終わらない旅路を強いられた人びと 人道危機の現場で人びとに寄り添うために

2020年02月06日掲載

© MSF© MSF

『医療者』に憧れたフォトグラファー渋谷敦志と、『ジャーナリスト』を目指した国境なき医師団(MSF)の手術室看護師、白川優子——。

2人によるクロストークイベント「移動を強いられた人びとに寄り添う」が2019年12月22日に開かれた。MSFが開催した「エンドレスジャーニー展」のイベントの一環。世界の人道危機を写真で世論に訴え続けてきた渋谷氏は、目の前の人たちを助けたいと『医療者』に憧れてきたという。一方の白川看護師は、「紛争を止めるために事実を伝えたい」と『ジャーナリスト』になろうとしたのだが……。それぞれが天職を全うする中で、直面したジレンマとは。置かれた場所で、人びとに寄り添うために2人が辿り着いた思いとは。 

MSFとの出合い

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渋谷:国境なき医師団と関わって20年になります。もともと高校生の時に戦場カメラマンになりたいと思い、写真を始めました。学生時代にブラジルに留学していたのですが、帰国後に、MSFフォトジャーナリスト賞の存在を知りました。報道写真と人道支援を組み合わせたような仕事ができたらなと思っていたので、『なんとしてもこの賞を取って世にでよう』と。大学4年生の時に、就職活動もせず、全力で取材撮影に取り組み、卒業してすぐに受賞することができました。 

大阪市西成区のあいりん地区、通称「釜ケ崎」の三角公園でボランティアの炊き出しに並ぶ人々(MSFフォトジャーナリスト賞受賞作品)=1999年、渋谷敦志撮影大阪市西成区のあいりん地区、通称「釜ケ崎」の三角公園でボランティアの炊き出しに並ぶ人々(MSFフォトジャーナリスト賞受賞作品)=1999年、渋谷敦志撮影

その3カ月後には、MSFが活動するケニアとエチオピアにいました。とくにエチオピアでは、MSFは医療が全く行き届かない辺境地で活動していました。心身の疲労感もありましたが、それだけによけいにMSFの存在意義を肌身で感じることができました。若い時にMSFの現場で修行させてもらったこと、これが僕の原点です。 

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白川:子どもの頃からMSFを知っていました。20年前の1999年、すでに看護師になっていた時に、MSFのノーベル平和賞受賞を報じるニュースを目にしました。この受賞は、私にとってすごく大きな意味があったのです。MSFへの憧れや尊敬を超えて、看護師なのだからMSFの一部になれるのではないかと思ったのです。もう一度、MSFと出合えた気持ちでした。

すぐに応募しようと思って事務局に行くのですが、結果を言うと、すぐには入れませんでした。特に語学が課題で。英語が全然話せなかったので。その後オーストラリアへの留学、現地の病院での看護師経験を経て、2010年にMSFに参加登録。主に紛争地で活動しています。 

紛争地シリアで

やけどを負った患者のケアをする看護師の白川=2013年 © Yuko Shirakawaやけどを負った患者のケアをする看護師の白川=2013年 © Yuko Shirakawa

白川:紛争地では、全く罪のない、紛争に加担していない一般市民の人たちが血を流して病院に運ばれてきました。特にシリアは、誰もが戦争が起こるとは思っていなかった国。シリアは全く戦争をしていない国だったので。空爆、砲撃、銃撃……そういった紛争の暴力で血を流してくる人たちを目の当たりにしました。でも最初は、この戦争はすぐに終わるのではないか、そのようにも思っていました。でも2013年に再び現地に行くと、戦争は悪化していました。

なかなか知られていないと思いますが、紛争地ではやけどの患者が多いのです。特に子どものやけど患者が増えます。劣悪な環境で母親が料理をすることで、側にいる子どもがやけどをしてしまうのです。ガソリンの値段が高騰したために使った粗悪なガソリンが爆発し、やけどになる患者もいました。 

