創立40周年記念インタビュー:ロニー・ブローマンが振り返る、国境なき医師団(MSF)の軌跡(その1)
2011年12月09日ロニー・ブローマンは、国境なき医師団(MSF)がパリ市内のただ一部屋で運営されていた頃に活動に加わり、その後、難民キャンプや飢きんや戦争のさなかで働いた。1982~1994年には、MSFフランス支部の会長としてこの団体が今日の姿にまで成長するのを助けた。ブローマンが見たMSFの創成期とは? 創立から40年を迎えるいま、その模索と成長の経験を振り返るインタビューを、全3回にわたって掲載する。

ロニー・ブローマン
1950年エルサレム生まれ。医師。熱帯医学と救急医療の学位を修める。1977年から国際医療援助活動に携わり、1982~1994年、国境なき医師団(MSF)フランス支部会長を務める。現在はMSFの人道問題研究所(CRASH)でリサーチ・ディレクターとしてMSFや人道援助活動にまつわる考察を続ける。『「明日への対話」人道援助、そのジレンマ~「国境なき医師団」の経験から』、『不服従を讃えて ~「スペシャリスト」アイヒマンと現代』などの著作がある。
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学生闘争を経て、医療への熱意に目覚めた70年代

パリにあったMSFの事務所に初めて足を踏み入れたときは、クリスチアンというパートタイムの事務員が1人いるだけでした。70年代半ばのことで、政治的直接行動主義の時代が終わり、私もようやく医学生を修了したところです。ずっと、医師になりたい、人びとを癒し、治す秘術に関わりたいと思っていました。医療の業のすべてについて、非常に神秘主義的なイメージを抱いていたんです。
私は1967年、17歳で医学部に入りました。ですが、1968年5月の学生闘争で、私は政治に深くのめり込み、イデオロギーに悪酔いしたような状態になって前に進めなくなるまで、5年間をそのまま過ごしました。
私が属していたのは毛沢東主義のグループで、テロや極端な暴力との境界に限りなく近づいていました。既にフランス政府に活動を禁止されていたほどでしたが、1973年、私たちはグループを解散することにしました。そして私は、それまでに逸してしまっていたすべてを取り戻すために医学部に戻ったのです。
当時、医師を海外に派遣していたのは、教会か政府だけでしたが、私はそのどちらのためにも働きたくありませんでした。その点、MSFは政治的でも宗教的でもなく、私のような若い医師にとって非常に魅力的だったのです。MSFのおかげで、また勉強しよう、夜遅くまで頑張ろうという気になれました。外科、熱帯医療、救急医療を学び、あらゆる状況に備えたのです。
未熟だった組織、難民に助けられて活動

MSFのことは、初期の活動でホンジュラスの自然災害対応に携わった友人を通じて知りました。その活動自体がまったく悲惨なものでした。はるばる現地に飛んで、バケツの水を配っただけだったんです。自然災害への対応において、私たちが役に立てると証明できるようになるまで、実に長い年月がかかりました。
MSFはまだ小さな組織でした。10~12人の医師と看護師がアフリカやアジア各地で活動していましたが、お互いにどこにいるのかさえ知りませんでした。とても誠実で献身的な医師が、当時のザイールに派遣され、そして完全に忘れ去られたことがあります。8ヵ月後、パリに帰った彼女は、なぜだれも手紙の返事をくれないのかと尋ねました。
それから、私の番が来ました。派遣先はタイで、カンボジア国境近くに病院を設置することが目的でしたが、その6ヵ月後には、先立つものが一切なくなっていました。ポケットには一銭たりともありません。自分の食べるものを買うお金がない私に、難民たちが食べ物をくれました。私の車には何とかバンコクまで戻るだけのガソリンが残っていました。パリに戻ると、MSFがフランス北東部での私の巡回講演を企画してくれて、病院をさらに6ヵ月間運営できるだけの資金を集めることができました。
ある意味で楽しい初体験でした。上下関係も、診療ガイドラインも、上司もいません。自分が適切だと思ったことをするのです。本当にどんなことでも自分でやらなければなりませんから、医療はそのごく一部に過ぎませんでした。当時はそれでよかったんです。でも、それも長くは続きません。
ロニー・ブローマンが振り返る、国境なき医師団(MSF)の軌跡(その2)
ロニー・ブローマンが振り返る、国境なき医師団(MSF)の軌跡(その3)
関連書籍

「明日への対話」人道援助、そのジレンマ——「国境なき医師団」の経験から
著者:ロニー・ブローマン
訳者:高橋武智
発行所:産業図書株式会社