「どうかこの苦しみを取り除いて」──ガザで医療搬送を待つ人びとの叫びと祈り

2025年12月25日
ナセル病院で医療搬送を待つハーデルくんとその母親=2025年11月25日 © Nour Alsaqqa/MSF
ナセル病院で医療搬送を待つハーデルくんとその母親=2025年11月25日 © Nour Alsaqqa/MSF

パレスチナ・ガザ地区では現在、数千人の子どもを含む1万8500人以上が、ガザ地区の外への医療搬送を必要とする患者として登録されている。実際にはこの数字に加えて、医療施設にたどり着けず、登録すらできない人びとも多いとみられている。
 
ガザ保健省によると、2024年7月から2025年11月28日までに、医療搬送を待つ間に命を落とした患者は1092人に上る。
 
ここではガザ地区南部のナセル病院で搬送を待つ5人の患者の証言を紹介する。その言葉は、恒久的な医療搬送の体制構築と、人道援助へのアクセス確保がいかに急務であるかを浮き彫りにしている。

ナセル病院で医療搬送を待つ5人の証言

停戦後も何も変わらない──マラムさん

マラムさん=2025年11月12日 © Nour Alsaqqa/MSF
マラムさん=2025年11月12日 © Nour Alsaqqa/MSF
10月1日にイスラエル軍に爆撃されました。ガザ地区中部デールバラハのザワイダ地区にあるテントの中で、私は両脚にけがを負い、約15分間、地面に横たわったまま動けませんでした。

母、父、祖母、そして姉──みんな、その場で殺されました。通りにいた若者たちが私を車に乗せ、デールバラハにあるMSFの仮設病院へ運んでくれました。そこで脚に包帯を巻かれ、薬をもらいました。

ただ、仮設病院には血管外科医がいなかったため、救急車でナセル病院へ搬送されました。そこで右脚の切断手術を受け、左脚にはプレートを挿入しました。さらに、小腸と大腸に破片があったため、開腹手術も受けました。

3度にわたる開腹手術を終え、左脚は皮膚移植を行い、右脚も縫合されています。今のところ、経過に異常はありません。

停戦前と後で、何が変わったというのでしょう。私はこうして新たに負傷し、家族を失いました──何も変わったとは思えません。停戦があろうとなかろうと、状況は同じです。

命を失う前に、何とか搬送を──ハナーンさん

カセムくんとハナーンさん=2025年11月12日 © Nour Alsaqqa/MSF
カセムくんとハナーンさん=2025年11月12日 © Nour Alsaqqa/MSF
私には外での治療が必要な3人の子どもがいます。医療搬送の手続きは済んでいるのですが……。

一人娘は、この3人と同じ病気で命を落としました。治療が足りなかったことが原因です。紛争前は今より状況は良かったものの、ガザではずっと医薬品が不足していました。私たちはラファ出身で、これまでマワシ地区やハンユニスへも避難しました。

病院に行くのは本当に大変です。特に夜、子どもが喘息の発作を起こしたら、どうしたらいいかわかりません。あるときは、夜中の1時に子どもを抱えて病院まで走りました。病院まではとても遠いのです。

息子のカセムは、以前はもっと元気でした。しかし、ガザで食料が減り飢饉になると、体重が落ちて急性の栄養失調になりました。体がむくみ始めて、手足や顔も腫れてしまって。呼吸ができず、顔色が青くなることもありました。

カセムが娘と同じくらいまで悪くなったことが、本当にショックです。娘のときは、間に合いませんでした。娘の死因は、タンパク質不足による肝不全でした。あの頃は、今よりまだマシで、少しは治療ができました。でも今は、何もありません。

娘に起きたことが、カセムや他の子どもたちにも起きるのではないかと、心配でたまりません。だからこそ、彼らを失う前に、何とか間に合うように外に搬送したいのです。

2カ月前、急に戦車が侵入してきました。誰もそんなことが起きるなんて思ってもいませんでした。突然、みんなが走り出して、私たちも逃げました。病気の子どもたちのためのネブライザーや吸入器を持ち出す時間さえありませんでした。

イスラエル軍が撤退した後、確認しにテントへ戻りましたが、何も残っていませんでした。ネブライザーは壊れていて、カセムが飲んでいたビタミンやタンパク質なども、全部なくなっていました。本当に、何一つ見つかりませんでした。

必要なものは、すべて途絶えている──ハーデルくんの母親

ハーデルくんを抱く母親=2025年11月12日 © Nour Alsaqqa/MSF
ハーデルくんを抱く母親=2025年11月12日 © Nour Alsaqqa/MSF
息子のハーデルは「糖質吸収不良症候群」という病気です。以前は、血糖値や症状を調整するために特別なミルクを飲んでいました。
 
