国民の3分の1が避難生活──戦闘や襲撃から逃れてもどう生きていくのか 中央アフリカ

2021年09月08日
中央アフリカ共和国、北部の町カボにあるMSF病院の待合室で診察を待つ患者 © Igor Barbero/MSF 
中央アフリカ共和国、北部の町カボにあるMSF病院の待合室で診察を待つ患者 © Igor Barbero/MSF 

ナオディアさんのお腹に銃弾が命中したのは、自宅で寝ようとした時だった。2歳の娘と共に寝ていたベッドの横にある窓も粉々に割れた。急いで床に寝ていた父親と他の2人の子どものそばに寄り、身を守ろうとしたものの、その直後に犯人は家に火をつけた。

25歳のナオディアさんは、中央アフリカ共和国(以下、中央アフリカ)北部、チャドとの国境に近いカボ町郊外の村に住んでいた。 2020年12月以降、同国では政府軍と武装勢力の間で紛争が再燃し、ここ数カ月は各地の農村部で極めて不安定な情勢が続いている。戦闘への不安や襲撃の恐怖から多くの人が都市への避難を余儀なくされ、医療体制への影響も深刻だ。最貧国の一つである中央アフリカは、健康指標も世界最低水準にある。

村への襲撃と逃避行

ナオディアさんの村は6月23日の夜、自動小銃で武装した8人の男たちによって約1時間にわたり襲撃を受けた。この攻撃により4人が死亡、4人が負傷、15軒の家屋が焼失し、2000人いた住民のほとんどが避難した。

ナオディアさんが、家族と共に逃げ出した時の状況をこう語る。「襲撃者は私たちが死んだと思って、その場を離れたのでしょう。燃え上がる家を出て、近くの森に隠れました。体中が痛くて、ほとんど歩くことができませんでした。妊娠4カ月で銃に撃たれたのです。夫が自転車を手に入れてくれたので、夜中にカボへと移動し始めました」

ナオディアさんの住んでいた村ベルトゥヌーで、焼かれた家を調べるMSFスタッフ © Igor Barbero/MSF
ナオディアさんの住んでいた村ベルトゥヌーで、焼かれた家を調べるMSFスタッフ © Igor Barbero/MSF

村からカボまでの13キロの道のりは3時間かかった。この雨期の暴風雨で、泥道には水が溜まり穴だらけだ。「夫が子どもたちを抱え、兄弟の一人が私を抱えてくれましたが、とても苦しかった」と、カボにある国境なき医師団(MSF)の病院で手術を受けたナオディアさんは言う。「何とか生き延びましたが、私たちはすべてを失いました。自分の服も持っていません」

ナオディアさん一家や村民はいま、人口6万人ほどのカボで避難生活を送る。この町には、かつて起きた武力衝突の後に移住した人も多いが、4月以降、新たに到着する人びとが増えている。

地方に広がる情勢不安

中央アフリカでは昨年の12月下旬、トゥアデラ氏の再選をかけた大統領選の最中に、複数の武装勢力が同盟を結成し、政府への攻撃を開始した。 それまで敵対し合っていた勢力が手を結んだこの同盟は、いくつかの主要都市を一時的に制圧し、1月には首都バンギの郊外にまで到達した。しかしその後、政府軍と連合軍が各都市を奪還し、武装勢力は地方へと追いやられた。

現在、政府軍と武装勢力との衝突や、村への襲撃、強盗などが地方で頻繁に起きていて、非常に不安定な状況が続く。

避難民の住む居住区で、子どもを抱きながらシアの実をむく女性 © Igor Barbero/MSF
避難民の住む居住区で、子どもを抱きながらシアの実をむく女性 © Igor Barbero/MSF

「幼い頃から避難の繰り返し」

この8カ月間で数十万人もの人びとが家を追われ、国連によると現在、中央アフリカで避難生活を送る人の数は140万人以上。これは全人口の約3分の1に相当し、その半数は近隣諸国で難民として暮らしている。

タンギーナ・シェラさんも5月末、夫と3人の子どもと共に故郷のグムガンガ村を追われた。200人ほどいた住民はほとんどが村を去った。戦闘が増加し、政府軍が村に近づくにつれて、軍の協力者と見なされて武装勢力から報復されることを恐れたのだ。

