「彼は静かに海に消えた」 欧州を目指し、命がけで地中海を渡る10代の少年たち
2023年11月07日ヨーロッパを目指す難民や移民の人たちにとって、いまや地中海は、世界で最も危険な「海の国境」と化している。その地中海で活動を続けているのが、国境なき医師団(MSF)の捜索救助船ジオ・バレンツ号だ。そのスタッフの1人であるステファン・ ペジョビッチが語った。
49人を救助、しかし……
ボートに乗った49人が地中海で6日間にわたって漂流していました。大まかにいえば、マルタ島の南東あたり、イタリアとリビアの中間です。49人全員が、MSFのジオ・バレンツ号に救助され、無事に乗り移りました。
ただ、彼らによると、出航した時は50人いたが、1人いなくなったというんです。「彼は静かに消えていった。そして、無意味な死ではなかったのだ」と──。
ただ、彼らによると、出航した時は50人いたが、1人いなくなったというんです。「彼は静かに消えていった。そして、無意味な死ではなかったのだ」と──。
絶望と無力感を繰り返す
彼らによると、船旅を始めてから2日後、サンドイッチと飲料水が尽きたそうです。彼らのほぼ全てがティーンエイジャーで、その多くが18歳にも届かない年齢です。生き延びるたびに、彼らはしかたなく海水を飲み始めた。
鉄でできたボートは、夏の日光のせいで、赤く熱を帯びてきた。彼らの手足は、焼けるような痛みを感じるようになり、あざもできるようになった。昼間はひどい暑さに耐え、夜間はひどい寒さに耐える苦難の旅です。50人もの人間が身を寄せ合っていましたが、彼らそれぞれの心には、恐怖しかなかった。
絶望と希望を繰り返し、絶望と無力感を繰り返すという旅を何日間も続けました。
海の向こうに消えたアベ
漂流して6日目、50人のティーンエイジャーたちは半死半生の状態でした。疲れ果て、食べ物に飢え、唇は日に焼け、喉はカラカラだった。そこに、水のボトルが海上に浮かんでいたというんです。ある2人が海に飛び込んで、そのボトルを手に取ろうとしました。
しかし、海流が強くて流されそうになった。そこで、さらに別の2人が救助のために海に飛び込みました。その1人がアベという名の若者でした。1人はボートに戻れましたが、ほかの3人は、海の中で海流に引き離されまいと互いにつかまりあう状況になりました。海流が3人を押し流そうとしたその時です。
アベの姿が消えたのです。
他の2人は、そのあと発見することができたのですが……。
アベは、自分の意思にしたがって為すべきことを為した。アベは、仲間のために命を賭したんです。49人は、MSFのジオ・バレンツ号に乗り込む際、集まって祈りを捧げました。
その祈りは、アベを失ったことへの悲しみゆえか、自分たちが苦難を経てここまで来たことへの思いなのか、それは私には分かりません。
彼らを救出してから6日目、いま私はこう思います。アベは人としての正しさを示していったのだと。仲間のために自分の命を賭けられる愛に満ちた人間だったのだと──。
故郷から6000キロの道のり
彼らの大半は、西アフリカの西岸にあるガンビア共和国の出身です。そこから何カ月も何年もかけてアフリカ北部のリビアまでたどり着き、そこからさらにアフリカ大陸北端のチュニジアにたどり着いた。その距離は約6000キロ。ポルトガルのリスボンからイランのテヘランまで歩くようなものと言えば、分かりやすいでしょうか*。彼らは、リビアかチュニジアで欧州行きの船に乗るチャンスに賭けていたのです。
*東京からインドの首都デリーの直線距離(約5800キロ)と同程度
*東京からインドの首都デリーの直線距離(約5800キロ)と同程度
その際、彼らの1人は、リビア当局に身柄拘束されて、半年間ほど収容されていたそうです。罪は、サハラ以南アフリカの出身者であることでした。彼はパンだけ与えられる日々を送ったあと、6カ月後に友人と2人で脱出しました。その際、友人は銃で撃たれたそうです。
彼自身のほうは、手を差し伸べてくれた現地の人たちのおかげで、なんとか逃走に成功しました。彼は、サッカーでお金を稼いで、当時助けてくれた人びとに恩返ししたいそうです。それが彼の夢なのです。
父と母が教えてくれたこと
私たちMSFスタッフは、船の上でちょっとした「理髪店」を定期的に開いているんです。船旅を続ける彼らを元気づけようということでね。ある少年も船上で散髪しました。私は「髪型が左右対称じゃないね」と彼をちょっとからかい、2人で大笑いしました。その少年が話してくれたことがあります。
彼は、男らしくあること、人間らしくあることの大切さを父親から教えられて育ってきたという。母親からも、他人から何かを盗むような真似をしないこと、正直に汗をかいて働くことの大切さを教えられてきた。
額の汗をぬぐいながら、母親への愛情を語ってくれました。母親は、毎日のように、スクールバスのバス停まで何キロも通学路を一緒に歩き、学校が終わった後も、バス停まで迎えにきてくれたそうです。母親は、彼に満足のいく食生活と教育を与えるために、懸命に働く毎日だったといいます。
彼にとって、母親は母親であるというだけで恋しく思う存在なのです。彼の故郷である小さな町や友人たちを懐かしく思うのと同じでしょう。祖国を離れたり失うことはつらいことです。
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