ただ普通の人生を生きたいだけ……虐殺を生き抜いた2人の女性

2019年09月19日
バングラデシュ・コックスバザール県。ロヒンギャの人びとが暮らす難民キャンプ © Mohammad Ghannam/MSF
バングラデシュ・コックスバザール県。ロヒンギャの人びとが暮らす難民キャンプ © Mohammad Ghannam/MSF

バングラデシュ・コックスバザール県。ミャンマー・ラカイン州で治安維持部隊による虐殺を逃れた90万人余りのロヒンギャの人びとが、今も巨大難民キャンプで避難生活を送っている。国境なき医師団(MSF)は今も、避難生活を送る人びとへの援助活動を続けている。だがキャンプの生活環境は悪く、人びとの健康が脅かされている。あの日から2年。虐殺から逃れた、2人の女性の思いとは——。 

ラシダさんの思い

生後1カ月の息子が目の前で……

虐殺から生き延びたラシダさん © Mohammad Ghannam/MSF
虐殺から生き延びたラシダさん © Mohammad Ghannam/MSF

MSFがラシダさん(27歳)に初めて会ったのは2017年。故郷のミャンマー・ラカイン州からバングラデシュに逃げてきて間もない頃だった。ラシダさんの住んでいたトゥラトリ村は、2017年8月25日から2日間にわたって、ミャンマーの治安維持部隊によって襲撃された。ラシダさんは目の前で、生後1カ月の息子が殺された。頭を何度も叩かれたという。ラシダさんも、兵士にレイプされた。首には、ナイフで切られた傷が残った。ラシダさんはそのまま、死んだふりをして過ごした。辺り一面、殺された村人たちの遺体に埋め尽くされていた。 

難民キャンプの仮設住居は、竹をビニールシートで覆われただけのもの © Mohammad Ghannam/MSF
難民キャンプの仮設住居は、竹をビニールシートで覆われただけのもの © Mohammad Ghannam/MSF

やっとの思いで国境を越えてバングラデシュに入国し、コックスバザール県についた時、ラシダさんは、体と心に深い傷を負っていた。気持ちはどん底で、悪夢そのものの暮らしがいつか終わることを願うしかできなかった。だが、危険から逃れて安心もできた。幸い、別のルートでキャンプに逃げてきた夫とも再会できた。

「夫のモハメッドを見つけたときの気持ちは、今でもはっきりと覚えています。生き返ったかのようでした」

だが過酷な難民キャンプ生活に加えて、今も辛い記憶が突然思い出されるフラッシュバックにも苦しめられている。普通に近い暮らしに戻りたいと願っているが、ラシダさんも難民キャンプ生活に行き詰まりを感じ、落ち込んでいる。

「毎日、考えるのです。どうやってここで生きていけばいいのかと。またそれはいつまでなのかと。いつになったら、また自分の家で暮らせるようになるのでしょう」。ラシダさんが暮らす仮設住居は、竹でできている上、ビニールシートで覆われただけのもの。決して、良い生活環境だとはいえない。

今、ラシダさんに一番幸せをもたらしてくれるのは、産まれたばかりの娘ハリサちゃん(生後10カ月)だ。ハリサちゃんは、この難民キャンプで生まれた。「心に喜びをもたらしてくれる存在です。娘にはもっといい人生を送ってほしい」とラシダさん。ラシダさんは、ハリサちゃんのために、色とりどりに装飾したゆりかごを作って、天井からぶらさげた。  

娘を立派な大人に

だが、難民キャンプでは病気も広がっている。子どもを育てるには過酷な環境だ。 ラシダさんが願うのは、ハリサちゃんが「もっと良い人生を送ってほしい」ということ。

「この子を、強く、教育を受けた女性に育てたい。どこで、それができるかは分からないのですが……」

ミャンマーで受けた被害の記憶は、時間が経っても薄れていない。毎日、ミャンマーでの辛い記憶を思い出す。矛盾に満ちた世界に生きていると感じることもある。

「ミャンマーには帰りたい。そうしたら自分の人生を自分で決めていけるから。でも、今戻ったら殺されるのもよく分かっています」

ムムタズさんの思い

夫の無事を必死になって祈った

産まれたばかりの子どもを抱くムムタズ・ベガムさん(右) © Mohammad Ghannam/MSF
産まれたばかりの子どもを抱くムムタズ・ベガムさん(右) © Mohammad Ghannam/MSF

ムムタズ・ベガムさん(32歳)も、トゥラトリ大虐殺の生存者だ。家族が殺された上、右の耳は聴こえなくなってしまった。ミャンマーの治安維持部隊に竹の棒で耳を叩かれたためだ。近頃は、何かに集中するのも難しくなってしまったという。

