難民という運命を超えて、生き抜く──レバノンで人道援助を続けるパレスチナ人の物語
2025年07月02日
経済危機と政情不安が続くレバノン。国民の8割以上が貧困ライン以下の生活を余儀なくされており、医療体制もぜい弱で、人びとは基礎医療を受けることさえ難しい状況に置かれている。
レバノンには、シリアやパレスチナから逃れてきた人びととその子孫ら150万人以上が暮らしており、その多くが難民キャンプで不安定な生活を送っている。国境なき医師団(MSF)は、そういった最も弱い立場に置かれた人びとへ、国籍を問わず無償で医療を提供してきた。
この記事では、レバノンでパレスチナ難民として生まれ育ち、現在はMSFで看護師として活動する男性を紹介する。彼は言う。
「私は父であり、夫であり、看護師であり、人道援助の現場で働くスタッフです。私が今の私であるのは、難民だからなのです」
難民ゆえのトラウマを抱えながらも、人道援助に携わる喜び、レバノンへの想い、そして、生き抜く決意を語る。
難民ゆえのトラウマを抱えながらも、人道援助に携わる喜び、レバノンへの想い、そして、生き抜く決意を語る。
遮断された世界──難民キャンプでの幼少期
私はムハンマド・サナアッラー、レバノンで暮らすパレスチナ難民です。

私はレバノン南部サイダ市にあるアイン・ヘルウェ・パレスチナ難民キャンプで生まれ育ちました。1948年のナクバ(※)後に設立されたこのキャンプは、レバノン国内に12カ所あるパレスチナ難民キャンプの一つです。
キャンプの規模としては最大かもしれませんが、私にはいつも狭く感じられました。コンクリートの壁が周囲を囲み、「外の世界」を遮っているからです。
キャンプの規模としては最大かもしれませんが、私にはいつも狭く感じられました。コンクリートの壁が周囲を囲み、「外の世界」を遮っているからです。
世界中の何百万人もの難民と同じように、私も自ら望んで難民になったわけではありません。1948年、私の祖父母は(現在はイスラエル領北部アッコ郡の)デール・エル・アサドを離れざるを得なくなり、行き先も分からないまま旅立ちました。父はまだ幼く、母は生まれたばかりの赤ちゃんでした。
「3日もすれば状況は良くなって、戻れるでしょう」と、曾祖母は祖父に言ったそうです。しかし、その機会は未だ訪れていません。なぜ、3日が77年にもなってしまったのでしょうか?
- ※ナクバとは、アラビア語で「大災厄」の意味。1948年の第一次中東戦争時に起きた多数のパレスチナ人の難民化を、アラブ・パレスチナ側ではこう表現する。

自分は何者なのか──難民ゆえの葛藤
私は他のパレスチナ難民と同様、故郷から離れて育ったことによるトラウマが積み重なって、アイデンティティの危機を経験してきました。幼い頃から自分がパレスチナ人であることは知っていましたが、それが実際に何を意味するのかは分かりませんでした。
戻るべき故郷のない難民とは、いったい何者なのでしょう?
叶わない夢から見出した人道援助の喜び
子どものころ、私は医師になって、医療を必要とする人びとを助けたいと思っていました。しかし、「難民である自分が、この国で医師として働くことはできない」という厳しい現実に、すぐに気づかされました。
医師の道を選ぶということは、レバノンを離れることを意味し、それは私にとって受け入れがたいことでした。そこで私は、看護師になることを決意したのです。
医師の道を選ぶということは、レバノンを離れることを意味し、それは私にとって受け入れがたいことでした。そこで私は、看護師になることを決意したのです。
そして、2011年にMSFに参加しました。それ以来、看護師という職業に対する喜びの気持ちは、どんどん大きくなりました。医療を最も必要としている人びとのために働く日々はあっという間に過ぎていき、気づけば14年も人道援助活動を行っています。こんなにも長く携わることになるなんて、予想もしていませんでした。

