ガザに降り注いだミサイルの雨 イスラエルによる攻撃から1年、決して癒えない傷がある

2022年05月31日
イスラエル軍の空爆により破壊されたガザ市内=2021年5月19日 Ⓒ MSF
イスラエル軍の空爆により破壊されたガザ市内=2021年5月19日 Ⓒ MSF

いまから1年前の2021年5月10日から21日にかけ、イスラエルによるガザ地区の空爆と砲撃で子ども66人を含む、256人が命を奪われた。約2000人のパレスチナ市民が負傷し、一部の人びとは四肢や視力を失うなど、長期的な障害が残っている。

この攻撃の以前から、パレスチナ自治区ガザ地区のパレスチナ人の多くは戦争がもたらす痛みに苦しんできた。中でも、2014年のガザ侵攻と2018年の「帰還の大行進」の影響は大きく、人びとは命の危険や住居が取り壊される光景、日々の経済的困窮などにより深く傷ついていた。そのような状況で起きた昨年5月の攻撃は、まさに彼らの傷に塩を塗る出来事だった。

また、ガザに住む200万人のパレスチナ市民の40%以上は、14歳以下の子どもだ。子どもたちは生まれてからずっと、イスラエルの封鎖下で暮らしている。イスラエルによる3回の大規模攻勢を生き抜いた彼らは、これまでも、そしていまも繰り返し傷を受けている。

攻撃から1年が経過したいま、ガザ地区のパレスチナ人が抱える不安と心の傷とは──。国境なき医師団(MSF)は、患者2人とスタッフ1人から話を聞いた。彼らの言葉から、1年前の戦闘が人びとの心と体に残した、癒えない傷が垣間見える。

※文中の名前は仮名です。

アフマドさん(41歳)

既婚。18歳、17歳、7歳、3歳になる4人の子どもがいる。爆撃により負傷し、片手を失った。


私も死んだ方が良かった。そう 思う時もあります。そうすればガザを離れられたのに

モハマドさん(36歳)

既婚。昨年の戦闘で3人の子どものうち一人息子(8歳)を亡くし、自身も負傷。


横に目を向けると息子が倒れていました。救急車はどこにもいませんでした

爆撃の始まった日のことです。息子と自宅の軒先にいた時に、すぐそばの車にミサイルが当たりました。その後のことはよく覚えていませんが、自分の両脚は傷だらけになっていました。横に目を向けると、息子が倒れていたのです。内臓が飛び出し、両手がなくなっていました。私は泣き叫び、屋内から駆け寄ってきた妻と2人の娘も、同じように泣き叫んでいました。周りにもけが人がたくさんいるのに、救急車はどこにもいませんでした。

Ⓒ MSF
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隣人たちが死傷者を自家用車で病院に運び込みました。息子もいち早く車に乗せられたのですが、その時点でもう死んでいたのだろうと思います。私は同じ車に乗れず、別の車に乗せられました。他に重傷者が3人乗っていたため、負傷した足をはみ出したまま車のトランクに入って……。病院までの道はまるでこの世の地獄でした。どこを見回しても残骸だらけで、辺り一面が火の海で、空爆が続き、ガザの半分が爆発に飲み込まれていました。

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あの日の光景は、それまでに目にしたどんな戦闘とも違います。民間人が狙われ、逃げ場もなく、至る所に炎が立ち上っていました。その後、私の家庭も完全に壊れてしまいました。妻が出ていったんです。妻は精神的にひどく落ち込んでしまって、そこから立ち直れず、一人息子の死について私を責めました。娘の一人だけが私のもとに残り、病院でもずっと付き添ってくれています。

1年経ったいまも入院しています。数えきれないほどたくさんの手術と治療を受けてきました。手術の回数では、記録を更新したんじゃないでしょうか。笑ってしまいますよね、笑うしかないんです……。

アシュラフさん(30歳)

MSF医療スタッフ。既婚、2人の子どもの親。


3歳で、爆発と花火とミサイルの音を聞き分けられる。それが娘の年代の子どもたちなのです

妻と2人の子どもと一緒に攻撃を目の当たりにしたのは、昨年5月が初めてです。爆弾があれほど近くまで迫ったことも、それ以前にはありません。子どもたちは怖がって、悲鳴を上げ、私と妻が何を言ってもなだめられませんでした。私が花火だとごまかそうとしても、娘に嘘だと見抜かれてしまいました。「花火なら、あんなに大きな音はしないし、もっときらきらしてるけど、これは音がすごくて、おうちの外にも火しか見えない」というのです。

Ⓒ MSF
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家族を失うことが一番の心配でした。私も妻も医療従事者なので、病院への出勤と子どもたちの世話を交代でしなければいけません。病院にいる間も、電話が鳴り「家族が死んだ」という知らせが来るんじゃないかと、ずっと不安でした。

MSFの救急車も爆撃の影響で身動きが取れず、出勤時も安全かどうかわからないまま、同僚に相乗りさせてもらうしかありませんでした。何もかもが標的になり、病院さえも安全ではない状況だったからです。私と同僚が手術室にいると、周りに爆弾が落ちました。病院から300メートル……100メートルのところにも落ちました。手術室もたびたび振動して、まるで地震でした。次は自分たちが狙われるかも知れず、怖かったです。

爆発の激しさもそれ以前の攻撃では見たことのないものでした。ミサイルが、まるで土砂降りの雨のように降り注いでいました。病院への道すがら、町の中心部で全壊した建物と、路上に投げ出された遺体を目にしました。そこに、大勢の人が住んでいたんです。

Ⓒ MSF
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病院には、さまざまなけがの患者が絶え間なく押し寄せました。私たちは大勢の負傷者に対応し切れませんでした。輸血用の血液が十分になく、集中治療室の人手も足りませんでした。あれほどたくさんの人を一度に治療することなど、とてもできません。目の前の命を、1人でも多く救うことに専念していました。あちこちで敗血症が見られ、新型コロナウイルスなどの感染症も心配でした。

あの日の攻撃は、それまでよりも短期間でしたが、はるかに激しいものでした。過去の経験も助けにならなかったほどで、誰もが皆、次に死ぬのは自分だと覚悟していたほどです。以前は砲爆撃が止むことも、人道回廊もありました。しかし、昨年は避難できる場所も、安全な場所も全くなかったのです。

娘はもともと、海岸に行くのが大好きで、昨年の5月以前は毎日せがまれたものです。ところが、浜辺に爆弾が落ちるところを自宅の窓から目にしてから、また「海岸に連れてって」といわなくなりました。

まだ3歳なのに、爆発と花火とミサイルの音を聞き分けられる。健全な子ども時代とは言えません。生涯にわたり、どんな傷を背負っていくことになるのか……。神のみぞ知るところでしょう。

ガザ市内にあるMSFの診療所も被害を受けた Ⓒ MSF
ガザ市内にあるMSFの診療所も被害を受けた Ⓒ MSF

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