米国の移民政策転換、中南米で広がる人道危機──「ダリエン地峡」を越えた人びとの“いま”
2025年08月22日
南米コロンビアと中米パナマを隔てる密林地帯・ダリエン地峡を命懸けで越えた移民・難民も、いまや数万~数十万人がメキシコなどで足止めを余儀なくされている。ある男性は銃口を突きつけられ、別の女性は子どもと街に取り残された。暴力の脅威は高まり、心を病む人が増えている。
国境なき医師団(MSF)はこうした現場で診療や心のケアを続けてきた。移民・難民の過酷な現実を明らかにする新たな報告書を8月に公表し、周辺の各国政府に「人を罰するのではなく守る政策」への転換を強く求めている。
声なき移民・難民たち
メキシコ北部フアレス市で立ち往生しているベネズエラ人の男性は、過酷な体験をこう振り返る。
男性は息子らが待つ米国に向かっている途中、犯罪組織に拉致された。監禁は60日間に及び、殴打され、歯を抜かれるなどの暴行を受けたという。
ある時は、銃を口に押し込まれたまま写真を撮られた。身代金を要求するためで、息子に電話をかけさせられた。息子らが金銭を用意して男性はようやく解放されたが、米国に安全にたどり着く手立ては閉ざされたままだ。
男性は「今の米国政府の政策の下で、もうどうすればいいか分かりません」とうなだれる。

米国政府は2025年1月末の政権交代以降、人びとが安全を求めて移り住む道を次々と閉ざしてきた。
保護申請に必要だった米税関・国境警備局(CBP)のアプリ「CBP one」を突然停止し、人道的な理由による一時的な受け入れ制度も打ち切った。そのうえメキシコとの国境警備を一段と強め、多くの移民・難民を締め出している。
送還の現場でも、非人道的な対応が繰り返されている。例えば、人びとは拘束具で縛られたまま移送されるほか、母国ではない第三国に送り込まれたり、家族と引き離されたりしている。
また、中南米を縦断するルート沿いの国々でも移民・難民を阻む動きが強まっている。
各国の当局は、人びとを強制送還して移動を制限するだけにとどまらない。行き場を失った移民らが身を寄せていた都市部のキャンプを撤去し、受け入れ施設を閉鎖した。さらには家宅捜索や不当な拘束も常態化している。
国境警備の巡回は増強し、滞在許可や保護申請などの手続きはこれまで以上に複雑化した。行政手続きの窓口も縮小され、人びとが安全を求める道はますます狭められている。

MSFメキシコ・中米地域の副オペレーション・マネジャー、フランキン・フリアスは「こうした新たな政策のせいで、すでに縮小していた人道援助はさらに少なくなりました。人びとの暮らしは壊滅的な打撃を受けています」と警鐘を鳴らす。
フリアスが特に訴えるのは、人びとが目に見えない形で置き去りにされている実態だ。
「移民が減ったかのように言われていますが、それは誤解です。私たちは毎日、現場でその犠牲者を目の当たりにしています」
治療も受けられず放置されるけが、性暴力の深い傷、日常を送ることさえできなくなる心の病……。それがここで起きている現実なのです。
MSFメキシコ・中米地域の副オペレーション・マネジャー フランキン・フリアス
“逃げ場”で待ち受ける絶望
「私たちは見捨てられたのです」
メキシコ北部のレイノサにとどまっているホンジュラス人の女性はこう嘆く。
女性は「CBP one」を使い、米国への入国手続きをする面接の予約を済ませていた。だが、予定のわずか3日前にアプリが止まり、すべての予約が白紙になったという。
長い時間をかけて子どもと待ち続け、ようやく希望が見えた矢先のことだった。女性は「私は不法に米国へ入ろうとしたわけでは決してありません。子どもにより良い人生を送ってほしい、ただその一心で正規の手続きを踏んできました」と声を振り絞る。
ここに至るまで、詐欺に遭い、カルテルに脅され、何度も騙されてきました。残ったのは心にある深い傷だけです。
メキシコ北部にとどまるホンジュラス人の女性
ベネズエラやキューバの政治・経済の混乱、ハイチで生じる激しい暴力、コロンビア周辺で続く紛争、エクアドルや中米各地での犯罪組織の脅迫、働く機会の欠如──。国によって事情はさまざまだ。

メキシコ南部タパチュラで滞在を余儀なくされているエルサルバドル人の女性は「母国から逃げたのは政治的、経済的な理由ではありません。生き延びるために他に選択肢がなかったのです」とため息をつく。
米国南部の国境で保護申請するのはほぼ不可能となり、行き場を失った数万人がメキシコを「唯一の逃げ場」とみなすようになった。
しかし、そこで待っているのはさらに厳しい現実だ。MSFのチームは、メキシコの複数の都市で保護申請が以前よりも長引き、複雑になっている事態を確認している。

また、暴力事案も後を絶たない。犯罪組織などによる被害が依然として深刻で、拉致、恐喝、強盗、性的暴力、労働搾取──と多岐にわたっている。
メキシコ北部と南部でMSFのプログラムを統括したリカルド・サンティアゴは「以前は移動している人の数が多かったため、被害を免れる人もいました。しかし現在は私が話を聞いたほとんどの人が何らかの暴力被害に遭っており、逃げ場はありません」と強調する。
裏側の「人生」を見て
この1年半近くで9万件を超える一般診療をして、1万件以上のリプロダクティブ・ヘルスケア(性と生殖に関する医療)を提供した。また、性的暴力に遭った約3000人の被害者を治療。1万7000件近い心のケアをして、その主な原因は暴力だった。

こうした状況を踏まえ、MSFは2025年8月に新たな報告書『歓迎されない存在──米国、メキシコ、中米の移民政策が人びとにもたらす壊滅的な影響』を公表した。
報告書は、MSFがこれまで集めてきた医療データの分析に加え、移動の各段階にあるさまざまな国籍の人びとへの聞き取り、そしてパナマ、ホンジュラス、グアテマラ、メキシコで活動するスタッフの証言を基にまとめられた。
そこで浮かび上がったのは、最近の政策転換によって保護申請の権利が大きく損なわれている現実だ。その結果、人びとは安全な場所を失い、肉体的、精神的、制度的に終わらない暴力の連鎖に追い込まれている。

MSFのチームは中南米、とりわけメキシコで心のケアを求める声が増えたことを確認している。移動する人びとの数が減り、通常なら活動を縮小する状況であるにもかかわらずだ。
しかも、重い症状を抱える人の割合が高まっている。これまでも、人びとは移動の途中で繰り返し暴力にさらされ、劣悪な環境で過ごすうちに心をすり減らしてきた。そこに突然の政策転換が追い打ちをかけ、人びとは絶望を感じている。
症状はどんどん深刻になっています。
タパチュラのMSFプロジェクト・コーディネーター ルシア・サマヨア

移民らは強制送還や拘束を恐れ、姿を隠すようになった。犯罪者のように扱われ続ける中で、社会から一層見えづらい存在になっている。
フリアスは「移民らへの支援はますます届きにくくなっており、人道援助の仕組みもニーズに十分対応できていません。しかしその裏側には、命の危険から逃げてきた家族、国境を一人で越える子どもたちの『人生』があります。彼らの健康や安全、尊厳を守ることは、法の上でも、人としての義務でもあるのです」と指摘する。
周辺の各国政府に対し、フリアスは強く呼びかける。
人びとを罰するのではなく守ってください。そして、安全に移動できる仕組みを今すぐつくることが重要です。
MSFメキシコ・中米地域の副オペレーション・マネジャー フランキン・フリアス
