キーウ生まれガザ育ち──二つのルーツを持ちウクライナで働く外科医が思う紛争とガザ

2024年02月27日

国境なき医師団(MSF)で、ウクライナとパレスチナという二つのルーツを持つ外科医が活動を続けている。ハサン・エル・カファルナ医師は、ウクライナ東部コスチャンティニウカにある、MSFが支援する病院で働く外科医だ。ウクライナの首都キーウに生まれ、パレスチナ・ガザ地区で育った。

ウクライナとパレスチナという戦争状態にある二つの地で生きることとは。そして最前線での医療とは。
ハサン医師が語る。

ウクライナ東部コスチャンティニウカの病院で外科医として働くハサン・エル・カファルナ医師 © Linda Nyholm/MSF
ウクライナ東部コスチャンティニウカの病院で外科医として働くハサン・エル・カファルナ医師 © Linda Nyholm/MSF

私は今、コスチャンティニウカの病院を拠点にしています。最前線はいつも動いていて、近づいたり遠ざかったりしています。大砲をウクライナ側が撃つ音やロシア側から撃ち込まれる音が毎日聞こえるし、郊外では爆発音も聞こえます。

簡単な手術で済む人から、複数個所の負傷を伴う爆発による外傷患者まで、あらゆる患者を治療してきました。2022年の夏は最悪でした。爆発で負傷した患者をたくさん治療したし、一度に多くの患者が運び込まれる事態も、何度が経験しました。少なくとも4回。もしかしたら、もっとあったかもしれません。もう数えていません。 

実地で向上させた技術

ウクライナで紛争が激化する前、私はこの種の負傷を治療した経験がありませんでした。当時はキーウの救急病院で働いていて、一般的な外科の症例を扱っていました。MSFに入りコスチャンティニウカに赴任すると、爆発による負傷、整形外科的な損傷、外傷など、あらゆる病態の患者を診るようになりました。最初は先任医師の補助をしていましたが、外科医が不足していたため、すぐに患者を手術するようになりました。週に5、6件の手術を手掛け、様々なことを一気に学びました。 

© Linda Nyholm/MSF
© Linda Nyholm/MSF

携帯網のない場所から運ばれる大勢の患者

深刻な状況は、突然やってきます。大勢が一度に負傷するような事態は携帯電話のネットワークがない地域で起きるから、事前に連絡を受けることはできません。たくさんの負傷者を乗せた最初の車が病院に到着し、何が起きたのか聞くことで初めて、今からもっと患者が運び込まれてくることが分かるのです。

まずは負傷者を急いで車から降ろし、救命救急部門に運びます。そこでトリアージと医療処置を始めます。複数の患者を同時に手術室に運ぶことも、よくあります。

現場は、いつも混乱します。チーム全員が走り回り、医薬品を取り寄せ、血液成分や赤血球、血漿を発注します。時には病院内でドナーを募って血液を集めなければならず、医療スタッフが献血することもあります。

心に残った患者

特に心に残っている患者さんがいます。トレツク出身の16歳の少女は、父親と一緒にバス停に立っていました。砲撃が始まり、父親は娘の体を覆って守ろうとしました。父は被弾して即死しました。娘は大腿部に大きな傷を負って大量に出血。私たちの病院に運ばれた時には、臨床的には死を迎えている状態でした。

静脈点滴ができなかったので、骨髄内輸液という、骨に穴を開けて投与する方法をとりました。気管挿管して輸液し、なんとか脈拍を確認したうえで、手術室に運び込みました。 

手術をして傷口をきれいにし、治療しました。しかし血圧が不安定だったので集中治療室に収容し、救急医と私が一晩中付き添いました。朝になり、より高度なケアができるドニプロの病院に転院させました。数日後、彼女はドニプロの病院で亡くなったと聞きました。

人が亡くなるのを目の当たりにするのは、医師という仕事上、仕方ないことです。それでも、それが特に子どもの場合は、非常に厳しいものがあります。彼女は16歳のティーンエイジャーでした。こういうことが起こると、とても深く心に響きます。

MSFの同僚医師とともに手術するハサン医師 © Linda Nyholm/MSF
MSFの同僚医師とともに手術するハサン医師 © Linda Nyholm/MSF

誰が助かるか予測できないこともあります。患者の一人に、重傷を負った55歳くらいの女性がいました。弾丸か何かの破片が右胸を貫通し、直径20センチほどの大きな傷ができていました。ただし主要な血管からはミリ単位で外れていたので、その意味では非常に幸運でした。

この女性が運ばれてきた時、私たちは正直なところ、手術には耐えられないだろうと思いました。肋骨が折れて肺に穴が開き、胸腔内に血が溜まっていました。手術後の容体は不安定で傷口に感染も起き、亡くなってしまうのではないかと懸念しました。しかし治療を続けて4回の手術を重ね、彼女は徐々に回復していきました。ちょうど1ヵ月後、女性は笑顔で退院しました。この女性が回復したことは、私たちにとって大きな驚きでした。 

外科医になりたいーガザでMSFを見かけた少年時代の思い

私は幼いころから、外科医になりたいと思っていました。それは、育った環境の影響だといえます。

私はパレスチナとウクライナの双方をルーツに持ち、キーウで生まれ、ガザのベイト・ハヌーンで育ちました。ガザでは幾多の暴力を目の当たりにしました。 何度もの侵攻が起き、多くの人が殺されました。自宅が破壊され、兵士が家に入ってくるのを目撃しました。

子どものころ、ガザでMSFの車両が走っているのを見ました。まだ小学生でMSFについて詳しくは知らなかったのですが、人びとに医療を提供する医師の集団だということは、理解していました。

ガザ南部ラファで12月、MSFが支援する病院に運び込まれる少女 © MSF
ガザ南部ラファで12月、MSFが支援する病院に運び込まれる少女 © MSF

 私の両親は今、ガザに閉じ込められ、なんとか脱出しようとしています。毎朝起きて最初にすることは、両親から何か知らせが来てないか、携帯電話をチェックすることです。とても大変な状況です。電気もなく、食べ物もあまりなく、避難してきた人でいっぱいの家で過ごしています。私は毎朝目覚めるたびに、家族がまだ生きていることを願うしかありません。

医師として感じる大きなやりがい

戦争の中にいて、身の安全を完全に確保することはできません。次に何が起こるか分かりません。この病院が攻撃されるかもしれない。しかし、ここで働くためには、毎日その不安をゴミ箱に捨て、仕事に取りかからなければなりません。MSFの安全管理担当者は優秀ですし、避難計画もあります。だから、私は彼らに全てを任せ、医療という自分の職務に向き合い続けます。

MSFがここで行っている活動は重要です。

この病院だけでも、ケアの改善などを通じて貢献を実感することができます。しかし、私にとって最も感動的なことは、仕事を通じて人びとの人生に良い影響を与えることができるという点です。患者さんを治療し、その多くが回復して再び歩き始める。その姿を見ることは、医師として大きなモチベーションを与えてくれます。 

追記


ハサン医師の両親と兄弟は2023年末にガザを離れ、現在はウクライナで暮らしている。 

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