語られない思いに耳を傾ける──ロヒンギャ難民キャンプ 日本から派遣された精神科医が取り組む、メンタルヘルス活動

2025年10月21日
メンタルヘルス活動に取り組むチームメンバー。ゴヤルマラ母子病院に隣接した施設で朝のミーティングを行う。中央右が日本から派遣された精神科医の小川悠介=2025年9月 Ⓒ MSF
メンタルヘルス活動に取り組むチームメンバー。ゴヤルマラ母子病院に隣接した施設で朝のミーティングを行う。中央右が日本から派遣された精神科医の小川悠介=2025年9月 Ⓒ MSF

バングラデシュ・コックスバザールにあるロヒンギャ難民キャンプ。2017年にミャンマー国軍の武力弾圧によりロヒンギャの人びとが大規模な避難を強いられて8年が経過した。今も、120万人を超える人びとが不安定な暮らしを続けており、長引く避難生活と未来の見えない閉塞感の中で、人びとが心に抱える問題も深刻化している。

国境なき医師団(MSF)で、メンタルヘルス活動を担う精神科医の小川悠介は、現地でメンタルヘルス活動マネジャーとして活動に参加。「丘の上の病院」と「ゴヤルマラ母子病院」という二つの医療施設とキャンプ内を行き来しながら、患者の診察やメンタルヘルス活動チームの運営に携わっている。

続く危機の中、一人一人の心に向き合う

メンタルヘルス活動マネジャーを務める精神科医の小川=2025年9月 Ⓒ MSF
メンタルヘルス活動マネジャーを務める精神科医の小川=2025年9月 Ⓒ MSF
キャンプの患者の状況について小川は「ここ1年、入院病棟からの診察依頼が急増しています。これは、キャンプ全体で身体的な疾患と心の問題が分けられない状況になっていることを意味し、全体としてメンタルヘルスの課題が一層深刻化していることがうかがえます」と話す。

キャンプでは、全体的な絶望感も人びとの暮らしに深く影を落としている。そうした環境の中で心のケアを提供するには、「ロヒンギャ」や「大規模な避難」といった包括的な言葉に頼るのではなく、その背後にある一人一人の心に目を向ける必要があると小川は話す。また、「トラウマ」「虐待」「搾取」「暴力」といった強い言葉で括り、理解したつもりになってしまうことにも注意が必要だという。

個々の感情や経験は、大きな枠組みの中に埋もれてしまいがちですが、それぞれ異なる形で存在しています。語られる言葉だけでなく、その向こうにある語られない思いや、語ることが許されない思いにも心を寄せることが求められます。

MSFのメンタルヘルス活動マネジャー 小川悠介

「心のケア」を共に考える──語られない思いに耳を傾けて

キャンプの中では、精神疾患に対する偏見も根強い。精神的な不調は「ジン」と呼ばれる悪霊の仕業だと信じる人もおり、民間療法や非公式な治療が行われることもある。MSFはそうした文化的背景を尊重しつつ、アートや語りを取り入れたグループセッションを通じて、心のケアの重要性を人びとに伝えている。グループセッションでは、語られる内容や言葉だけでなく、語られない思いや沈黙、その場に流れている感情に耳を傾けることが重要だと小川は指摘する。
 
「活発なやりとりが行われている中で、静かにグループから出ていってしまう人や、沈黙のまま体がこわばっている人もいます。その人の心や、グループで何が起きているのか、そこに思いをめぐらせ、心を使って考えることが、支援の糸口となることもあります」

ゴヤルマラ母子病院に隣接するメンタルヘルス活動チームの施設。壁にはメンタルヘルスに関するアートが飾られている。ここを拠点にグループセッションや家庭訪問、患者のフォローアップなどを行う Ⓒ MSF
ゴヤルマラ母子病院に隣接するメンタルヘルス活動チームの施設。壁にはメンタルヘルスに関するアートが飾られている。ここを拠点にグループセッションや家庭訪問、患者のフォローアップなどを行う Ⓒ MSF


活動の中で特に課題となっているのが、女性の医療や社会サービスへのアクセスの問題だ。女性は結婚後、家から出ることが難しく、パートナーの許可がなければ医療施設に来ることもできない。地域に根付いた偏見も影響し、メンタルヘルスの問題が結婚や社会的評価に影響することを恐れて、支援にたどり着けない女性も多い。「私たちがまだ十分にリーチできていない患者の多くは女性だと思います。そのため、キャンプ内の家庭訪問や女性スタッフによるグループセッションなど、安全な形でケアを届ける工夫をしています」と小川は説明する。

