ケニア:HIV感染予防でカギ握る“キーポピュレーション”とは──心身の悩みに向き合う4人の当事者たち

2025年10月23日
「人びとに影響を与え、自信を築くことに喜びを感じる」と語るマディナ=ケニア南部モンバサで2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF
「人びとに影響を与え、自信を築くことに喜びを感じる」と語るマディナ=ケニア南部モンバサで2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF

「キーポピュレーション」

エイズウイルス(HIV)感染対策の文脈で、重要な鍵を握る人びとの総称だ。さまざまな性的指向や性自認を持つ人たち、セックスワーカー、薬物使用者といった人びとが含まれる。

ケニア南部の都市モンバサでは、キーポピュレーションが医療機関で偏見や差別を経験することで、医療を十分に受けられていない問題が調査で明らかになった。

国境なき医師団(MSF)はモンバサで、キーポピュレーションのメンバー自身を「ピアエデュケーター」として育成している。同じような課題を持ち、仲間として教育やサポートをする人たちのことだ。

ここでは、実際にピアエデュケーターとして現地で活動している4人の声を紹介したい。

トランスジェンダーのピアエデュケーター ディー(仮名)

「ただ“自分”として生きたいだけ」

私は2019年からずっとセックスワーカーとして働いています。

こう語るのは、モンバサに暮らすトランスジェンダー女性のディー(仮名、24歳)。家族に性自認を知られたことで、第三者に勝手に情報を暴露される「アウティング」をされた。

当時の状況について、「家族は私に『お前は不吉な存在だ』と言い放ち、服を外に投げ出し、家から追い出しました」と振り返る。

祖母と定期的に電話で話すが、ほかの家族や地域住民からは疎外されているディー(仮名)。「家族からは『もう帰ってくるな。お前が選んだ生き方だからだ』と言われました」と話した=モンバサで2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF
祖母と定期的に電話で話すが、ほかの家族や地域住民からは疎外されているディー(仮名)。「家族からは『もう帰ってくるな。お前が選んだ生き方だからだ』と言われました」と話した=モンバサで2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF


拒絶され、住む場所を失ったディーは、生き延びるためにセックスワークを始めた。
 
その過程で、ディーは過酷な体験をした。彼女が「安全な場所」という言葉を使うとき、それは「心の安心」だけではなく、「身体的な暴力から守られる空間」も意味している。
 
トランスジェンダーの女性として、ディーはこれまで深刻な暴力を繰り返し受けてきた。額に残る傷痕は、かつて5人の男から集団暴行されたときにできたものだ。
 
また、ディーはモンバサで住まいを転々とするほかなかった。大家が彼女の性自認に気づくと、突然契約を打ち切ってしまうからだ。
 
そんな中、ディーはある支援に出会った。
 
MSFがモンバサで、キーポピュレーション向けに無償の医療サービスを提供していたのだ。

国境なき医師団(MSF)がモンバサで展開している移動診療=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF
国境なき医師団(MSF)がモンバサで展開している移動診療=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF


ディーは「心理士と毎週水曜日に話せる時間がありました。MSFはなんの偏見も持たずに支援してくれたんです」と感謝の言葉を口にする。
 
いまではディーがピアエデュケーターになり、医療を受けることをためらっている他のトランスジェンダーたちに手を差し伸べている。
 
自身の活動内容について、「コンドームや潤滑剤を届けたり、HIVの暴露前予防(PrEP)をどこで受けられるか伝えたりしています。トランスジェンダーの当事者として届けることができ、自分の活動をとても誇りに思います」と胸を張る。
 
