【東日本大震災から10年】「国内で大災害が発生」スタッフが明かす緊急援助活動の舞台裏
2021年03月12日2011年3月11日に発生した東日本大震災。その直後から、国境なき医師団(MSF)の緊急援助活動は始まった。多くのスタッフを被災地へどう派遣するか、物資をいかに調達するか──突如プロジェクト運営の現場と化した東京の事務局では、休みのない半年間が続いた。
このときに事務局や現地で活動したメンバー4人が、数年ぶりにオンラインで顔を合わせた。現在はそれぞれの道を歩みながらも、震災当時の活動をいまも熱く語り合った。
大地震発生 その時オフィスは……
西村千鶴(以下、西村):あの日大地震が起きた時、私は会議中でした。オフィスにいた外国人スタッフは地震に慣れていないため、「ドアを開けて」「エレベーターには乗らないで」と叫びました。とにかく情報収集をしなきゃいけない。ネットやテレビでまず状況確認を始めました。
谷口博子(以下、谷口):通常は海外での援助活動なので、英語やフランス語で情報収集しますが、このときは第一報が日本語。普段はプロジェクトの運営に関わらない事務局職員が情報を集め、刻々と変わる状況を東京セル(※)に説明したのですよね。
※世界各地43カ所(2019年実績)にオフィスを構える国境なき医師団。プロジェクトの立ち上げや運営は、欧州にある5つの拠点で決定される。日本事務局はその拠点の一つ、仏パリのオペレーション・センター(OCP)と連携し、人材採用や資金調達、証言活動を業務とする。ただ東京の事務局には、アジア地域のプロジェクトを運営するOCPのサテライトオフィス(東京セル)が入っており、東日本大震災の活動もOCPのプロジェクトだった。
谷口:それでヘリコプターの手配をしようと、新聞社からヘリ運用会社、自治体まで電話をかけました。当然ながら全て出払っていましたが、医師につてを辿ってもらい、ドクターヘリを1機手配できることになったのです。
谷口:第一陣の人たちは、その日の夜にはスタンバイしていました。翌朝に空港まで行ったものの強風で飛べず、結局ヘリが発ったのはお昼過ぎでしたね。
西村:6人のチームは最低限の水と食料、医療キットを携えて、まず被災地の県庁を訪ねました。そこで状況を把握できてない地域を教えてもらい、現地に入りました。
多くの物資と人を被災地へ送る困難
齊藤哲也(以下、齊藤):資金面では、僕たちはすぐに予算を組んだのです。必要なものを割り出して、大まかな数字を提示したのですが、東京セルはやはりエッフェル塔の方を向いている。東京タワーじゃないんです。パリ・オフィスの回答を待つように言われました。ただ、ものの5日か6日でフランスから何人ものスタッフが到着したので感心しましたね。フィールドはここにあり、なので当然ですが。
そのほかに財務でできることは、現金を用意することぐらいでした。銀行機能が生きていたのでホットラインを繋いで、いつでもお金をおろせるようにしておきました。
沢田さやか(以下、沢田):物資の調達では、まず現地チームから被災地で必要なものの要望がどんどん上がってきたんです。3月で寒かったので毛布、それから水や歯ブラシといった必需品の手配をしました。毛布はMSFが持つ緊急支援用のものが日本に送られてきて、水は企業からペットボトルで何トンも寄付いただいて。衛生用品や生理用品の寄付もありましたね。
西村:当初は放射能の問題もありましたね。専門家のアドバイスで、派遣したスタッフが現場にいられるのは1週間まで。放射線の高い地域がまだ明確になっていなかったからです。毎週スタッフを入れ替えなければならなくて、まさに総動員でした。日本にいる全てのMSF関係者に何らかのお願いをしたと思います。ものすごい人数をゴロンゴロン回していました。それと心理ケアの活動が始まったので、関連団体に連絡をして、多くの臨床心理士さんにも参加いただきましたね。
震災が組織変革の契機に
西村:そんな活動をするなかで課題だと感じたのは、国内での災害でありながら私たちに主導権がないことでした。人事にしても、齊藤さんが話された財務でも、現場でも、日本事務局には決裁権がないのです。欧州の拠点から指示を受けなくても、自国でどう活動すれば良いのかは自分たちが一番よく分かっているはず。被災国で、いわゆる現地スタッフとなって初めて、支援される国のローカルスタッフが抱える気持ちを理解できました。いろんな国で活動する上で、肝を据えて彼らとコミュニケーションし、情報交換することがいかに重要かを学びました。
谷口:その土地を知る現地スタッフが活動の中心を担うべきではないかという議論は、ずっと続いてきました。2020年に立ち上がった MSF WaCA (West and Central Africa operational directorate) というオペレーション組織が、西・中央アフリカ各地でのプロジェクト運営を担おうとする動きはその一環です。MSFがどれだけ現地を軸とした活動に切り替えていくのかは、いま現在も話し合われています。私たちにとっては震災が大きな転機でした。齊藤さんは「あのとき日本事務局はMSFになった」と言われたそうですね。
被災地で受け取った人びとの温かさ
谷口:MSFが支援した田老仮設診療所の寄贈式典が行われた時、私も現地に入りました。それ以降もできるだけ毎年、田老に伺いたいと思っているのですが、行くといつも「よく来てくれましたね」とお客さんのようにあたたかく迎えてくださる。皆さんの方が大変な思いをされてきているので、自分の無力感も感じます。それでも立ち上がっていかれる姿を見られるのは嬉しいことです。
西村:被災した方々に逆に助けてもらいながら活動したという話は、多くのスタッフから聞きました。私も現地で、ご飯がないにも関わらず大きな肉を食べさせてもらって、普段よりいいお肉を食べてると思った覚えがある、美味しくて(笑)。MSFが宮城県の栗原市内で借りていた旅館の近くに食堂があって、そこのおじさんがご飯大盛りで出してくれたり、朝は必ず温かいお味噌汁とおにぎりを作ってくれたり。宿の方もガソリンが大事な時に、暖房を入れて部屋を暖かくしておいてくれたんですよね。
沢田:栗原の方々は現場でスタッフとしても手伝ってくださいました。MSFの活動は11月くらいまでで、10年のうちの最初の一部、そのなかでも私が携われたのは数カ月という本当に短い期間です。その時は自分なりに精一杯やったつもりですが、大海の一滴というか、果たして自分はどこまで役に立てたのだろうかと。10年という節目で、被災された方は本当にいろんな思いを抱いて迎えられると思います。