「避難した先に空爆が」──国境なき医師団スタッフが伝えるレバノンの今
2024年10月01日国境なき医師団(MSF)レバノンの広報担当マネジャー、マリヤムは首都ベイルート南部に暮らしてきた。避難先を見つけて移ると、そこでも空爆が起き、車で避難した。マリヤムが目撃したベイルート南部の状況を報告する。
パレスチナおよび、イスラエルとパレスチナにおける衝突の影響を受ける近隣諸国(エジプト・レバノン)での緊急援助に必要な活動資金は、「緊急チーム」募金から充当します。
安全な場所はどこ?
ベランダから見ると、たくさんの人びとが、ビニール袋やリュックサック、あるいは何も持たずに通りを歩いているのが見えました。私たちの住むベイルート南部では、イスラエル軍から退避要求が出ていました。杖をついて歩く人もいれば、若い人も高齢者もいました。車に乗っている人もいました。私たちは標的となった地域にはいませんでしたが、近くでドローンや戦闘機の音が聞こえました。
突然あたりが真っ暗になり、至る所で爆撃が始まりました。大量の煙が立ち込め、道行く人びとは咳き込みました。私は母と兄と妹と一緒に、次にどうすべきかを考えていました。道路は安全なのか。どこへ行けばいいのか、と。
避難先に落ち着いたばかりのはずなのに
数日前、激しい爆撃を避けてベイルート南郊のダヒエにある自宅を離れ、こちらに引っ越してきたばかりでした。 こちらの方が安全だと思ったのです。
しかし、またも避難しなければなりません。手元にあった必需品をバッグに詰め込みました。 マットレスを持参した方が良いと聞いたので、2枚を車に積み、水のボトルも1パック用意しました。どうしていいかわかりませんでした。空爆のあと、あちこちで火の手が上がり、大きな爆発音が聞こえました。空爆の音を聞き、感じ、目撃しました。建物が揺れていました。退避要求も出ていない場所で爆発が起きました。
「ここで待っていてはいけない」
火と煙に囲まれながら、私は心の中で繰り返していました。「必要なのは計画と行動だ。計画を立てて行動を起こさなければ。ここで待っていてはいけない」と。
とにかく急いでその場を離れました。自分のもともとの家や新しい家がどうなったのかは、分かりません。行き先が決まるまで電話をかけ続けて2時間ほど車を走らせ、午前5時頃、山の向こう側に居場所を見つけました。
私たちがいた場所はその後、炎に覆われたので、良いタイミングで避難できたのは幸運でした。私たちはただ、少し休んで次にどこへ行くかを考えられる場所が必要だっただけなのに、まだ眠れていません。今も車中泊をしている人びともいます。今、ニュースや映像で何が起きているのかを見ています。
自分も避難民の一人に
MSFの同僚のチームが、人びとが逃れたベイルートや山岳レバノン県の避難所や学校にトラックで水を供給していることは知っています。 MSFは24時間で8万6000リットルの水を供給し、避難民に基本的な衛生用品や救援物資、マットレスを配布しています。
心のケアチームは、心的外傷を負った人びとや学校に避難している人びとに心理的な応急処置を提供しています。
私は人道援助スタッフとして活動してきましたが、今では空爆により避難を余儀なくされた一人となりました。今のところは、安全な場所に身を置いています。