それが私たちの夢だったのです。
ワリードさん シリアで避難生活を送る男性
しかし、帰り着いた故郷を見て、ワリードさんは愕然としたという。
「それは、まさにゴーストタウンそのものでした。廃墟と化した家々、荒れ果てた田畑、高さ2メートルを越えるがれきの山、アサド政権が残していった地雷や爆弾の残骸──ヘビがそのすき間をうようよと這い回っていたのです」
2011年、アサド政権が空爆を開始したため、ワリードさん一家は住み慣れたアレッポ県内の村を離れた。その後14年間にわたって、空爆を逃れるように村から村へと居場所を転々とした。移動は7回に及んだ。

2012年、ワリードさん一家はイドリブ県内にあるアブ・ドゥフールという町に避難した。そこで、取り返しのつかない悲劇が起きた。
「アブ・ドゥフールにたどり着くと、ほとんどの家々が破壊されている光景を目の当たりにしました。私たちは、かろうじて残っていた家屋に身を寄せ、仮住まいとしたのです。そこで暮らした期間は1年かそこらだったと思います」
しかし、そこにも空爆が襲ってきました。避難民が暮らしていた場所も狙われました。私たちの目の前で、約70人が殺されたのです。
ワリードさん シリアで避難生活を送る男性
ワリードさん一家も、空爆から逃げる最中に被害を受けた。ワリードさんの母親は命を落とし、2人の娘は下半身不随となった。生まれて間もない息子ハムザちゃんは、破片によって目を損傷した。もうひとりの息子ジュマ・マンスールくんは、火傷と破片によって重傷となり、半身不随になった。
「あのとき、母や子どもたちを必死に探しました。しかし、現場は爆撃で焼き焦げ、わが子と隣人の子の区別すらつきませんでした。その後、息子のジュマ・マンスールが近隣の街の病院にいることを知らされたのです」
ワリードさんは2日かけて、子どもたち全員の行方を突き止めた。彼らはアレッポ県とイドリブ県の医療施設にそれぞれ運ばれていたのだ。
その後、ワリードさん一家は15キロほど移動して「ミラス洞窟」と呼ばれる地で6〜7カ月ほど暮らした。しかし、そこにも空爆が襲ってきた。
一家は何度も何度も、移動を強いられた。彼らは最終的にイドリブ県北部の避難民キャンプに落ち着き、今もそこで暮らしている。

生活に追い打ちをかける国際援助の削減
現在、ワリードさん一家14人は、3つの小部屋とキッチンがあるだけの、小さなセメント造りの避難所で暮らしている。一家にとって頼みの綱は、人道援助だけだ。しかし政権崩壊以来、米国の援助資金は削減され、国際機関も次々と撤退していった。この1年間で、人道援助の規模は著しく縮小していった。
1カ月前、ワリードさんの末の息子イブラヒムちゃんが、薬の不足により腎不全で亡くなった。
「息子の容体が悪化していたので、トルコにある病院に連れて行ったんです」
イブラヒムちゃんには、高額な外国製の薬が処方された。それは、シリアのイドリブ県ではほとんど入手できないものだった。しばらくして家計が苦しくなり、薬の量を減らさざるを得なくなった。イブラヒムちゃんの病状は悪化し、急性腎炎を発症した。
イブラヒムちゃんの写真を見つめながら、ワリードさんは語る。
「一家の生活を支えるべきか、わが子の治療を続けるべきか、その板挟みでした。四方八方を塞がれたような状況でした」
結局、投薬量を減らすしか選択肢がなかった。そのせいで容体は悪化し、亡くなりました。まだ3歳だったのに──。
ワリードさん シリアで避難生活を送る男性

子どもたちには新しい人生を築いてほしい──
内戦によって、シリアの医療体制は崩壊していた。専門医療は庶民には手の届かないものになっていた。
MSFは数百万人が暮らすイドリブ県とアレッポ県の避難民キャンプで移動診療を行い、基礎的な医療、リプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)、心のケアを無償で提供している。しかし、人びとが専門的な医療を受けるためには、大都市まで出向かなければならない。
現地は山間部の農村地帯だ。ここでは医療だけでなく、水をはじめとする生活インフラも機能不全に陥っている。特に政権崩壊後は、多くの国際援助団体がホムスやアレッポといった大都市に拠点を移してしまったため、状況はさらに悪化する一方だ。
ワリードさんにとって、専門医療が受けられないのは痛手だった。2人の娘は体が不自由で寝たきりになっており、2人の息子も後遺症が残っている。
今の私たちには、日々の暮らしをまかなうのがやっとです。平均的な労働者の1日の収入は150〜200シリア・ポンドほど。パンを9個買えば、それで終わりです。
ワリードさん シリアで避難生活を送る男性
「以前は、キャンプ内のゴミ収集もきちんと機能していました。秩序が成り立っていました。しかし、政権が崩壊すると、いろいろなトラブルが発生しました。まず、水です。供給量が極端に減り、水を使うのに苦労するようになったのです」
キャンプでの生活はもともと厳しいものだったが、そこに米国による援助資金の削減が追い打ちをかけた。医療はますます受けにくくなり、このシリア北西部だけを見ても、医療活動はほとんど停止している。
世界保健機関(WHO)によると、2025年5月の時点で米国の援助資金削減の影響はシリアの14県すべてに及んでいるという。その結果、280以上の医療施設が規模縮小や活動停止を余儀なくされている。
シリアでは、内戦前の人口の半数以上が今もなお避難生活を送っている。その数は内戦が始まった2011年以来の最高値に達し、国連によれば1670万人もの人びとが命を守るための援助を必要としているという。
そうした状況下でも、ワリードさんはシリアの未来に希望を抱き続ける。
それでも、これで良かったんです。私たちは不正義の時代に置かれてきた。アサド体制の暴政に苦しめられてきた。それが終わったのですから。
ワリードさん シリアで避難生活を送る男性
「私たちの願いは、子どもたちのことだけです。学業に励んでほしい。知識を身につけてほしい。新しい人生を築いてほしいのです。やがて、神のご加護のもと、私たちが味わってきた恐怖、破壊、屈辱、流浪の記憶は、遠い過去のものとなるでしょう」
