「僕は奴隷として売られた」 カメルーンからリビア、そして欧州への旅路(後編)

2022年06月22日
© Augustin Le Gall
© Augustin Le Gall

カメルーンのストリートチルドレンだったヤニックさん。2019年に人身売買組織に連れ去られ、リビアで奴隷として売られた。その後リビアを脱出し、地中海を危険なボートで渡ってイタリアにたどり着いた彼は、そこからさらに フランスに避難し、国境なき医師団(MSF)の支援を受けた。生きるために彼が歩んだ道のりとは——。前編に続き、後編を伝える。

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第三章
ついに欧州へ
「イタリアからフランスまで歩き続けた」

到着したシチリア島で船を降りると、バスに乗せられていくつもの大部屋がある場所に連れて行かれました。新しい服をもらい、体を洗い、着替えをしてご飯を食べ、ベッドで眠れたのです。それから、紙に名前、年齢、国籍を書くように言われました。そこで1週間過ごした後、僕は他の未成年者と同じグループに入れられたのです。
 
僕らは、ローマという都市に送り出されるようでした。鍵のかかる場所に入れられ、外に出られなくなりました。食べて、体を洗い、寝るだけ。しばらくそのような日が続きました。あまり気分よく過ごせる場所ではなかったので、僕と他の若い子たち数人で、抜け出すことにしたのです。出ていって路上で暮らすつもりでした。
 
しかし、イタリア語が分かりません。そこで、他の子と一緒にフランスに行くことにしたのです。フランス語を話せるアフリカ人から「ローマを出てミラノに行き、ベンティミーリアに行って、そこからフランス行きの列車に乗ればいい」と道順を教わりました。

その通り乗りましたが、ずっと無賃乗車だったので、列車内で警察に捕まってイタリアに追い帰されました。丸一日かけて歩き、ようやくフランスに接するベンティミーリアに帰り着いたのです。他の移民から、山を抜ければフランスのニースに行けると聞き、また徒歩で向かいました。渓谷を滑り落ち、泥やほこりまみれになりながら……。ニースにたどり着いた時、辺りにいた人の視線が痛かったです。
 
幹線道路まで歩いて、身を隠しました。あれは午前5時頃のこと。僕らは最初のバスが通るのを待っていました。行き先がどこでも、とにかく移動し続けていたかったのです。終着駅についたら、そこはマルセイユでした。パリに行こうと誰かが言ったので、僕らは電車に乗りました。

車掌が来たら身を隠しながら、午後5時ごろパリに着きました。どこへ行けばよいかも分からない状態でした。まず最初にしたかったのは、エッフェル塔を見ること。しかし、その日は結局たどり着けませんでした。その代わりに迷子になったのです……。この時、2019年の8月か9月だったと思います。

パリに逃れて来たヤニックさん  © Augustin Le Gall
パリに逃れて来たヤニックさん  © Augustin Le Gall

第四章
パリをさまよう
「寝たら明日は来ないかもしれない」

翌朝、僕らは避難できる場所を探しました。警察に行きなさいと勧めてくれた男性がいて、その通りにしたら、警察署で質問攻めになりました。恐ろしかったです。

警官は僕らを赤十字に連れて行きました。赤十字の人たちは、これまでのことを聞いてきました。リビアで虐待や拷問を受けたこと、そしてイタリアへ行ったことなど、自分の身に起きたことを全て話しました。心理療法士が必要かと聞かれましたが、その時の僕は心理療法士というものが何か分かりませんでした。

僕は、「保護者のいない未成年者」として保護を認められる審査の結果を待っていました。しかし、僕は未成年とは認めてもらえませんでした。もらえたのは裁判所に提出する別の書類だけ。

裁判所の出口で呼び止められ、僕は初めてパンタンにあるMSFのセンターに行きました。「保護者のいない未成年者」として認めてもらえるよう、児童裁判官に不服申し立てをするそうです。ここでソーシャルワーカーと心理療法士の面談も受けました。

未成年者を支援 MSFのパンタン・プロジェクト

2017年にMSFは、州当局による初期審査で「保護者のいない未成年者」としての保護が認められなかった未成年に対し、医療、心理、法律、社会面の支援を行うためのセンターをセーヌ=サン=ドニ県のパンタンに開設。
 
このセンターは公的機関の支援の穴を補う形で、これまでに2788人以上の若者を支援。1万345件の診療、6746件の心のケア相談、1518件の児童裁判官への紹介のほか、食料や衣類の提供、フランス語講座、住まい探しなどの支援を行っている。(2021年8月時点)

