こぶしをあげた赤ちゃん 逆境の中ひたむきに生きる母子に命のケアを

2019年06月03日
ゴヤルマラ病院の新生児集中治療室で治療を受ける赤ちゃん © Nitin George/MSF
ゴヤルマラ病院の新生児集中治療室で治療を受ける赤ちゃん © Nitin George/MSF

看護チームリーダーのガジプール・ラーマンは、突然お茶を飲む手を止めた。電話を耳にあてると「ごめん」とつぶやき、大急ぎで新生児病棟へ駆け出す。バングラデシュのウキア郡にある、国境なき医師団(MSF)のゴヤルマラ緑の屋根病院。周囲は水田と、かさ上げされた泥の道、竹でできた草ぶき屋根の小屋に囲まれている。この病院は、バングラデシュとロヒンギャの人びとのなかでも母親と子どもに特化した専門病院だ。MSFはここで、ロヒンギャの人道危機のなか、新しい命を救っている。 

呼吸困難の赤ちゃん

手動のバルブバッグマスクで赤ちゃんの呼吸を助ける看護師 © Nitin George/MSF
手動のバルブバッグマスクで赤ちゃんの呼吸を助ける看護師 © Nitin George/MSF

新生児集中治療室では生後わずか数日の新生児があえいでいた。ガジプールと看護チームの同僚はすぐに救命にかかる。そばには赤ちゃんの両親が立っている。2人ともまだ若いロヒンギャ難民で、動揺した表情だ。生まれたばかりの女の子に名前をつける時間さえなかった。ガジプールは看護師チームと交代しながら大きなバルブバッグマスクで換気を始めた。バッグを押して赤ちゃんが酸素を体内に取り込む手助けをするのだ。デジタル酸素濃度計が赤ちゃんの心拍と血中酸素濃度を映し出す。酸素濃度は60%から70%しかない。

看護師たちが処置を続けているが、思うように状況がよくならない。一人の医師が処置を観察し、記録をつけている。10分が過ぎた。ガジプールは迷いなく処置を続けながらも、赤ちゃんの両親に誤った期待を抱かせないように努めている。今夜はMSFチームにとって長い夜になりそうだ。ガジプールは穏やかに話す。「回復の見込みは…あまり状況はよくありません」 

ゴヤルマラ病院で看護チームリーダーを務めるガジプール看護師 © Nitin George/MSF
ゴヤルマラ病院で看護チームリーダーを務めるガジプール看護師 © Nitin George/MSF

ゴヤルマラ緑の屋根病院は新生児、小児と産科医療の専門医療機関で、新生児病棟と小児病棟、集中治療室、産科病棟のほか、全ての成人を対象とした外来部門と救急処置室も備えている。MSFはこの病院で、子どもと成人の両方を対象に総合的な心のケアプログラムも運営している。また、アウトリーチ活動(※)と健康教育活動も行っている。2018年10月以降、217人の新生児と247人の子どもを新生児科と小児科で受け入れ、348人の患者を産科病棟で受け入れて127件の分娩介助を行った。

※医療援助を必要としている人びとを見つけ出し、診察や治療を行う活動。 

新生児が専門医療を受けられるように

難民キャンプの環境は新生児や妊婦の命を危険にさらす © Daphne Tolis/MSF
難民キャンプの環境は新生児や妊婦の命を危険にさらす © Daphne Tolis/MSF

ゴヤルマラから40km離れたコックスバザールの町では、MSFの医療コーディネーター、ジェシカ・パッティがある課題に取り組んでいた。病院を開けて患者を待つだけでは十分でない。他の人道援助団体にゴヤルマラの病院について知ってもらうため、MSFは情報発信に力を入れている。

「新生児にとって、最初の28日間が勝負です。予防医療と治癒のための治療の両方が必要ですから」とパッティは話す。「医療機関が少なすぎるため、ロヒンギャ難民の新生児もバングラデシュ人の新生児も、生後1ヵ月の間、極めて命の危険にさらされやすくなっています。そこでMSFは、ゴヤルマラ病院を開院して新生児と小児診療に力を入れ、同時に、具合の悪い新生児を他院から受け入れて、専門治療を施しています」