私は最初、アイン・ヘルウェ難民キャンプ内のMSFプロジェクトに参加し、その間、さまざまな活動を行いました。このキャンプは、レバノン国内の他のパレスチナ難民キャンプと同様、2011年に始まったシリア内戦から逃れてきた難民を受け入れていました。
2015年にベイルート南部のプロジェクトに移り、シャティーラとブルジバラジネの難民キャンプで2カ所の診療所を運営しました。2023年にはベイルートのプロジェクトに異動し、医療へのアクセスが困難な移民労働者のための診療所を立ち上げました。
2017年と2023年に、アイン・ヘルウェ難民キャンプで複数の武力衝突が発生しました。MSFは両年とも緊急対応を実施し、私は生まれ育ったコミュニティを支援するために参加しました。また、保健省をサポートし、いくつかの緊急集団予防接種にも携わりました。

幾度となく奪われる命、希望、記憶──
2020年、ベイルート港での爆発事故という、この国にとって新たなトラウマとなり得る出来事を目の当たりにしました。その衝撃は街を再び揺るがしたように、私自身も深く揺さぶられました。
MSFの緊急対応では、基礎医療の提供、外傷の治療、慢性疾患を抱える人びとへの薬の提供、心のケア、そして、清潔な水の供給や衛生キットの配布などが行われました。
その時、私はもはや“難民が難民を支援する”という立場ではなくなっていました。

2024年9月、イスラエルはレバノンでの紛争を激化させ、再び緊急対応が必要になりました。しかし、この時の対応はこれまでとは比べものにならないほど、はるかに大規模になりました。この破滅的な紛争は、レバノン人、移民、難民を問わず、多くの人びとに再び深いトラウマをもたらしたのです。
それまで1つだったMSFの移動診療チームは、レバノン全土で22チームにまで拡大しました。私たちは避難所や過密状態のアパート、そして路上でも、避難民のいるあらゆる場所で、医療と医薬品を届けるために懸命に働きました。
この緊急対応は2カ月間に及びましたが、停戦が宣言されたからといって、紛争が終わったわけではありません。私たちは今もなお、イスラエルによるレバノン南部やベイルート南部郊外への攻撃を目の当たりにしていますし、イスラエル軍は依然としてレバノンに駐留しています。
私たちは、未だ帰る家も村も見つけられずにいる避難民の人びとの支援を続けています。
私たちは、未だ帰る家も村も見つけられずにいる避難民の人びとの支援を続けています。
パレスチナで起きていることと同じように、レバノンの人びとが命や希望、そして、記憶を奪われる戦争に苦しんでいることに、とても心が痛みます。

レバノンは「故郷そのもの」
私は、レバノンにとって自分の存在が何を意味するのか、よく分かりません。しかし、私にとってレバノンが何なのかは、はっきりとわかっています。
この地で39年間を過ごした今、レバノンはもはや「故郷に最も近い場所」ではなく、「故郷そのもの」となっているのです。
この地で39年間を過ごした今、レバノンはもはや「故郷に最も近い場所」ではなく、「故郷そのもの」となっているのです。
私はこの祖国のために歌い、この地に心を預け、帰属と忠誠の思いを抱いています。
レバノンを離れた私の家族は、なぜ私がレバノンに留まるのかをよく尋ねます。私はいつもこう答えます。この国が私を必要としているのと同じように、私もこの国を必要としているのだと──。
私の使命は、レバノン人や移民、そしてパレスチナやシリアから逃れてきた難民のために、レバノンの社会に貢献することなのです。
私の使命は、レバノン人や移民、そしてパレスチナやシリアから逃れてきた難民のために、レバノンの社会に貢献することなのです。
私には7歳の息子がいます。私はパレスチナ人、妻はレバノン人なので、二重国籍のように育てています。しかし悲しいことに、子どもが母親の国籍を引き継ぐことはできない制度になっているため、息子はどちらの国籍も持っていないのが現実です。
それでも私たちは、居場所を求めながら、乗り越える術を身に付けていきます。粘り強く闘い、そして、生き抜いていくのです。