MSFは地域の人びとが集うカフェテリアや集会所を活用し、お茶を手に語り合う男性向けのティーセッションや、ヘナと呼ばれる伝統的な染料で手などを装飾する女性向けのヘナセッションなど、文化に根ざした対話の場を設けている。こうした取り組みによって心のケアへの理解が広がり、セッションをきっかけに心の不調に気づき、病院を訪れる患者も少なくないという。

新たな避難民と悪化するキャンプの環境

2024年以降、ミャンマーでの衝突が激しさを増す中、新たに避難してくるロヒンギャの人びとの数が増加している。多くはすでに過密状態にある親族の家に身を寄せており、生活環境はさらに悪化。水や食料の配給は不足し、感染症の流行や治安の悪化も人びとの暮らしに深刻な影響を及ぼしている。

MSFが対応する患者の中にも、こうした「ニューアライバル(新たな避難民)」と呼ばれる人びとが少しずつ増えていると小川は指摘する。

ミャンマー側でメンタルヘルスの治療を受けていた方が、避難後は医療を受けることができず、症状が悪化して家族に連れられてこられたケースも少なからず経験しています。

MSFのメンタルヘルス活動マネジャー 小川悠介

また、人びとの間では心の不調だけではなく、身体的な疾患も深刻化している。C型肝炎や疥癬(かいせん)、コレラなどの感染症が広がり、原因不明の発熱も多く報告されている。

C型肝炎の治療計画の一環でMSFの看護師が患者から血液サンプルを集める。MSFはキャンプ内の感染拡大防止にも取り組んでいる=2025年4月16日 Ⓒ Tania Sultana/MSF
C型肝炎の治療計画の一環でMSFの看護師が患者から血液サンプルを集める。MSFはキャンプ内の感染拡大防止にも取り組んでいる=2025年4月16日 Ⓒ Tania Sultana/MSF


さらに、キャンプの中では薬物やギャンブルに依存する人もおり、それに伴って恐喝や拉致、誘拐といった事件も発生。治安の悪化は、キャンプ全体の安全を脅かす重要な課題となっている。

「キャンプ内でギャング同士の発砲事件が起きたことをきっかけに、過去の体験を思い出し、急激に症状が悪化した方もいました」と小川は話す。また、キャンプでは資金削減の影響により、他の医療施設が閉鎖されたり規模が縮小されたりしており、MSFの施設を頼って訪れる人も少なくない。

心の不調、感染症のまん延、そして安全の問題──人びとを取り巻く状況は、あらゆる面で悪化の一途をたどっている。

関心を持つことが、国境を越えて人を支える力に

国籍をはく奪され、「無国籍」の状態に置かれたロヒンギャの人びとは、ミャンマーに戻ることもできず、バングラデシュに定住することもできない。マレーシアなどへの移動を試みる人もいるが、長期的な生活の見通しは立たず、人びとの心の傷は世代を超えて蓄積されていく。

「難民としても認定されない『無国籍』の状態が続く中、国際援助は縮小され、ロヒンギャの人びとが置かれている危機は解決の見込みもありません。その絶望感は、私たちに完全に理解できるものではないでしょう」と小川は語り、だからこそ、「分かったつもり」にならずに相手の体験や感情に寄り添うことが重要ではないかと続けた。

また、日本社会に向けては、関心を寄せること自体が国境を超えて人を支える力になると強調。現地スタッフの間では、日本への関心は少なくないという。あるスタッフは「アニメや食文化など、日本には親しみを感じている」と話し、別のスタッフは「日本では家族や地域とのつながりはどうなっているのか」と問いかけた。また、「日本の人びとがこの現状を知ろうとしてくれることがうれしい」と語る声もあったという。

ゴヤルマラ母子病院でのメンタルヘルス活動に携わるチームメンバー。ロヒンギャとバングラデシュのスタッフが協力し活動を続けている=2025年9月 Ⓒ MSF
ゴヤルマラ母子病院でのメンタルヘルス活動に携わるチームメンバー。ロヒンギャとバングラデシュのスタッフが協力し活動を続けている=2025年9月 Ⓒ MSF


バングラデシュやミャンマーは日本と地理的に接してはいないが、歴史を振り返れば、日本は両国と深いつながりを持っていることを、今回の派遣を通して学んだという小川。

「世代を超えてロヒンギャの人びとが直面している人道的な危機は、決して私たちと無関係とは言い切れないのかもしれません。日本の皆さまが関心を寄せてくださること自体が、国境を越えて、人びとを支える力となっています」

この思いは目には見えないけれど、確かに「ある」もの。その見えない力こそが、次の世代へとつながる希望の種になってほしいと願っています。

MSFのメンタルヘルス活動マネジャー 小川悠介

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