アフガニスタン:「傷は癒えるが、傷跡は残る」——犠牲となったMSFスタッフの記憶

2015年12月03日

国境なき医師団(MSF)にとって、2015年10月3日は永遠に忘れることができない日となってしまいました。この日の未明、アフガニスタン・クンドゥーズ州でMSFが運営していた外傷センターが"正確に"爆撃されたのです。闇から爆弾が降りそそぐ中で、MSFスタッフは患者と自らの命を守るためにできる限りの手を打ち、生き延びる方法を模索し続けました。

しかし、一夜が明け、廃墟となった中央病棟やその周辺からは、少なくとも患者10人、身元不明6人、そしてMSFスタッフ14人が命を落としました。それから2ヵ月。MSFは犠牲となった方々に改めて哀悼の意を表します。

亡くなったスタッフの1人で詩人でもあったザビウッラーは、次のような詩を書き残していました。

時は過ぎるが、記憶は残る
傷は癒えるが、傷跡は残る

彼らの死はいつまでも記憶に刻まれることでしょう。MSFの活動の深い傷跡として。

  • MSFは爆撃の真相究明を求める署名活動を続けています。
    改めてご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

いつまでも忘れることはありません——在りし日の14人をしのんで

アブドゥル・サタル・ザヒール(47歳)

外傷センターで副医療ディレクターとして、大勢のスタッフを監督していました。誰に対しても誠実で、相手の気持ちをよく理解し、敬意をもって接していました。他人の意見によく耳を傾け、発想が柔軟で、忍耐力とユーモアも持ち合わせていました。彼の尽力で医療チームの仕事の能率と効果はさらに向上しました。

彼は8人の利発な子どもたちが自慢でした。仕事が深夜まで続き、子どもたちに「仕事ばかりしないで」と言われたときには、「『仕事』じゃないんだよ。この国のみんなのためなんだよ」と説明していました。爆撃の日も、彼は患者のそばにいることに決め、激務続きの同僚たちと冗談を言い合って元気づけていました。

アミヌッラー・バジャウリ医師(32歳)

「アミン」という愛称で親しまれていた彼は救急医であり、クンドゥーズ州立大で学生たちに人気の講師であり、よき父親でもありました。幅広い医療知識と、患者への親切な対応を身につけていました。アフガニスタンで神経外科医が不足し、子どもたちが適切な治療を受けられずに亡くなっている現状に心を痛め、自身が神経外科医になることを目指して勉強を続けていました。

責任感が強い性格で、クンドゥーズ州で戦闘が始まったときに、避難ではなく、負傷した同胞を助けるために外傷センターに残る道を選びました。爆撃の日までの1週間は不眠不休で活動していました。回復の見込みがないと診断された患者が出ると、救急医である自分が非番だったせいだと責任を感じていました。

アブドゥル・マクスード(22歳)

患者情報のとりまとめ役として勤務していました。優秀なクリケット選手でもありました。非常勤スタッフとして活動を開始し、数ヵ月後には常勤スタッフとして採用されました。その時の得意げな笑顔をいまも覚えています。外傷センターでの勤務を大いなる名誉だと受け止め、非常に仕事熱心でした。彼の前向きな性格と献身的な働きぶりが惜しまれます。

アブドゥル・ナシール(22歳)

清掃を担当していました。クンドゥーズ州出身の地元っ子で、2013年からMSFで活動していました。とても勤勉かつ善良な人柄で、周囲への手助けを惜しまず、求められる以上の仕事をこなしていました。また、大変礼儀正しく、患者や家族からも信頼されていました。手があいているときは集中治療室のドアの近くに待機し、患者が運ばれてくると真っ先に手助けに駆けつけていました。彼は同僚にとっても患者・家族にとっても、計り知れないほど貴重な支えでした。

アブドゥル・サラム(29歳)

手術室看護師として活動していた彼は、親しみやすくおおらかな性格で、薬学の学位も取得している秀才でした。休日にはクリケットやブズカシ(アフガニスタンの国技)を楽しみ、人生を生き生きと楽しんでいました。爆撃の日までの1週間は各地で激戦が続き、外傷センターに負傷者が相次いで運ばれてくる事態となっていました。彼はほぼ不眠不休で職責を果たし続けていました。その上に非情にも爆弾が降り注ぎ、奥様と子ども2人を遺して旅立ちました。下の子はまだ生後40日でした。

ラル・モハマッド(28歳)

