この声よ、届いて……イスラム国に傷つけられたヤジディ教徒たち 心の傷を抱えて

2019年10月17日

2014年8月---。過激派組織「イスラム国」は、イラク北西部にあるシンジャル山脈周辺に住む少数派・ヤジディ教徒を襲撃した。あれから5年。今もヤジディ教徒たちは、当時の襲撃を「74回目のジェノサイド(民族虐殺)」と呼び、深い悲しみの中を生きている。

こうしたヤジディ教徒たちの姿を、2015年から撮影し続けているフォトジャーナリストがいる。米紙「ワシントンポスト」などで活躍するエミリエンヌ・マルファット(Emilienne Malfatto)だ。マルファットは、主にイラクで、紛争や紛争後の社会問題などを取材している。マルファットが撮影したヤジディ教徒たちのポートレートを使ったモンタージュ作品と共に、ヤジディ教徒たちの「声」を紹介する。 

「自分でもいつか自殺をするのではと心配です」

© Emilienne Malfatto© Emilienne Malfatto

「18歳のとき、従兄と結婚させられたんです。それがうつの始まりでした。自分の置かれた状況には次第に慣れていきましたが、どんな目にあったかは決して忘れないでしょう。結婚式の日は、私は怒りと悲しみのあまり、泣き通しでした。そこへ家計という重荷がのしかかりました。私たちは貧しく、子どもたちにも満足なことをしてやれません。おねだりされることもあるのですが、買ってやれないんです。

大虐殺の間、目にした出来事も忘れられません。あるお母さんには赤ちゃんが2人いましたが、『二人分の母乳は出ません。一人目に授乳したら、二人目は死ぬわ』と言うのです。1年ほど前ですが、4人目を妊娠している間もずっと泣いていました。自殺について、よく考えていました。夫は気をもみ、『カウラが自殺するなら、僕もするよ、なぜって君なしではいきられないから』と。それでようやく、シヌニにある病院へ行ったんです。今では、大分よくなりました。でも一人きりになるたびに、自殺のことが頭に浮かびます。自分でもいつか自殺をするのではと心配です」 

「昔はお父さんといつも一緒だったけれど」

© Emilienne Malfatto© Emilienne Malfatto

「父は武装勢力に加わって、帰ってこない。いつもひとりぼっちでさびしい。私はどこにも行かない。いつもあの部屋がある、あの家にいるから。悲しいし、友達もいない。大虐殺の前は、シンジャル山脈の南側に住んでいました。イスラム国が来たとき、みんなで山へ逃げました。しばらくそこにとどまってから、シリアへ。その後クルディスタンへ逃げた。

イラクには2016年に帰ってきました。シヌニにある病院へ行ったとき、病院にいさせてほしいと頼み込みました。家にはいたくないから」 

「拉致されたみんなを待っています」

© Emilienne Malfatto© Emilienne Malfatto

「子どもはいません。夫は大虐殺の前に亡くなりました。私は、イスラム国に拉致されました。弟のハデールも一緒でした。でも、私はつかまった20日後に逃げ出しました。ずっとハデールのことを待っています。拉致されたみんなを待っています。私の家族には、拉致された人が大勢います。帰ってきた人もいるけれど、だめだった人もいる。甥の一人はイスラム国の一員としてシリアにいます。洗脳されて名前も変え、帰ってきたがりません。

大虐殺の前は、心も体も病気とは無縁でしたが、今はたくさん薬をのまなくてはいけなくて。今にも、イスラム国がやってくるような気がするんです」 

イスラム国に子どもたちを殺された 子どもたちの肉も食卓に……

「私たちは山脈の南側、シンジャルの町に近い辺りの出身です。大虐殺の後、クルディスタンにある避難民キャンプに1年間いて、それからこの山岳地帯へ戻って来ました。このテントを住まいにしています。家族も一緒です。両親と、妻、弟、甥……。ここでの暮らしは、とても厳しいです。とにかく生活環境が悪いんです。いつも暑すぎるか寒すぎるかのどっちかなんですよ。トイレは共同だし、汚くてぞっとします。まともな仕事もありません。私は武装勢力に協力して、月に300米ドル(約3万2241円)を稼いでいます。

幸せを感じることはなく、いつもうろたえています。友達とどこかに遊びに行くことも出来ません。幸せなふりができないから。うつは本当につらい。げっそりと痩せて、自分が溶けていっているような気がします。全身に影響が出ています。物忘れもひどいんです。

見たものや聞いたこと、大虐殺についてずっと考えています。死んだ子どもたちのことも。イスラム国は子どもたちを殺して料理し、その“肉”を母親たちに出していたんです。

3回も自殺しようとしましたよ。水に飛び込んだり、銃やナイフを使ったりして。でも毎回止められました。それ以来、家族は私のことを心配しているので、悪いなあとも思っています。ことは悪くなるばかり。
薬はのみたくありません。副作用が多すぎるので。魔法の薬でもあれば……。起きたこと全てを消し去り、元通りよくしてほしいと思います。

