スーダン:「目を背けるのは、悲しい」──戦火の前線にとどまった日本人が語る、いまも続く内戦の“現実”

2025年08月05日
現在も内戦が続くスーダンで2023年に活動した国境なき医師団(MSF)の末藤千翔=東京都内で2025年7月 Ⓒ MSF
現在も内戦が続くスーダンで2023年に活動した国境なき医師団(MSF)の末藤千翔=東京都内で2025年7月 Ⓒ MSF

2023年4月から内戦が続くアフリカ北東部スーダン。スーダン国軍(SAF) と準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」の間で軍事衝突が起こり、多くの市民が巻き込まれた。国連によると、これまでに1200万人以上が家を追われ国内外へ避難したという。

国境なき医師団(MSF)の末藤千翔は、これまでシリアイラクなどの紛争地で人道援助の最前線に立ってきた。スーダンで内戦が勃発したばかりの2023年6月には、プロジェクト・コーディネーターとして首都ハルツームに赴き、激しい戦闘が続く中で半年間にわたって医療援助を続けた。

なぜ末藤は、命の危険と隣り合わせの地にとどまり続けたのか。そして戦後80年を迎える日本にできることとは。紛争の内側から見た現実と、そこから生まれた思いを聞いた。

末藤千翔(すえふじ・ちか)

東京都出身。日本の国際NGOや国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を経て、2018年から国境なき医師団(MSF)に参加。バングラデシュやシリア、イラク、アフガニスタンに派遣され、活動責任者などを歴任した。2025年5月からMSF日本事務局でアドボカシー・医療渉外・緊急対応チームのディレクターを務める。

人道援助の道具化、スーダンでも

──スーダンで活動していた際、現地はどのような状況でしたか。

私はハルツーム南部のカラカラという地区にある、現地保健省が運営するトルコ病院を支援するプロジェクトに派遣されました。

末藤が活動したスーダンの首都ハルツーム南部にあるトルコ病院=2023年 Ⓒ MSF
末藤が活動したスーダンの首都ハルツーム南部にあるトルコ病院=2023年 Ⓒ MSF


到着した2023年6月はまだSAFの支配地域でしたが、すぐに戦闘の前線へと変わりました。
 
特に戦闘が激しかったのは7~8月。空爆や銃撃が24時間ずっと飛び交っていました。武装した兵士が病院にやってきてスタッフを脅したり、暴れたりすることも日常茶飯事です。MSFの車も銃撃を受けたり、盗まれたりしました。
 
次第にRSFが優勢となり、7月下旬ごろには支配権が完全に移りました。

──それで状況は改善しましたか。

それまで以上に過酷な環境が始まりました。
 
SAFが8月下旬ごろから、RSFのいる地域を包囲して人や物資の出入りを禁じたのです。

パレスチナ・ガザ地区のような、軍事戦略の一環として援助を妨害する「人道援助の道具化」がスーダンでも起きています。

スーダンで攻撃を受けたMSFの車両内部。窓ガラスが割れて応急的に補修してある=2023年 Ⓒ MSF
スーダンで攻撃を受けたMSFの車両内部。窓ガラスが割れて応急的に補修してある=2023年 Ⓒ MSF


SAFもRSFも、攻撃して地域を弱体化させることで人びとを追い出そうとします。水、食料、燃料、ライフライン、病院、市場……。被害は大きく、患者さん、スタッフともにぎりぎりの状況が続きました。
 
例えばトルコ病院の規模だと、電力が届かない場合、自家発電の必要があるため燃料は理想で1日500~1000リットル必要です。

しかし当時は使えてもせいぜい1日100リットル。明かりや冷蔵庫、エアコンは電気を切りました。輸血や温度管理が必要な医薬品のための医療用冷蔵庫、そして水をくみ上げるポンプでさえも利用を1日数時間に制限しました。

手術室では外科医がヘッドライトを着けながら、時には50度にも達する暑さの中で手術をしていました。手術道具を消毒する機械も燃料不足で使えないため、わずかな水を煮沸して滅菌していました。

それでも燃料は不足しました。最大限に節電しているにもかかわらず、燃料が残り10時間分あるかないかという状況に何度か陥りました。

飲み水は十分になく、もちろんシャワーも毎日はできません。薬などの医療物資も少なく、患者さんの治療がままならない状況でした。新生児を置くベッドも足りず、スタッフが道端に落ちていた廃材を拾い、溶接して手作りしたものを使いました。
トルコ病院では燃料が不足し、火を起こして木炭で湯を沸かした=2023年 Ⓒ MSF
トルコ病院では燃料が不足し、火を起こして木炭で湯を沸かした=2023年 Ⓒ MSF

それでも残った理由

──そのような中で活動を続けた理由を教えてください。

他に、私たちと同じような医療を無償で24時間提供できる病院がないからです。
 
MSFが病院を閉めると、次に近い総合病院は200キロほど離れています。当時、トルコ病院には患者さんが1日に何百人も殺到していました。戦傷以外にも、帝王切開などを含めて緊急手術を何件もする状況でした。
 
患者さんはいろいろな場所からやってきます。20~30キロなら近い方。100~200キロも先から徒歩やロバの荷車で来る人が大半でした。トルコ病院に到着したとき、もし門が閉まっていたらその人たちはどんな気持ちになるか。
 
それを想像したら「じゃあ私たちはいなくなります」とは簡単に言えなかったし、自分自身が許せなかった。

トルコ病院では新生児のベッドが不足し、道で拾った廃材を溶接して手作りした(右奥)=2023年 Ⓒ MSF
トルコ病院では新生児のベッドが不足し、道で拾った廃材を溶接して手作りした(右奥)=2023年 Ⓒ MSF