彼女は夢を問われると、こう答えた。

ただ、自分として生きたい。それだけです。トランスジェンダーの人びとが安心していられる「安全な居場所」がほしいんです。

ピアエデュケーターがつなぐ、医療への架け橋

ケニアの主要な港湾都市モンバサ。美しいビーチに加えて、スワヒリ、アラブ、インド、ヨーロッパの文化が混ざり合った歴史で知られる。
 
だが同時に、この地域は保守的な文化圏でもある。社会的な偏見や差別の対象となる属性であることが、さまざまな困難をもたらす。
 
「キーポピュレーション」は世界保健機関(WHO)の用語だ。HIVやその他の性感染症(STI)にかかる危険性が高く、その対策の中で特別な支援が必要な人びとを指す。
 
モンバサに暮らすキーポピュレーションは、健康面、社会面の課題を多く抱えている。
 
MSFが関わった最近のキーポピュレーション調査によると、60%以上が貧困の基準以下で生活しており、3分の1以上は月収がまったくない。
 
食料不安も深刻で、10人中6人が「先週、何も食べられない日が2日間以上あった」と答えた。

MSFはモンバサでキーポピュレーションを支援している=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF
MSFはモンバサでキーポピュレーションを支援している=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF


また、調査対象となったキーポピュレーションのうち、約半数が「医療機関で偏見や差別を時々または頻繁に経験している」と回答した。

さらに、「頻繁に偏見や差別を受けた」と答えた人びとが「医療へのアクセスが不十分である」と答える割合は、そうでない人に比べて3.6倍高いことも分かった。

MSFは、こうした状況を改善するために、キーポピュレーションのメンバー自身を「ピアエデュケーター」として育成している。

彼らは地域で使える医療サービスについて周知したり、基本的な健康情報を広めたりする活動を続けている。

ウガンダ出身のピアエデュケーター ブリジット(27)

「人は理解できないものを、恐れる」

差別の影響で、モンバサでは多くの「クィア」(既存の性の枠組みに当てはまらない人びと)が失業状態にある。
 
ウガンダ出身のピアエデュケーター、ブリジット(27)はその原因について 「人は、自分が理解できないものを恐れるのです」と指摘する。

「人は、自分が理解できないものを恐れるのです」と話すブリジット=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF
「人は、自分が理解できないものを恐れるのです」と話すブリジット=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF

 
ブリジットは現在、モンバサの「バンブリ・ユース・フレンドリー・スペース」という場所で、クィアやインターセックスの人びとが医療を受けられるよう支援している。
 
ブリジットの役割は、単に医療につなぐだけの紹介役ではない。利用者たちと信頼関係を育むことを重視している。

ケニアでは、クィアの人たちは本当に多くの困難に直面しています。でもここなら誰もが歓迎され、自由に来られる場所なんです。クィアのコミュニティに関わるときは、まず安心感を与えることが大切です。そして伝えます。「私もあなたのコミュニティの一員です。あなたは“よそ者”じゃない」って。

モンバサにあるMSFの活動拠点でマディナ(右)と話すブリジット=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF
モンバサにあるMSFの活動拠点でマディナ(右)と話すブリジット=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF


この取り組みがどれほど人の人生を変えるか、ブリジットは何度も目にしてきた。

以前は恥ずかしがっていた仲間たちが、いまは自分から医療を受けに来るようになりました。「私はインターセックスです」「私はトランスジェンダー女性です」「医療を受けたい」。自分から言えるようになるのを見るたびに、希望を感じています。

シングルマザーのピアエデュケーター マディナ(28)

「大丈夫じゃなくて“大丈夫”」

マディナ(28)は、つらい離婚と、それに伴う偏見や差別を乗り越え、ピアエデュケーターとして活動するようになった。

両親は、私を息子と共に受け入れてくれました。でも、私の地域では離婚はタブー視されています。人びとは私に悪口を言い、陰で噂をしました。そのことで精神的に追い詰められ、命を絶つことまで考えました。