自宅を追われ、いまはカボの避難民地区に住むタンギーナ・シェラさん © Igor Barbero/MSF
自宅を追われ、いまはカボの避難民地区に住むタンギーナ・シェラさん © Igor Barbero/MSF

「家に全てを置いて逃げました。いまは食べ物がなく、物乞いをしなければなりません」とタンギーナさんは言う。 悲しいことに、これは彼女にとって初めてのことではない。強制的に自宅を追われたのは3度目で、2007年と2012年にも起きた。

「苦しみは7歳のときから始まりました。いつも同じことの繰り返しで、紛争のために長い間、移動を強いられてきました。持ち物も畑も何もかも失いました。子どももいるのに、どう養っていけばいいか……」

タンギーナさんはいま、カボで4200人ほどの避難民が暮らす「居住区B」にいる。 ここの給水場には、赤ちゃんを背負った女性や子どもたちが集まり、その近くでは地元バンドが自作音楽を奏でている。「石けんで手を洗おう」とサンゴ語で歌い、新型コロナウイルス感染症の流行への注意を促すが、この地域でマスクを着用する人はほとんどいない。

居住区Bの給水場で水を汲む女性と子どもたち © Igor Barbero/MSF
居住区Bの給水場で水を汲む女性と子どもたち © Igor Barbero/MSF
ティーバッグを売る準備をする10代の少年たち © Igor Barbero/MSF
ティーバッグを売る準備をする10代の少年たち © Igor Barbero/MSF

子どもたちは、タイヤやプラスチックの塊で作ったサッカーボールで遊んでいる。10代の若者は売り物にする小さなティーバッグを丁寧に用意したり、炭火で肉を焼いたり。女性たちは火を焚いて、金属鍋での調理にいそしんでいる。

居住区Bは、いまではカボの他の地域とほとんど見分けがつかない。日干しレンガと草ぶき屋根でできた丸い小さな家が数百件と並ぶが、そのほとんどは何年も前からあったもの。誰かが退去すれば、すぐに新たにやってきた避難民が入居する。タンギーナさんにも、部屋が一つだけの小屋を与えられた。

居住区Bで自らの小屋の前で過ごす避難民の家族 © Igor Barbero/MSF
居住区Bで自らの小屋の前で過ごす避難民の家族 © Igor Barbero/MSF

将来への希望も望めず

すぐ近くにある「居住区C」の避難民もまた同じような境遇にある。ハワ・アーマットさんがここへ逃れたのは、首都バンギの地元で2013年にイスラム系の武装勢力連合「セレカ」とキリスト教自警集団「アンチ・バラカ」の間で激しい衝突が起きたためだった。 その時、父と兄、数人の甥を失ったという。1000人ほどの住民と共に、国際移住機関(IOM)のトラックで避難した。

ハワさんは「以前は商売をしていて、暮らしに余裕がありました。隣国チャドの首都で服や香水などを買い、バンギで売っていたのです。いまは持ち物もほとんどなく、人の家を掃除したり、薪を売ったり、小さな仕事をして生きながらえています」と話す。

つらい出来事の記憶があっても、ハワさんは故郷のバンギにいつか戻りたいと思っている。だが、それが実現する見込みはない。「私は楽観主義者ですが、どこに解決策があるのかがわかりません。子どもたちが教育を受けられずに育っていくのを見るのも苦痛です。学校に行く機会が与えられなくては、未来は開けません」

MSFは1997年に中央アフリカで活動を開始。現在はバンギ、ブリア、バンガスー、バンバリ、カボ、バタンガフォ、パウア、ボサンゴア、カルノーで13の通常プロジェクトと、1つの移動緊急対応チームを運営している。2020年後半の紛争激化以来、MSFは全プロジェクトで治療の継続に努める一方、紛争の前線であるボギラ、ボセンベレ、ブワル、グリマリ、ムバイキ、ダマラ、ボアリ、デコア、リトン、クワンゴ、イッピーで緊急プロジェクトを立ち上げた。

中央アフリカ北部、MSFが支援する保健所で子どもたちに予防接種を行う看護師 © Igor Barbero/MSF 
中央アフリカ北部、MSFが支援する保健所で子どもたちに予防接種を行う看護師 © Igor Barbero/MSF 

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