当時ムムタズさんは、長男モハマッド・オトマンくん(11歳)、次男サディクくん(5歳)、三男シャフィク・アラーくん(3歳)、長女ロジアちゃん(9歳)と、愛情深い夫アブー・アル・フサインと共に暮らしていた。

あの日、ムムタズさんは家のすぐ外で、家族の洗濯物を洗っていた。夫と子どもたちは家の中にいた。当時、小雨が降っていたという。「数十人の兵隊が村の家に向かってゆっくりと歩いてくるのが見えました。暗い緑色の制服姿でした。それから長いライフル銃で村の家を撃ち始めました」。自宅に駆け込み、家族を連れて逃げ出した。隣の家に住む妹と母も一緒に。野原に逃げ込んだが、あたりに高い木がなくて隠れられなかったという。

「武装兵士は野原にまでついてきて、私たちを取り囲みました。男性たちは、女性と子どもたちから引き離されました。私は必死になって夫を探しました。どこにも見当たらなかったので目を閉じて地面に顔を埋め、泣いて祈りました。息ができませんでした。もはや命はないと覚悟しました。奴らは男性たちを撃ちだしました。その後で、石油をかけて火をつけました」 

実の子どもの遺体を置き去りに…

次に兵士たちは、女性を5~6人か7人くらいずつのグループに分けたという。それから、村の中でも大きな家に連れて行った。モハマド・アリという人の家だった。戸口に兵士がいて、来たグループを中に押しやった。ムムタズさんも、子どもらと共に、そこに入れらた。

「家の中には5人の兵士がいて、金のジュエリーを寄こせと言われました。そこで静かに私の金製ノーズ・リングを差し出しました。するといきなり、私の服を引き裂き、肌着に隠していた私の全財産を見つけ出して、笑いながら取り上げました。私は怖くて金切り声をあげました。地獄にいるかのようでした」

モハマッド・オトマンくん、サディクくんらは、ムムタズさんを守ろうと、兵士に飛び掛ったという。だが、兵士たちに竹の棒で何度も何度も叩かれ、殺されてしまった。長女のロジアちゃんも頭をナイフで刺されたが、幸い逃げ延びることができた。まだ、ロジアの頭には、傷痕が残っている。

ムムタズさんも、兵士たちに襲われた。そこで記憶は途切れてしまったという。意識を失っていたが、顔、両手両脚、肩が焼けるように熱く、目が覚めた。見ると建物には火がついていたという。

「辺りを見回すと、4人の女性がロープで縛られているのが見えました。ほどいてくれと必死に頼まれました。縛られていないのは私だけでした。みんな泣いていましたが、どうしたらよいか分かりませんでした。炎で今にも屋根が落ちそうだったのです」

ムムタズさんは、裸同然で逃げ出したという。やけども負ったが、無事だった。だが、「誰も助けなかったのです。助けるべきだったけど、出来ませんでした。4人の女性と3人の子どもの遺体を置き去りにしました」。けがや、やけどを負いながらも、生き延びたのはムムタズさんと、ロジアちゃんだけだった。 

「当たり前の生活を送りたい……」

ロヒンギャの難民キャンプ © Mohammad Ghannam/MSF
ロヒンギャの難民キャンプ © Mohammad Ghannam/MSF

現在は、バングラデシュ・コックスバザール県にある、巨大難民キャンプで暮らしている。だが、生活は厳しい。食べ物も生き延びるのがやっとという位の量しかない。

「娘のロジアは外で隠れていました。私に気がついて、山まで逃げる手助けをしてくれました。2人とも命がけで逃げました。頭に浮かぶのは、殺された子どもたちのこと、襲われた近所の女性たりのことでした」

逃げ続けた5日間、ムムタズさんたちは山の中で、木の葉を食べて空腹をしのいだ。通りすがりの村人や、漁師たちに助けられながら、ボートでバングラデシュに渡った。

バングラデシュに着いたとき、ムムタズさんのけがはひどくなっていて、歩くのも大変だった。仲間によって難民キャンプにある国境なき医師団(MSF)の病院に連れていかれ、1カ月間、治療を受けた。その後、MSFの紹介を受けてコックスバザール県にある拠点病院に移ったムムタズさんは、そこでさらに2週間治療を受けた。その後、退院し、難民キャンプの中の仮設住居に戻った。

家族を思い出し、涙が止まらなくなることもあったが、少しずつムムタズさんは力を取り戻し、2018年7月に再婚。可愛い男の子も生まれた。モハマド・ユニスと名づけられた男の子は、現在6カ月だ。だが、新しい結婚生活は長続きせず、再婚した夫は出ていった。援助に入るNGO団体から食べ物をもらい、最低限必要なものを手に入れて生活を送る。

「全ての私の願いは、当たり前の生活を、以前と同じように送りたい。ただそれだけなのです……」 

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