創立40周年記念インタビュー:ロニー・ブローマンが振り返る、国境なき医師団(MSF)の軌跡(その2)
2011年12月16日ロニー・ブローマンが振り返る、国境なき医師団(MSF)の軌跡(その1)
ロニー・ブローマンが振り返る、国境なき医師団(MSF)の軌跡(その3)
失敗と模索を続け、キャンプで無二の存在に

エチオピア難民のキャンプで活動する
MSFのチームは医師と看護師、計42人に上った。
物事は移り変わります。MSFは現地で働くスタッフの後方支援と、そして給与の支払いを始めました。実は、私がMSF初の有給の医師になったのです。私たちは小規模な管理部門を立ち上げました。1980年にMSFに加わった薬剤師のジャック・ピネルが基礎医薬品リストを作成し、薬品ガイドラインを確立し、ロジスティシャンと水・衛生の専門家が必要だと主張しました。
MSFは研究者や学者、それに栄養学などの専門家との連携を始めました。私も栄養失調の新しい治療法の開発に関わりました。熱帯でも使えるようにホイルで密閉した、そのまま食べられる栄養治療食です。ですが、製造業者から送られてきた実物は、内容成分が間違っており、味もひどく、使用に耐えるものではないため倉庫行きになってしまいました。何トンもです。私は自分でそれを食べました。どのみち、ほかに食べられるものがあまりなかったので。
私たちは、戦争と避難民への対応に活動を集中することにし、難民キャンプでの活動が増えていきました。キャンプでの私たちは無二の存在でした。何もない所からでも活動が始められ、ほかのだれにもできないような、大いに必要とされている援助を行なうことができたからです。ソマリア、タイ、中米、南アフリカの難民キャンプで、私たちは知識と技術を養い、MSFがいまも用いている方法論を鍛え上げました。
ウガンダの飢餓—死の淵に立つ人びとを目撃

栄養治療センター診療所で治療を受ける患者。
そんな道のりの途上で、教訓も得ていきました。1980年の夏、私は現地調査でウガンダを訪れました。ウガンダは当時、無政府状態で、武装グループが互いに明確な政治的目的もなく争い、どこから危険が迫ってくるかすらわかりませんでした。それと同時に、とても過酷な飢きんが、不毛の土地である北東部で拡大していました。私が現地に赴く前に、既におよそ1万人の人びとが亡くなっていました。
朝、屋外に一歩踏み出すだけで、悪夢のような光景でした。ほこりっぽい道に沿って遺体が延々と横たわり、信じられないほどやせ衰えた人びとが死の淵に立っていました。何よりも深刻だったのは、それが飢きんだと認識されていなかったことです。首都では役人たちに、北東部の問題はもう解決済みで、現地住民はフレンチレストラン並みの食事を配給されていると太鼓判を押されていたんです。実際に赴き、確かめてみようと決めた私が現地で目の当たりにしたのは、本当に生きるか死ぬかの緊急事態でした。それはつまり、公文書や統計は過度に信用すべきではないということです。自分の目で見ること、それが間違いなく決め手になるのです。
論争を呼び起こす存在になったMSF

「生存のための行進」の列に
加わるブローマン(右)
一度だけ、MSFはもう終わりだと思ったことがあります。外科医と麻酔医と一緒にチャドにいたとき、待ち伏せ攻撃に遭ったんです。銃弾が降り注ぎ、外科医が撃たれてひどいけがを負いました。何分かの間、私たち3人とももう終わりだと思いました。その時、私たちが殺されていたら、MSFはどうなっていただろうと、いまでも時折思います。
ですが、幸いその不安は現実にはなりませんでした。私たちは、自力で動き、そして時に論争を呼び起こす団体を作り上げていきました。1980年、MSFはタイ・カンボジア国境で「生存のための行進(March for Survival)」を展開し、カンボジアでの人道援助にベトナムが課していた規制に抗議しました。また、1984年には、「国境なき自由(Liberté Sans Frontières)」という組織を立ち上げ、第三世界で起きている問題や災害に関する支配的な見方に疑問を投げかけ、大いに論争を呼びました。