でも、この2年間、そのミルクをあげられていません。紛争の影響で、手に入れることができなくなってしまったからです。そのせいで、腎臓に問題を抱えるようになりました。
 
右の腎臓はもともと骨盤内にありましたが、萎縮してしまいました。そして、左の腎臓は尿の滞留によって肥大し、血糖値が急上昇しました。
 
ハーデルは外で遊ぶのが大好きで、元気に動き回る普通の子どもです。でも、病状のせいで、学校には通わせていません。一日中、絶え間ない下痢に悩まされていて、10~15分おきにトイレに行くような生活なのです。

ハーデルが「みんなと遊びに行ってくる」と言えたらいいのに──外に出ようとしても、ドアにたどり着く前にトイレに戻ってしまいます。他の子と一緒に遊ぶことができないのです。
 
ハーデルは何度も、私の腕の中で死にそうになりました。病院へ行くための車を呼ぶお金がなかったのです。救急車が負傷者や他の急病人の対応を終えるのを待って、誰かがハーデルを助けに来てくれるのを願うしかありませんでした。
 
こんな状況が続いて、もう2年になります。私はハーデルの病気のすべてをともに感じてきました。生後40日から、ずっと苦しんでいるのです。

紛争のせいで、容体はさらに悪化しました。食料もなく、ミルクもありません。ハーデルに必要なものは、すべて途絶えているのです。

望むのは、自分の足で立つことだけ──オサマさん

オサマさん=2025年11月12日 © Nour Alsaqqa/MSF
オサマさん=2025年11月12日 © Nour Alsaqqa/MSF
そのとき、私はデールバラハを訪れていました。ガザでも、あのあたりに行くのは初めてでした。すると、私がいた場所のすぐ隣のテントが空爆されたのです。
 
私は病院に搬送され、13時間にわたる手術を受けました。左脚は切断され、右脚は複雑骨折を負い、外固定器が装着されました。さらに、頸部と気管の切開も行われました。
 
私は2つのけがを抱えています。1つは今苦しんでいるこの負傷、もう1つは11月に受けたものです。11月のとき、イスラエル軍が叔父の家を爆撃し、近くの家もすべて破壊されました。私はがれきの下に23時間、閉じ込められていました。なんとか生き延びることができましたが、脊椎を骨折していて、45日間入院しました。

がれきの下にいる間、頭の中は「死」のことばかりでした。とても寒く、誰も想像しないようなことを考え続けていました。

そして、痛みで叫び続けていました。脚ががれきに押し潰されていたからです。痛みと苦しみで叫び、さまざまな思いが渦巻いて……とてもつらかった。助かるのか、死ぬのか——その感覚は耐え難いものでした。私は意識を失っていて、気が付くと病院にいました。

なぜ私たちは搬送されないのでしょうか?  みんな、負傷しているのに。この気持ちはとても苦しいです。治療のためにガザ地区の外へ行けることを願っています。

私が望むのは、自分の足で立つこと──それだけです。義足をつけてもらい、もう一方の足の手術を受けて、再び立てるようになりたいのです。

息子とともに、ずっと待っている──サミさん

サミさん=2025年11月12日 © Nour Alsaqqa/MSF
サミさん=2025年11月12日 © Nour Alsaqqa/MSF
私は6階建ての家で家族と一緒にいましたが、イスラエル軍に避難するよう命じられました。私はそのとき、息子から30メートルほど離れた場所にいました。イスラエル軍は息子を撃ち、息子はその場で命を落としたのです。

それから、彼らは私に向けてミサイルを発射しました。ザイトゥーン地区でのことです。攻撃からわずか8分で、家全体が破壊されました。そして私はママダニ病院に約2カ月半、入院しました。 

その後、バプティスト地区周辺に移りましたが、そこでもイスラエル軍に避難を命じられました。私はタルアルハワに避難し、家の近くにテントを張りました。

ところが、その家もイスラエル軍に爆撃すると脅されたのです。私はけがで全く歩けなかったので、周りの人が私を抱えて連れ出してくれました。家は爆撃され、完全に破壊されました。本当に、何ひとつ残っていませんでした。

医療搬送のための移動許可は、だいぶ前に発行されています。ここナセル病院で私は登録されて、それ以来、ずっと待っているのです。

神に祈っています。どうかこの苦しみを取り除いてください、と。

私にはがんを患っている息子がいて、同じく医療搬送を待っています。息子が出発するはずだった日から、もう1カ月が経っています。ここには診断書もあるのに──。

この記事のタグ

関連記事

活動ニュースを選ぶ