クンドゥーズ州出身の地元っ子で、いつも笑顔をたやさず、若手の看護師たちには頼れる先輩でした。親切な性格で、助けの必要な人にはすぐに手を差し伸べていました。患者と看護師という立場だけでなく、患者ができるだけ快適に過ごせるように親身になって考え、最善を尽くしていました。その笑顔と、学ぶ意欲と、前向きなエネルギーがいまも記憶のなかによみがえってきます。爆撃に遭い、妻と3人の子どもを遺して帰らぬ人となりました。

モハマッド・エーサン・オスマニ医師(32歳)

集中治療室の医師のホープでした。この活動に人並みならぬ情熱を持ち、患者に思いやりと献身をもって接していました。彼は笑い上戸で、まぶたに浮かぶ顔はいつも笑顔です。予定外の勤務も決して断らず、患者の搬送が相次いで外傷センターの全員が手一杯になったときは、非番でも進んで出勤していました。助けを求められたときには決して断らない性格でした。爆撃の日も地下シェルターで休みを取ることなく活動を続け、危篤の患者の治療にあたっていました。

モヒブッラー(38歳)

救急室の看護師であり、よき父親でした。8人兄弟の末っ子で、兄たちと同じく医療の道を選びました。外傷センターでの活動は3年におよびます。外来部門の看護師としてスタートし、救急室への配置転換を希望しました。仕事を覚えるのがとても早く、誰に対してもがまん強く接することができる性格でした。空き時間にはいつも本を読んで独学するか同僚から学び、夜遅くまで残って仕事をすることもたびたびでした。多くの人から学び、多くの人に学ばれる存在でした。

ナジブッラー(27歳)

救急室内の清掃担当として、2011年8月から活動していました。親切で明るく、話し好きだったため、誰からも好かれていました。仕事熱心で、救急室はいつもきちんと片付けられ、清潔さが保たれていました。一方、空き時間は勉強にあてて知識を深めていました。また、病棟で患者の介助を行うこともあり、清掃担当以上の存在として貢献していました。よき父親であった彼も爆撃で帰らぬ人となりました。

ナシール・アーマド(23歳)

集中治療室の看護師として、2014年6月から活動していました。穏やかで物静かで、集中治療室に向いている性格でした。危篤の患者の看護を進んで引き受け、同僚の負担を減らすことに気を配っていました。また、いつも身寄りのない患者を気にかけ、手助けをしたいと願っていました。

向上心が高く、英語講座をできるだけ早く受講したいと望んでいました。英語の読み書きのレベルが上がると、さらに多くのことを学べると考えたからです。大勢の人に囲まれ、幸福を分かち合いながら、心に浮かんだことを話し合うのが大好きでした。

シャフィクッラー(39歳)

警備員として2015年2月から活動していました。寡黙で笑顔を絶やさず、誰に対しても親切に応対していました。その好意的な仕事ぶりは、同僚に大いに慕われていました。爆撃を浴び、4人の子どもを遺して帰らぬ人となりました。

タッシール(35歳)

外傷センターの開設と同時に活動に加わり、薬局チームの一員として敬愛されていました。とても勤勉で、薬局はよく整理整頓されており、急患にもすぐに対応できる態勢を整えていました。ユーモアにあふれ、いつもにこにこしていた姿が目に浮かびます。休暇中でも、最後の数日間は外傷センターへ戻り、同僚を手助けしていました。彼の献身的な仕事ぶりをいつまでも忘れることはありません。

ジャウラーマン(23歳)

集中治療室の看護師で、2013年12月から活動していました。有能で聡明な看護師としてスタッフたちの間でも有名でした。研修には積極的に参加し、高い学習意欲を保っていました。周囲への気遣いを絶やさず、思いやりが深い性格でした。彼が担当した患者たちは、そのことを幸運だと感じていました。同僚みんなのよき友であり、人生を前向きに歩んでいる若者でした。

ザビウッラー(29歳)

警備員として2015年2月から活動していました。彼は詩人で、翻訳者で、作家でもありました。パシュトゥー語の翻訳を手がけたり、「辺境のガンジー」として知られるカーン・アブドゥル・ガッファル・カーンについて本も執筆したりもしていました。人なつこく親切な性格で、活動を始めて10ヵ月ほどで大勢の友人ができていました。冒頭でご紹介した詩は彼の作品です。
時は過ぎるが、記憶は残る
傷は癒えるが、傷跡は残る

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