希望を求め、海を渡る 地中海から届いた生存者の声

2022年04月21日
浸水したゴムボートから113人が救出された=2022年3月29日 Ⓒ Anna Pantelia/MSF
浸水したゴムボートから113人が救出された=2022年3月29日 Ⓒ Anna Pantelia/MSF

ウクライナの戦争は大規模な人道危機を引き起こし、何百万人もの人びとが近隣諸国へ避難している。その一方で、世界の他の地域の人びともまた、紛争や迫害から逃れるため、欧州を目指し移動を続けている。そのような欧州における別の人道危機は、欧州連合(EU)加盟国やメディアにより無視されているのが現状だ。
 
国境なき医師団(MSF)の捜索救助船ジオ・バレンツ号は、2022年に入ってから地中海における2回の活動で663人の女性、男性、子どもを救助。3月29日の救命活動で保護された113人のうち、2人が、リビアでの壮絶な体験を語った。彼らが命をかけて地中海を渡ろうとした背景とは──。

リビアでは死刑囚のように生きていた

アブドゥライさん(27歳)/ガンビア出身
アブドゥライさん(27歳)/ガンビア出身
より明るい未来を手に入れようとガンビアを出たのは、8年ほど前のことです。いろいろな国で運試しをしてきました。まず、セネガルを訪れ、マリ、ブルキナファソ、ニジェールと旅をしました。

仕事で貯めたお金を使って砂漠を越え、たどり着いたのが、リビア国境でした。リビアに入ると、密入国業者に支払い済みだった手間賃が未払いだといいがかりをつけられ、収容施設に連れて行かれてしまったのです。

そこでは、お金を払えないと殴打され、2日も食事なしで放置されます。飲み水はいつも汚くて、足りないのでトイレの水も飲んでいました。

お金を払うか、殺されるか

食事の前には、ひどく殴打されます。仲良くなった1人は撲殺されました。コートジボワール出身の男性で、やはりお金を払えなかったのです。歯がほとんどなくなるまで殴られ、お腹が腫れあがり、食べても全て吐き戻していました。私はゆでたジャガイモをつぶして、食べさせようとしましたが、結局食べることができませんでした。両脚が完全に折れていて、トイレにも行けません。そして、ある日、亡くなったのです。

収容施設では、お金を払うか、さもなければ死ぬかです。拷問はお金を渡すまで続き、感電させられる人もいました。差し出すお金がもうないと見なされると、両腕両脚を折られて、街中に置き去りにされることもあります。脱走を図ろうとすると、銃撃されます。私が目撃しただけでも10人は殺されています。女性たちは、拉致されて、集団によるレイプに遭ったそうです。売春も強制されていました。

何とか施設を抜け出した後も、死刑囚のような気分で、周りは敵ばかりのように感じました。外国で独りきり、石を投げられたり、唾を吐きかけられたりしても、何もできませんでした

Ⓒ Anna Pantelia/MSF
Ⓒ Anna Pantelia/MSF

何もかも奪われて

最初に試みた地中海の渡航に立ちはだかったのは、リビアの沿岸警備隊です。罵声を浴びて、警備隊の船に移れと言われました。命令に従わなければ撃たれるのがわかっているので、従わざるを得ませんでした。

だ捕された私たちは、再び収容施設に入れられ、お金も、携帯電話も、何もかもを取り上げられました。もっと金を出せと言われても、渡航に全財産を注ぎ込んでしまい、家族に助けを請うための連絡手段もありません。

Ⓒ Anna Pantelia/MSF
Ⓒ Anna Pantelia/MSF

2回目の渡航では、11時間以上海上にいました。それでも死ぬのは怖くありませんでした。何も手にすることなくガンビアに戻るくらいなら、海で死ぬ方がましです

ヨーロッパに行くという目標を達成するまでに7年かかりました。家族にも会わず、自分の人生のために頑張っていくつもりでした。さまざまな困難を乗り越え、ここまで来られたことをとても誇りに感じています。

Ⓒ Anna Pantelia/MSF
Ⓒ Anna Pantelia/MSF

ガンビアを出た当時は勉強を続けることが唯一の望みでしたが、今は両親が亡くなる前に再会することが大きな目標です。両親も、生きているうちに会いたいと言っています。2人に自慢の息子だと思ってもらいたいんです。

Ⓒ Anna Pantelia/MSF
Ⓒ Anna Pantelia/MSF

拉致と拷問、性暴力におびえ続けて

ティノさん(仮名・18歳)/ナイジェリア出身<br>
ティノさん(仮名・18歳)/ナイジェリア出身
生まれ故郷のナイジェリアには何もありませんでした。私は10歳の頃に母を亡くし、父は私と兄弟の面倒を見てくれなかったので、祖母に育てられました。でも、祖母ももう年なので私が支えなくちゃいけません。ナイジェリアでは将来が見込めず、友達に提案されたのが、リビアへの出稼ぎでした。

ナイジェリアを出たのは17歳の時です。

水も食べ物もない旅路

リビアに行くのは大変でした。50人くらいの人と一緒に、2~3週間、水も食べ物もなく、ピックアップトラックの荷台に乗せられていました。寝る時は道端で野宿し、燃料の入っていた容器で水を飲みました。

それまでにも砂漠越えでは、夏に水が足りなくて亡くなった人や、冬の寒さで寝たまま亡くなった人がいるそうです。私が目にしたのは、凍えて死んでいく人たちでした

救出された生存者の中には、海上で疲れ果て、海に落ちてしまった人もいた Ⓒ Anna Pantelia/MSF
救出された生存者の中には、海上で疲れ果て、海に落ちてしまった人もいた Ⓒ Anna Pantelia/MSF

黒人女性は何も言えない

リビアに着いた後は、他のアフリカ人と廃墟で暮らしました。リビア人の家でお手伝いとして働くようになり、家事や子どもの世話をしていました。20人くらいの大家族で、とても大変でした。扱いは悪く、もらえるはずのお給料ももらえませんでした。

リビアでは、そういうことに対して黒人女性が文句を言うと、警察に連れていかれて、収容施設に入れられてしまいます。できることは限られていました

ノコギリで切り付けられ…

ある日、リビア人の男たちが私たちの宿泊先に押し入ってきて、レイプされそうになりました。ノコギリを持った男もいて、それで叩こうとしてきたのです。抵抗すると、切り付けられて、頭蓋骨に大きな傷ができました。でも、在留許可証がないため、病院にはいけませんでした。病院は在留許可証のない人を受け入れてくれないからです。

リビアでは黒人女性は何もできません。いつもおびえて暮らすことになります。拉致されて、拷問やレイプや強制売春に遭う危険があるので、日中はどこも歩けません。

私も収容施設で拷問やレイプを受けた女の人をたくさん知っています。逃げ出してきた人たちが、私たちの宿泊先を頼ってくるからです。

私はヨーロッパに行って、英文学の勉強をしたいです。本を読むことが好きなんです。祖母を心配させたくないので、ナイジェリアを出てから、連絡はしていません。連絡をするのは、ヨーロッパにたどり着いた後にするつもりです。そうしたら、きっと喜んでくれると思います。

4月10日、イタリア南西部アウグスタにおいて、生存者113名の下船作業が開始された Ⓒ Anna Pantelia/MSF
4月10日、イタリア南西部アウグスタにおいて、生存者113名の下船作業が開始された Ⓒ Anna Pantelia/MSF

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