ライフジャケットの『墓場』

渋谷:人はなぜ、すべてを捨てて住み慣れた場所を離れなければならないのでしょうか。紛争を逃れたシリアの人びとの多くは、トルコを経由してヨーロッパへと越境していきますが、ヨーロッパへの玄関口とも言えるのが、ギリシャ東部にあるレスボス島。そこから対岸のトルコまでの距離は最短の場所で16キロしかありません。リビアからイタリアへ渡るよりは“比較的”安全な航行とはいえ、密航船に乗った人びとは監視の目をかいくぐって、リスクをおかして海を渡ってきます。

レスボス島のモリアには難民を受け入れる収容所があるのですが、1万5千人もの難民が先の見通しのない状態で、行き場を失って留め置かれている。キャンプからあふれ出た人は、「ジャングル」と彼らが呼ぶオリーブ畑で野宿同然の生活を強いられています。2015年の「難民危機」以後、ヨーロッパでの排外主義の高まりを受け、難民をこれ以上受け入れたくないという世論が強まっているのはご存知の通りです。  

ギリシャにあるライフジャケットの墓場 © Shibuya Atsushiギリシャにあるライフジャケットの墓場 © Shibuya Atsushi

渋谷:これは「ライフジャケットの墓場」と呼ばれる場所を写した写真です。島に上陸した難民たちが着ていたライフジャケットを一カ所に集めて投棄しています。目をこらすと、小さな子ども用のライフジャケットがたくさんあるのですが、それには心が揺さぶられました。いかに子どもが多いのか、ということです。実際、難民の半数以上が子どもなのです。 

「エンドレスジャーニー展」の会場で展示された、子ども用のライフジャケット。渋谷氏が、ギリシャから持ち帰った現物 © MSF「エンドレスジャーニー展」の会場で展示された、子ども用のライフジャケット。渋谷氏が、ギリシャから持ち帰った現物 © MSF

渋谷:レスボス島で、建物の壁面などに『No borders(国境がない)』という、歓待のメッセージとも自問の言葉とも取れる落書きを数カ所で見ました。「わたしたち」と「彼ら」を分け隔てる境界線には、壁や入国審査といった物理的制度的なものもありますが、異質を遠ざけて安心を得たるために引いてしまう心の中の境界線の方が、世界の混迷を深めているように思えます。 

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隔離された場所で

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渋谷:2019年8月にはナイジェリアに取材に行きました。ナイジェリアはアフリカで最も人口が多く、国内総生産もアフリカ一の豊かな国です。でも国内の貧富の格差はすさまじく、発展から置き去りにされた北部のボルノ州で過激派勢力「ボコ・ハラム」が生まれました。その暴力によって、およそ170万人が国内避難民となっています。

難民キャンプには政府の認定を受けている公式なキャンプと非公式のキャンプがあり、MSFは人道支援が手薄な非公式のキャンプで活動しています。どのキャンプも人口過密なわりにトイレはわずかしかなく、安全な水へのアクセスも限られている。医療以前に、人がいのちの糸をつないでいくための基本的な生活環境が奪われている現実にショックを受けました。

白川:水は健康に直結する問題。不衛生な水では下痢も起きやすく、特に高齢者や赤ちゃんにとっては命に関わってきます。衛生的な水は、病気の蔓延や、感染症予防につながります。 

ボコ・ハラムの支配地域の中にある、ナイジェリア政府が管理している難民キャンプ © Atsushi Shibuyaボコ・ハラムの支配地域の中にある、ナイジェリア政府が管理している難民キャンプ © Atsushi Shibuya

渋谷:ボコ・ハラムの支配地域の中には、「陸の孤島」のごとく取り残された村々があるのですが、僕がMSFと訪れたプルカもその一つです。村の外はボコ・ハラムの支配地域であるため、陸路でアクセスはできず、ヘリコプターで入りました。ペリメター(軍事境界線)の内は政府軍、外はボコ・ハラムという異様な環境の中で、まるで人質のように約7万2000人が暮らしています。そのうちのじつに4万人が国内避難民なのです。