次に僕らは、フランスにいる移民を支援する団体が配るテントを取りに行きました。避難民キャンプがある丘に着いてみると、そこには多くの人が寝ていました。僕らは隅っこにテントを張りました。
 
その後オーベルビリエの仮設キャンプで2カ月ほどテント暮らしを送りました。キャンプは本当に寒く、恐ろしかったです。寝たら目が覚めず、明日が来ないかもしれないと不安でした。

パリの北に位置する都市オーベルビリエで移民の人びとが過ごすキャンプ  © Augustin Le Gall
パリの北に位置する都市オーベルビリエで移民の人びとが過ごすキャンプ  © Augustin Le Gall

2019年12月19日、面談予定があったのでMSFのパンタン・センターに行ったら、僕のための仮住まいを見つけたという知らせが待っていました。もうテントで寝泊まりしなくてよいのです。僕はMSFが運営しているパセレールという宿泊所に泊まれることになりました。

仮住まいを提供 MSFのパセレール・プロジェクト

2018年8月にMSFは、心身に健康被害が出た若者のために「パセレール」という名の20床の宿泊所をパリ地域に開設した。パセレールに滞在する若者は、MSFのパンタン・センターでソーシャルワーカーのサポートを受けると同時に、未成年者認定手続きなど他の支援も継続して受ける。状況が安定するまでこの支援を受け、その後、支援プログラムを通じてホストファミリーとして受け入れる市民と一緒に暮らすことになる。

当初の予定では、3カ月間パセレールに滞在してからホストファミリーのところへ行くことになっていました。勉強もまた始めました。他の人と一緒に週に一度、フランス語講座を受けたほか、アクティビティや研修も受けられるようになったのです。将来のことを考え始めました。何の職業訓練も受けたことがありませんでしたから。

ロジスティクスの勉強をして、人道援助団体で働き、僕と同じような経験をしている人たちを助けたいと思っています。よく思い出すのは、旅の途中で会った人たちがいつも僕に言ってくれたことです。「大丈夫、きっとうまくいくよ」って。

ヤニックさんは学習や職業訓練の機会を得た © Augustin Le Gall
ヤニックさんは学習や職業訓練の機会を得た © Augustin Le Gall

第五章
保護者のいない未成年と認定される
「いま僕が望むのは——」

僕が保護者のいない未成年者として認定されたのは、2020年3月、フランス政府が新型コロナウイルスで最初のロックダウンを行った時でした。僕は青少年社会福祉の支援を受けられることになったのです。
 
3月末に裁判官から配置命令が届き、その翌日、保護者のいない未成年のための教育部門(SEMNA)に案内されました。他の場所に移るまで、ピガールのホテルに泊めてもらいました。他の若者と一緒に住むアパートとホステルのどちらがいいか聞かれました。本当はホストファミリーのところに行きたかったのですが、それはもうできませんでした。それで僕はアパート暮らしを選びました。

SEMNAのアドバイザーは、僕のプロフィールを赤十字社に送り、数日後、赤十字社に受け入れられることになったのです。
 
この話をすると、心が晴れ晴れとします。なぜって、一人でいると考えすぎてしまうから。一人でいるのは好きなのに。
 
気分が良くなる瞬間は、家に一人でいるときと、精神科医に会いに行った後です。仮設キャンプのあったオーベルビリエに戻るときもそうです。決して楽な暮らしではありませんでしたが、僕はあそこに行ってのんびりするのが好きです。気分が良くなることもあれば、悪くなることもありますけれど。見かける人はみな、僕がいた時とは違う人たちです。誰かが来たら隣に座って、会話が始まります。話すのは相手のことを知りたいから。いまどんな状態でいるのか、お互いに打ち明けます。
 
僕が経験したことを分かってもらうためには、自分自身の話を伝えることが大切だと感じています。僕が望むのは、手に職をつけること、そしていつの日か家庭を持つこと。他の人と同じように生きることが、いまの僕の願いです。

現在、ヤニックさんは塗装技術を身につける数カ月間の職業訓練を終え、ロジスティクスの訓練コースに入った。また、フランスのある協会のボランティアとして、この協会が運営するレストランで食事の準備や配膳を手伝っている。

「人道援助団体で働き、自分と同じ経験をしている人たちを助けたい」と話す © Augustin Le Gall
「人道援助団体で働き、自分と同じ経験をしている人たちを助けたい」と話す © Augustin Le Gall

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