こんな場所で暮らしていたら、良くなりたくても簡単ではありません。毎晩泣いているうちに眠っています。人生に喜びはありません。生きていても死んでいても同じです」
 

「仲間を助けたい……」ファルハの思い

国境なき医師団(MSF)が活動するシヌニ総合病院で助産師チームリーダーとして働く、ファルハは、イスラム国からの襲撃から生き延びたヤジディ教徒だ。MSFのメンバーとして活躍している。 

© Emilienne Malfatto/MSF© Emilienne Malfatto/MSF

「イスラム国がシンジャル郡に向かっているとの知らせが来たとき、地域のリーダーはみんなに『山へ逃げろ』と言ったんです。私たちは、てぶらで出発しました。そんな調子でしたから、山に長くいるわけにもいかず、翌日にはどこでもいいから、もう少しましな避難所へ移動したくなりました。移動は危険も伴います。イスラム国が全ての道路に検問所を設け、シンジャル山脈周辺の地域全体を支配下に置きました。

道中は怖い思い出しかありません。実にたびたび、やつらに呼び止められて色々と聞かれました。ある検問所に着いたときの出来事を忘れることはないでしょう。私たちは14人のグループで一台の小さな車にぎゅうぎゅう詰めで乗っていて──弟たちは車のブーツ(ゴム製の保護カバー)の上に座っていました。すると、「イスラム国」の車が近づいてきて、検問所にいる私たちに銃弾を浴びせてきたんです。後ろにいた弟たちが撃たれて、生きているのか死んだのかも分りませんでした。恐ろしい瞬間でした。私たちに追いついた奴らは、車から出て『アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)』と大声で叫びながら、武器を突きつけてきました。

父は必死になって、私たちはイスラム国から逃げているわけではないけれども、山の上では生きていこうにも食べ物も水もないから出て行くところなのだと説明しました。ありがたいことに、ちょうどそのとき、近くで戦闘が起きて他のイスラム国の戦闘員が巻き込まれていました。銃声を聞くなりやつらは私たちを解放して、すぐに銃撃の現場に向かったんです。あの戦闘に邪魔されていなかったら、私たちみんな殺されていたかもしれない。私たちはそのままクルディスタンまで行きました。

当時、私は助産師養成課程の1年生でした。クルディスタンでは、勉強を続けると心に決めました。生活環境は悪かったけれど。同胞は私の手助けを必要としていると確信していましたから。神のご加護で学業を終え、卒業しました。働いて家族を養いたかったからです。いい仕事に就いている人は家族に誰もいなかったから。それから、シヌニに産科を設置した団体があると聞いていました。応募したところ、採用してもらえました。ここへ来て仕事をすると決まったとき、家族は私のことを心配しましたが、それでも私はこの仕事を選んで仲間を助けることにしたんです。

シヌニに来た後、私は結婚し、現在はここの住民となりました。他方、家族は現在もクルディスタンにとどまっています。MSFがシヌニに来たときの求人募集に応募して、今日に至っています。MSFが運営するシヌニ病院に勤める助産師として、無償で質の高い医療を担っているのです」 

全てが変わってしまった故郷

医療通訳者のザイナも、家族で山に逃げ、イスラム国からの襲撃から逃れることができた。ファルハと同じくシヌニ総合病院で働いている。 

© Emilienne Malfatto/MSF© Emilienne Malfatto/MSF

「2014年8月14日の朝、私たちが起きたら、父が『イスラム国が山の南から来ていて、シヌニはほぼ確実に掌握されるだろう』と教えてくれたのです。すぐに食べ物と水を用意して山へ逃げました。父と祖父は両方とも残りたがったのですが、誰も納得しませんでした。口々に『私たちが行くんなら、みんな一緒。誰も後になんて残して行かない』と説得しました。

午前11時頃、山に向かって出発したのですが、途中で気が変わってクルディスタンに行くことにしたんです。一台の小さな車に13人も乗りあわせていました。逃げていく途中、戦闘や、泣いている人や、歩いて逃げている人を見かけました。どうにか避難民キャンプにたどり着いてそこにとどまりました。私の友人のマジダと家族が、イスラム国に拉致されたとの知らせを耳にしました。山に逃げられた父と弟以外、全員連れて行かれたそうです。今のところ、マジダの家族で帰ってきたのは一人だけ。マジダはイスラム国につかまったまま、自殺したそうです。

大虐殺から3年ほど経ってから、おじはシヌニに帰ってきましたが、それ以外の家族は誰も帰ってきていません。私も久しぶりに故郷に帰ってきました。私はドホークで薬学を勉強していました。最近、卒業したところです。ここで医療通訳者を募集していると聞きつけて、応募し、採用されました。故郷に戻ってきましたが、全てが変わってしまったので、嬉しくありません。生活環境も、あたりの風景も以前と同じではなくなっていて。全てが変わったんです。見知らぬ土地に来たかのようです。町の道路を歩くたびに、昔の様子を思い出します。当時、まだ人生は美しく、人びとが幸せそうに働いていました」 

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