プルカ内部にいる限りは最低限の身の安全は守られる。ですがその代償として、移動や通信、働く自由など、さまざまな自由を手放してしまっている。暴力への恐れから、自らを檻に閉じ込めてしまっている。それは、排外的で自閉的な、今の現実世界の縮図のようにも感じました。

政府も手をこまねいているわけではなく、過激派を取り締まろうと多額の資金を武力に投じているといいます。でも、そうした資金を、もっと以前から、インフラや医療などに使えていたら、どんなに違った世界があったでしょう。戦争にお金を使えば使うほど世界がどんどんダメになる。そのやり方が続く限り、だれかを犠牲にし、だれかを置き去りにする悪い流れは続くのです。この流れにどう抗えばいいのでしょうか。 

生きるチカラを取り戻した赤ちゃん

© Yuko Shirakawa/MSF© Yuko Shirakawa/MSF

白川:初めて派遣された南スーダンでは、30分、1時間などの本当に短い時間で、あっという間に戦争になってしまいました。マラカルという15万人都市では、突然紛争が起こり、誰もが家を失って逃げなけなくてはいけなくなったのです。当時、MSFは大きな病院をサポートしていたのですが、MSFも逃げなくてはいけなくなりました。何もなかった土地に、あるものを使って住むしかないという光景が広がりました。 

© Yuko Shirakawa/MSF© Yuko Shirakawa/MSF

白川:15万人が戦闘から逃れていく中で、母親とはぐれた赤ちゃんと出会いました。栄養失調の子どもたちもたくさんいたのですが、赤ちゃんも脱水や栄養失調に陥っていました。私たちは、活動を再開したテントで、赤ちゃんの治療を始めました。

MSFは、医療活動を行っていることを人びとに知らせるために、大きな旗を立てていました。そしたら、赤ちゃんのお母さんが、「あそにMSFがいるから、そこに行けば子どもに会えるかもしれないと」と聞いて、旗を目指してテントに来てくれました。赤ちゃんはそれまで、哺乳瓶を吸う力もなくて、鼻からチューブを入れて栄養を注入していました。でも、再会したお母さんのおっぱいを吸い始めて。本当に感動した瞬間でした。 

それぞれの置かれた場所で

© Yuko Shirakawa/MSF© Yuko Shirakawa/MSF

白川:看護師は私の人生の軸であり、天職だと思っています。MSFの理念に賛同しているから、今も活動を続けられています。でも夢だったMSFを捨てて、看護師を捨てて、ジャーナリストになりたいと思ったことがあります。

紛争地は本当にひどい状況でした。赤ちゃんのお腹が割けて腸が出ていたり、骨が砕けて飛び出していたり、さまざまな破片物が体中に刺さっていたり……。もはや人の原型をとどめていないような、患者さんたちを診るのが連日です。当然私は、看護師として、手を差し伸べたい、命を救いたいという思いで活動しています。でも自分の看護活動が、戦争を止めるための活動に少しもつながっていない……。そこにジレンマを感じました。MSFは、当然戦争を止めるような団体ではありません。でも誰かがこの空爆を止めないといけないという思いで、とても苦しかったのです。 

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渋谷:僕は逆で、いろいろな国で、栄養失調で瀕死の状態の子どもと出会う度に、MSFのスタッフになりたいと思っていました。実際に何度か、その道筋について相談したこともあります。

でも、MSFに参加していたアメリカ人の医師にこんなことを言われました。

「たしかに医療は人の痛みを和らげることができる。でも戦争が続く限りエンドレス。根本的には戦争を止めることが必要。でも戦争を止めるのは政治やジャーナリズムの仕事。そして、医療的な手当てをすることと目撃したことを伝えることは、車の両輪みたいなもの。どちらが欠けても、車は前に進めないでしょう?」

今でもMSFへのあこがれが捨てきれていませんが、世界の不条理を少しでも和らげていくためには、「手当てすること」と「伝えること」の両方が必要だと、白川さんとのトークで改めて確認できました。お互いの立ち位置や役割を尊重し合って、協働できる道筋を探っていければ良いのだと思うのです。 

※トークイベントでの内容を一部編集し、掲載しています。 

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