「砂嵐とロバとかみ煙草」ダルフールでの活動13年間の軌跡

2020年07月13日掲載

スーダン、タウィラのMSFが援助する保健施設で診察を待つ少女=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSFスーダン、タウィラのMSFが援助する保健施設で診察を待つ少女=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSF

スーダン西部に位置するダルフール地方の小さな町、タウィラ。ダルフール紛争のさなかで激しい戦闘が起きた場所の一つだ。2003年に襲撃を逃れた住民たちが移り住んだキャンプでは、やがて他の地域からの避難民を受け入れ、今や5万人以上が暮らす。

この地で医療活動を行ってきた国境なき医師団(MSF)は今年5月、保健省に権限を委譲し、プロジェクトを終了した。危険地域で活動した13年間は、決して平坦なものではなかった。避難民たちとともに歩んだその軌跡とは──。

にぎやかな町から一転、襲撃でゴーストタウンに

タウィラ近辺にて、わらを運ぶロバ=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSFタウィラ近辺にて、わらを運ぶロバ=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSF

谷間に位置し、農地に囲まれたタウィラは、さまざまな遊牧民族が交差する土地だ。ハブーブと呼ばれる砂嵐が強く吹き荒れ、まつ毛を白くする。雨期でなければ気温40度を超すこの地で大活躍するのは、ロバだ。木材や石炭を運搬するのに、人を乗せずロバだけで列をなして長距離移動することもあるという。

タウィラにはかつて活気ある市場があり、町が栄えていた。野菜や穀物が栽培され、名物のかみ煙草は重要な収入源となってきた。かみ煙草はスーダン全土で大量に消費されるからだ。

タウィラの名産品であるかみ煙草を袋詰めしている人びと=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSFタウィラの名産品であるかみ煙草を袋詰めしている人びと=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSF

2003年、政府軍によってこの町は襲撃や略奪を受けた。住民の多くは州都のエル・ファシールへと逃れたが、タウィラ周辺にはキャンプも現れ始めた。やがて他の地域から逃げてきた大勢の人びとがそこへ加わり、現在は 5つのキャンプでおよそ5万4000人の国内避難民が暮らす。

タウィラのキャンプにたどり着いたばかりの避難民たち=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSFタウィラのキャンプにたどり着いたばかりの避難民たち=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSF

それまで断続的にタウィラを訪れていたものの、MSFが常設のプロジェクトを立ち上げたのは2007年だ。「タウィラはゴーストタウンになっていた」と、現地調査をしたジブリールは当時を振り返る。

「初めは学校で寝泊まりをしていました。そこに発電機の騒音に警戒した男たちが武装して現れ、なぜここにいるのかと怒鳴りつけてきた。警告としてロケット弾まで撃ってきたので、発電機を止めざるを得ませんでした」

この経験は、危険地域での活動でよく起こる出来事の、いわば先駆けとなった。タウィラは、スーダン政府とダルフール地方の反政府勢力が衝突を繰り返していた場所の一つ。紛争が始まって以来、数万人が命を落とし、数百万人が家を追われた。

「当初、スタッフのほとんどは国内避難民でもありました。生々しい体験談を耳にしたものです。いくつもの民兵団に攻撃され、すべてを失った彼らは、もはや自宅に帰ろうとはしませんでした」と2007年に勤務したMSF医師のモハメド・エルムトワキルは話す。

MSFは タウィラの改修した保健施設での活動を中心に、近隣地域での移動診療所も運営していた。コレラ、マラリア、麻疹、デング熱、百日咳などの感染症、栄養不良、外傷治療などの緊急対応を行った=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSFMSFは タウィラの改修した保健施設での活動を中心に、近隣地域での移動診療所も運営していた。コレラ、マラリア、麻疹、デング熱、百日咳などの感染症、栄養不良、外傷治療などの緊急対応を行った=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSF

