【ガザ、紛争激化から2年:海外派遣スタッフ・インタビュー】「泣くのは紛争が終わったとき」──極限のガザで見た人びとの静かな強さ
2025年09月29日
「泣くのは紛争が終わったとき」──同僚の現地スタッフが語ったその言葉が示す覚悟、そして希望とは。
倉之段 千恵(くらのだん・ちえ)
千葉県出身。愛媛大学医学部看護学科卒。看護師として東京医科大学病院などで勤務した後、2017年よりMSFに参加。これまでアフガニスタン、イエメン、イラク、バングラデシュなど多くの地域で活動に従事。ガザへは2024年2月以来、今回が2度目の派遣。
不安定から適応へ──人びとの変化


しかし、このような惨状を人びとは受け止めているように感じました。前回の時は、紛争が激化してからまだ日が浅く、イスラエル軍から退避要求が出て移動せざるを得ない、家族と離れ離れになる、通信状況が悪くて電話も通じない──そんな大きく変わってしまった環境で、人びとの精神状態が不安定になっているのが手に取るように分かりました。
今回はそれから1年ほど経ち、人びとは状況を理解したというか、この中でどう暮らしていくかという方向性が定まったように見えました。MSFの病院も同様で、最初は手探りの状態でしたが、もはや何が必要で何をすべきかがスタッフの中で明確になったようでした。
もともとガザは教育熱心で、医療レベルも低くない地域です。
そういう国民性もあってか、最初はみな混乱していたものの、こんな状況でも生きていくんだ、という強い芯ができたように見受けられました。

治せるのに治せない 物資不足が招く限界
また、妊婦さんや出産後のお母さんもたくさん来院していました。産前産後は赤ちゃんのためにもしっかり栄養を取らなければいけない時期ですが、食べ物がないためお母さん自身が低栄養に陥っているケースも本当に多かったです。

──活動中、困難を感じたことはありましたか?
辛かったのは、こういった状況を目の当たりにしても、物資がなくて限られたサポートしかできなかったことです。例えば、本来なら5日分処方したい薬が、3日分しか出せない。紛争が激化する前は普通に手に入った栄養剤が、提供できない。いつ入荷するかも伝えられない。こういった問題がありました。
薬と栄養剤さえあればほとんどが回復する症状なのに、ないから治らない──治す方法はあるのに、何もできないジレンマは本当に心苦しかったです。
妊婦さんや子どもは病院に来るだけでも大変です。朝早くから並んで、ようやく受診したのに、何も受け取れずに帰らなければならない彼らの気持ちを考えると、申し訳ない思いでいっぱいになりました。
でも、それに対して怒りや憤りを見せる患者さんはいませんでした。周りを見れば納得せざるを得ない、と感じていたのだと思います。

「泣かない」と決めた女性 過酷な日常に光を
現地スタッフの「一生懸命、働く」という高い意識には、いつも驚かされました。彼らの中には、家を追われ避難先のテントから出勤している人もいました。自身も傷ついたり落ち込んだりすることが多くあるはずなのに、「誰かを助けたい」という思いの強さが忘れられません。
そんな姿を子どもに見せたくない、そんな感情を周りに感染させるべきではない、と。そして、「私が泣くのは、紛争が終わったとき。だから今は頑張って働くのだ」と──。

過酷な日常が普通になってしまっているけれど、子どもにはそういうことがない時代を過ごしてほしい──そんな彼女の心持ちが本当に素敵だと思いました。
子どもの心のケアという点では、MSFの診療所でカーニバルが毎週開催されていました。毎回たくさんの子どもたちが集まってきて、スタッフとワイワイ騒いで遊ぶんです。MSFはこういう場を通して、子どもが悲惨な状況にのみ込まれないように、気持ちを少しでも別の方向に向けさせるという活動もしていました。

停戦だけでは終わらない苦しみ その先にも目を向けて
ただ、今ニュースで流れているような、配給所やシェルターにまで攻撃が及んでいるというのは、何と言ったらよいのか──もう安全な場所はどこにもないですよね。
ただ、たとえ攻撃が止んだとしても、栄養失調の子ども、お母さんが回復するには時間がかかりますし、物資がなければどうにもなりません。
停戦だけでは、一番弱い立場にいる人びとの苦しみは変わらないのです。
紛争が激化する前の状況に戻るには、まず物資が入るようになることが重要で、そのうえでこの先何十年とかかると思います。
日本の方々や国際社会には、停戦のその先についても、ぜひ目を向け続けてほしいです。