そんな彼女が立ち直るきっかけとなったのは、家族と、地域にある若者団体の支援だった。そこを通じて、ピアエデュケーターとして研修を受けられると知ったのだ。

「もしいま、困難な結婚生活を送っていた若いころの自分に会えるなら、『大丈夫じゃなくても大丈夫。自分にとって健康的でないと思ったら、一歩引いてもいいんだよ』と伝えたい」と話すブリジット=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF
「もしいま、困難な結婚生活を送っていた若いころの自分に会えるなら、『大丈夫じゃなくても大丈夫。自分にとって健康的でないと思ったら、一歩引いてもいいんだよ』と伝えたい」と話すブリジット=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF

「ピアエデュケーターとしての活動は、私の情熱です。私の身に起こったことは、あのときは知識がなかったことが原因だと思います。でもいまはその知識を共有することで、誰かの命を救えるかもしれません」

彼女が伝えたいメッセージは、シンプルでありながら、力強い。

「大丈夫じゃなくても大丈夫」。自分の心の健康を、いちばん大切にしてください。

セックスワーカーのピアエデュケーター サリー(仮名)

「健康だけは、お金で買えない」

最後は、セックスワーカーであり、ピアエデュケーターでもあるサリー(仮名)。

サリーは信仰心のとても強い家庭に生まれた。しかし、家族は彼女の仕事を知らない。

「もし知られたら、きっと勘当されるでしょう」とサリーは言う。

生まれながらにしてリーダー気質なサリー(仮名)は、「他人を助ける以外に自分の選択肢はない。人が変わっていく姿を見られるのは本当に美しいことです」と話す=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF
生まれながらにしてリーダー気質なサリー(仮名)は、「他人を助ける以外に自分の選択肢はない。人が変わっていく姿を見られるのは本当に美しいことです」と話す=2025年5月27日 Ⓒ Anna-Reetta Korhonen/MSF


深刻なのは、セックスワーカーが直面するジェンダーに基づく暴力だ。

それは心をむしばみ、精神をむしばみ、体をむしばみます。本当に疲弊します。そして多くの人が、最後には「死にたい」という気持ちを抱くようになるのです。

サリーはMSFの支援を通じて心のケアを受け、HIV検査も受けることができた。

モンバサは宗教的な理由から多くの人びとがキーポピュレーションに否定的な態度をとる、保守的な地域だ。キーポピュレーションは自らのアイデンティティを隠さざるを得ないことで、つらい影響を受けやすい。

彼女はトラウマへの理解も深く、言葉や行動には常に細心の注意を払っている。

多くのキーポピュレーションは身を隠して生きています。病気になっても、自分のことを病院で話す勇気が持てないんです。人それぞれ、何が引き金になるかは違います。だから優しく接することが何より大切です。

一方、サリーは、そんな人たちを支えることが自分の使命だと感じている。彼女にとって、ピアエデュケーターの役割は「情報を持たない人びとを啓発すること」だ。
 
その活動には、創造性と共感があふれている。ときには場面を演じたり、演劇の要素を取り入れたりもする。みんなが「自分もその一員だ」と感じてほしいからだという。

サリーのメッセージは明確だ。そして、彼女にとってピアエデュケーターであることは、自分の中の「子どものころの自分」を癒すことでもある。

健康だけは、お金で買えない。たとえ億万長者でも、健康だけは買えないんです。だから、私はMSFの活動を全面的に支持します。健康がなければ、富も意味を持たないのです。私には、道を示してくれる人がいませんでした。だから思ったんです。「自分に足りなかったものを、今度は誰かに与えよう」って。

変化をもたらす人びと

ディー、ブリジット、マディナ、そしてサリー。この4人の人生は、誰も排除せず、偏見や差別のない医療を届ける大切さを示している。
 
同時に、それは「ピアエデュケーション」が持つ力を浮き彫りにしている。
 
ピアエデュケーターは単なる「支援者」ではない。地域のリーダーであり、心のケアの提唱者であり、そして社会に変化をもたらす変革の担い手だ。
 
まさに、ブリジットがこう言っているように──。

私たちの活動は小さな一歩かもしれない。でも、それが認められることで、また次の新しい行動につながっていくのです。

ウガンダ出身のピアエデュケーター ブリジット

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