「この判断は正しいのか」。そう何度も自問自答しました。しかしチームのスタッフに繰り返し意見を聞いても、みんな迷いなく「ここに残る」と答えました。

「薬の最後の一錠がなくなるまで、私たちだけでも活動を続けよう」

彼らの力強い言葉はいまでも私の胸に残っています。スタッフたちに恵まれたから続けられた活動でもありました。
 
周辺ではトルコ病院の中が一番安全とされていて、毛布を持ってきて空きスペースや駐車場で夜を明かす市民もたくさんいました。SAFが撤退した後に警察もいなくなり、治安も悪くなったためです。昼夜を問わず家で強盗に襲われて殺されたり、性暴力を受けたりする人もいました。

世界から忘れられた紛争

──それだけ厳しい人道危機が起きているのに、紛争の存在があまり知られていないのはなぜでしょう。

一つには「情報が把握できないぐらい、現地が危険だから」と言えます。
 
私がいた当時、ハルツームで活動できていた国際機関・団体はMSF以外にほとんどありませんでした。地元保健省や国連でさえ、紛争の正確な死傷者数を集計できていないのが現状です。

ジャーナリストも現地に入れませんでした。携帯電話の電波もなく、市民が現地の状況をSNSなどで発信することも難しかったです 。

──どんな人たちが戦闘に参加しているのですか。

兵士には未成年と思われる人も多かったです。中には、スーダンの田舎から国外へ出稼ぎに行くつもりだった少年が、訳も分からずハルツームへ戦闘に来させられたとみられるケースもありました。
 
でも、簡単には抜け出せません。戦闘をしたくなくて、自分で自分の足を撃って運ばれてくる少年もいました。

「このことは他の兵士には言わないでね。僕が殺されちゃうから」とおびえていました。

MSFスタッフとしてスーダンに派遣され、屋外で活動する末藤(右)=2023年 Ⓒ MSF
MSFスタッフとしてスーダンに派遣され、屋外で活動する末藤(右)=2023年 Ⓒ MSF


他にも、家族に危害を加えられないようにとか、車や家などの所有物を盗まれないようにとか、身を守るために仕方なくRSFに入っていた人もいました。

紛争に加担することは、もちろん肯定できません。それでも、自発的ではない理由で戦闘に参加させられている人が多くいる現実を目の当たりにしました。
 
私はこうした現実を目撃した数少ない一人として、スーダンの状況を証言し続ける必要があると考えています。

「日本に感謝している」

──日本も80年前に悲惨な戦争を経験しました。

小さいころ、祖父母から戦時中の話を聞く機会がありました。当時2人はすでに結婚していましたが、祖母と親戚は地方に疎開して、祖父は東京の実家に残ったそうです。

私が高校生の修学旅行で沖縄に行った際は、戦争体験者の方に戦時下の悲惨な経験をお伺いしたことを覚えています。

スーダンなどの紛争地に行くと、かつての日本と重ね合わせることがあります。
 
例えば、日本では「疎開」という言葉を使いますが、現在のスーダンに置き換えると、これは戦闘や空爆で危険になった地域からの「国内避難」です。遠い昔の無関係な出来事には思えません。
末藤は「スーダンの状況を証言し続ける」と話す=都内で2025年7月 Ⓒ MSF
末藤は「スーダンの状況を証言し続ける」と話す=都内で2025年7月 Ⓒ MSF
──日本とスーダンは関わりが深いのですか。

スーダンは日本が長年にわたって支援してきた国です。

現地で出会ったさまざまな人たちが「日本には感謝をしている」「日本に3カ月いたこともあるんだよ」などと教えてくれました。「日本人の君が言うなら、僕もノーとは言えない」と言われたこともあります。

日本とスーダンの関係について語る末藤=都内で2025年7月 Ⓒ MSF
日本とスーダンの関係について語る末藤=都内で2025年7月 Ⓒ MSF
スーダン、シリア、イラク……どこの活動地へ行っても、紛争当事者は日本に深い尊敬の念を持ってくれています。

そして「なぜ日本もかつて大きな戦争を経験したのに、ここまで平和で豊かな国になれたのか」と聞かれます。

過酷な歴史を経験し、中立の立場で紛争地に寄り添ってきた日本だからこそできる支援を探すことは大切だし、声を上げ続ける意味があるのではないでしょうか。

懸命に生きる人びと、心だけでも

──戦後80年を迎える今年、日本の人たちに何を伝えたいですか。

どこの紛争地でも、避難先でも、人びとは必死に生きています。たまに「彼らは努力が足りないから苦境にある」という声を聞きますが、そんなことは絶対にありません。もし違いがあるとしたら、それは「境遇」の差に過ぎないと思います。

例えばトルコ病院では、多くの健康な地元の人たちが、自分にできることを率先して手伝ってくれていました。掃除、安全・同線の確保、物資の運搬、患者さんの搬送・付き添いなどさまざまです。危機迫る状況にもかかわらず、「他者のために何かしらの貢献をしたい」という一心で残っていたのです。

世界にはいまも、日本がかつて経験したような苦難に直面している国や地域があります。

そうした現実に目を向けようとせず、「目を背けるふり」をしてしまうとしたら私は悲しい。

できる支援は人によって違います。それでも、心を寄せることならいつでもできる。
 
「平和」を守るためには、一人一人が当事者の意識を持って能動的に関わることが求められます。私自身も含めて、そうした問題意識を深めていくことが必要だと信じています。

「平和を守るためには一人一人が能動的に関わることが必要」と呼びかける末藤=スーダンで2023年 Ⓒ MSF
「平和を守るためには一人一人が能動的に関わることが必要」と呼びかける末藤=スーダンで2023年 Ⓒ MSF

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