困難を極めた援助活動

タウィラでの活動は、 MSFチームにとって容易なものではなかった。現地での13年間で、車上荒らしから、強盗や銃撃、スタッフ宿泊所への攻撃、医療施設への侵入まで、14件の治安事件に見舞われたのだ。幸い死亡者は出なかったが、2人のスタッフが負傷した。

ある時期には、人道援助団体のスタッフ誘拐が常習化していて、いくつかの組織はその影響を受けた。MSFも安全の確保ができるまでの一定期間、撤退せざるを得ないことが何度かあった。

「忘れられないのは、MSFの車を盗んだ武装集団を避難民たちが追いかけて、車を取り返そうとしたことです」とジブリールは振り返る。

「彼らの中には、どうか残ってほしいと涙を流す人もいました。私たちは心を打たれ、どんなに困難でもこの地に留まらなければならない、と確信しました」

この地での課題は他にもあった。町の外への移動だ。タウィラからエル・ファシールまでの距離はわずか35キロ。重症患者の搬送や必要物資の調達で、この都市へ行くことになるが、ヘリコプターは何年もの間飛んでいない。安全のため、遠回りながらもでこぼこの小道を片道7時間かけて運転せねばならなかった。

タウィラの保健施設にて、子どもの身体測定を待つ母親たち=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSFタウィラの保健施設にて、子どもの身体測定を待つ母親たち=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSF

復興しつつあるスーダンでの新たな活動

近年 、和平交渉の進展により、この地域への交通アクセスは大幅に改善した。エル・ファシールとのつながりが良くなったことで、他の人道援助団体がタウィラに拠点を設けるようになり、経済も活発化した。

だがタウィラも 、昨年のバシル大統領の失脚と無関係ではいられない。国中で不確実さが広がったが、ここの人びとにとっては故郷へ戻る決断がまたもや難しくなった。

「多くの人は何度も避難を繰り返し、家族を失い、愛する人を埋葬することさえできなかった。攻撃から逃れるとき、子ども全員を無事連れ出すことができなかった親たちもいます」とジブリールは言う。痛みを伴うさまざまな出来事──タウィラの人びとは、その記憶と折り合いをつけるための旅をし続けなければならないのだ。

移動診療所の前にて。女性たちは妊娠や分娩後の合併症の診察、あるいは下痢や感染症になった子どもを連れて日々来院した。心理的・社会的な問題についてのカウンセリングも行われた=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSF移動診療所の前にて。女性たちは妊娠や分娩後の合併症の診察、あるいは下痢や感染症になった子どもを連れて日々来院した。心理的・社会的な問題についてのカウンセリングも行われた=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSF

MSFは行政機関と時間をかけて調整を重ね、今年5月末にタウィラでの全ての医療活動を保健省に移譲した。ダルフール紛争のピークを迎えた後の 2000年代後半に、MSFはダルフール地方での援助活動を開始。この地方の複数の州でプロジェクトを立ち上げたが、スーダン政府は2009年、他の人道援助団体とともに多くのMSFスタッフを追放した。2015年には同政府による活動制限のため援助が必要な地域に入れなくなり、MSFはダルフールでの多くのプロジェクトを終了せざるを得なかった。

ここ数年、MSFはタウィラだけでなく、北ダルフール州の他の地域でも活動を展開してきた。州内各地でプロジェクトを運営し、エル・ファシールには国全体での援助活動の開始に特化した緊急対応チームの拠点がある。

近年、MSFはスーダンでの取り組みを発展させて、より安定した医療介入も行うようになった。紛争被害者など弱い立場にある人びとのニーズに応えつつ、引き続き緊急援助活動も行っている。今年初めには、紛争の中心地として人道援助団体の立ち入りが制限されてきた、中央ダルフール州ロケロ町で活動を開始。長年援助を受けられずにきた場所で、医療を提供していく。

アラビア語でハブーブと呼ばれる砂嵐が吹き荒れるダルフール地方=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSFアラビア語でハブーブと呼ばれる砂嵐が吹き荒れるダルフール地方=2010年 © Juan Carlos Tomasi/MSF

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