「代償を払うのは、いつも罪のない人びと」 終わりの見えないイエメン内戦、女性医師の体験記
2021年10月21日2015年、イエメン南部にある美しい都市タイズで、夢と希望を胸いっぱいに抱いて、医師としてのキャリアをスタートした女性がいる。名前はシュロク・サイード。まずは英語を習得して、それから海外の大学院に進学しよう……思い描いていた計画は、同年3月に勃発した内戦によって打ち砕かれた。
現在サイードは、タイズで国境なき医師団(MSF)の医療活動マネジャーを務めている。いまも続く内戦と自身の体験、そして終息の兆しが見えない状況で苦しむ人びとについて、思いを語った。
戦場と化した町
2015年3月のある日、戦闘機による空爆が始まり、タイズは戦場と化しました。
家のドアや窓が爆風で吹き飛ばされ、私たち家族はずっと家の中で隠れるようにして過ごしました。当時私は妊娠中だったのですが、恐怖やストレスの影響で臨月になっても赤ちゃんが生まれる兆候がなく、陣痛もきませんでした。
紛争で多くの病院が閉鎖し、酸素や医療物資不足に陥っている最中、妊娠44週目にしてようやく帝王切開で出産しました。
入院中、病室の窓から銃弾が飛び込んできました。私は術後の痛みで動けなかったので、母が生まれたばかりの赤ちゃんを連れてトイレに隠れました。目を開けると、病室の壁には銃弾の跡が残っていました。
もう一つ忘れられない出来事があります。燃料が不足していた時期、誰かが燃料を満載したトラックをひそかに私の家の近所に停めていたのですが、戦闘中、そのトラックに引火し、約300人が炎に巻き込まれたのです。たくさんの人が亡くなりました。燃え盛る火の中から聞こえた助けを求める声、恐ろしい悲鳴はいまでも頭から離れません。
戦闘が始まって1年余りがたった2016年5月、私はフーバン地区に引っ越し、MSFで働き始めました。長引く紛争によって、日常生活もままならなくなっていたからです。フーバン地区までの道のりはとても危険だったので、子どもはタイズで暮らす母に預け、3カ月に1度会いに行きました。息子に別れを告げるときは心が引き裂かれる思いでしたが、医療の現場で経験を積み、外国の大学院の進学費用を稼ぐことが、私たち家族の未来のためにどうしても必要だったのです。
分断された土地と人びと
タイズは現在戦いの前線で分断されていて、フーバン地区は反政府勢力「アンサール・アッラー」の支配下に、タイズ市はイエメン政府の支配下にあります。両地区の間には地雷や狙撃手が配置され、本来なら車で10分ほどで行ける距離なのに、いまは危険な山道を越えなければならず、車で6時間もかかってしまいます。前線の向こう側にいる友人や親戚に会いに行くこともできなくなってしまいました。
私は現在、タイズ市に戻ってMSFの仕事をしており、2人の子どもと一緒に暮らしています。でもこの辺りは治安が悪いため、外に出たら誘拐されるのではないか、流れ弾が当たるのではないかと、常に心配で散歩や公園に連れて行くこともできません。
夢をあきらめない
タイズの人びとは、自分たちとは関係のない戦争のために代償を払っています。インフレによる物価の高騰で、電気、水、医療などが手に入らず、困難な生活を強いられている人も大勢います。赤ちゃんのミルクは、以前は1200リヤル(約540円)で買えたのに、いまは5000リヤル(約2250円)もします。
タイズでは多くの人が心の不調を訴えています。長引く紛争のせいで常に不安を感じ、経済的な機会にも恵まれず、未来への希望を持てないからです。
私自身も、決して開かない扉を押しているかような無力感に襲われることがあります。でも私は決して夢をあきらめません。そして、子どもたちはきっとより良い未来を手にすることができると信じています。