また、救命に欠かせないのが搬送体制の整備だ。例えば、子癇(しかん)は高血圧の妊婦がけいれんを起こす病気で、お母さんとお腹の子どもの両方にとって命に関わる。ロヒンギャ女性は自宅でのお産を好み、信頼する伝統的分娩介助者の助けを受けて出産するため、子癇のような合併症が起きた場合、混雑して移動が制限されたロヒンギャのキャンプから、簡素な診療所を経由して産科の専門病院までかかる時間は、母子の生死を左右する。他院からゴヤルマラに直接搬送してもらえれば、もっと多くの命を救える、とパッティは話す。 

キャンプでは母子ともに出産で命を落とすリスクが高い © Nitin George/MSF
キャンプでは母子ともに出産で命を落とすリスクが高い © Nitin George/MSF

新生児集中治療室に戻ると、事態は好転していた。新生児の体内酸素濃度が上がっている。赤ちゃんの症状が落ち着いていく兆しだ。ガジプールが、手のひらほどしかない小さな胸をさする。赤ちゃんは今にも動きそうで、命の兆しもなかった15分前とは全く違う。医療スタッフと家族にとって次のステップは、赤ちゃんが自発的に、助けなく呼吸するようになることだ。母親は目に涙を浮かべていて、父親は病室の外を行ったり来たりしている。

赤ちゃんを助けられる時間が、刻々と過ぎていく。バルブバッグマスクの換気は命を延ばせるが、赤ちゃんが自力で呼吸できない限り、低酸素か無酸素状態に陥って神経系に障害が生じ、最終的には死に至る。このまま赤ちゃんの容体に何の変化も見られない場合は、蘇生をやめ、細心の注意を払って、家族に赤ちゃんは助からない可能性があると話さなければならない。ロヒンギャの家族はミャンマーからバングラデシュへ逃げて来るまでに、暴力や心の傷となる体験をしている。また家族を失うことになれば、精神的に大きな打撃にもなる。 

手遅れになる患者をなくすために

ゴヤルマラ病院で診察を待つ母子 © Daphne Tolis/MSF
ゴヤルマラ病院で診察を待つ母子 © Daphne Tolis/MSF

バングラデシュの難民キャンプでは、ロヒンギャの赤ちゃんが安全に生き延びられる環境とは限らない。お母さんの胎内という落ち着いた環境から、不衛生で混雑したキャンプに生まれてくる難民の新生児にとって、生き延びられるかどうかは、人道危機のなかにあるさまざまな危険から逃れられるかどうかにかかっている。

ロヒンギャはミャンマーで医療を受けられなかった。そして現在も、多くのロヒンギャの人びとが、バングラデシュ国内にある難民キャンプで手遅れになるまで適切な治療を受けられずにいる。地域の慣行や、 馴染みの薄い医療機関への不信感、キャンプ内外への交通制限などが原因だ。人道援助団体はこうした障害や、ロヒンギャの人びとがどのように医療を受けに行くのか、動向をよく知る必要がある。もっと多くの場所に、ゴヤルマラ病院のような専門医療機関を設置していくことも必要だ。 

新生児集中治療室では救命が続く © Nitin George/MSF
新生児集中治療室では救命が続く © Nitin George/MSF

新生児病棟では、赤ちゃんの容体がよくなっていた。幼児や成人と違って、新生児は痛みも安心も人に伝えられない。医療スタッフは皮膚の色や眼の細め具合、手の動きなどから容体の手がかりをつかんでいかなくてはならない。赤ちゃんが苦しんでいるのか、それともよくなっているのかを確かめ、苦痛があった場合は取り除いていく。赤ちゃんが腕を上に動かした。両こぶしとも握り締めたまま、まるで、生きるための戦いの準備が整ったと言わんばかりだ。たちまち、集中治療室が安堵に満ちる。ガジプールと看護チームは酸素バッグを押し続けた。 

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