夫と息子をエイズで失いホームレスになった女性 HIV患者に生きる希望を伝える

2019年07月29日掲載

自身も治療を受けながら、患者の仲間に健康教育をするマー・ウィン・ウィンさん(仮名) © Minzayar Oo自身も治療を受けながら、患者の仲間に健康教育をするマー・ウィン・ウィンさん(仮名) © Minzayar Oo

マー・ウィン・ウィンさん(仮名)はエイズで夫と幼い息子を亡くした。自身もHIV陽性。ミャンマーの都市ヤンゴンでホームレス生活と貧困に耐えながら、国境なき医師団(MSF)が運営する診療所で治療を受けて、生き抜いた。現在は患者仲間に健康教育とカウンセリングを提供する「ピア・サポーター」として働いている。彼女が今、HIV/エイズの患者たちに伝えたいこと。それは「絶対にあきらめないで」という励ましの言葉だ。 

治療を受けて変わった人生

家族をエイズで失い、住む家も失った体験を語るマーさん © Minzayar Oo家族をエイズで失い、住む家も失った体験を語るマーさん © Minzayar Oo

私は現在、ピア・サポーターとして活動し、HIV/エイズとともに生きる他の人びとのカウンセリングや健康教育を行っています。この仕事に就く以前、抗レトロウイルス薬(ARV)治療を受けるまでの私の人生は悲惨でした。

2000年、夫が28歳で亡くなった時、私は妊婦でした。息子もHIVに感染して生まれ、具合が悪くなると病院に連れて行ったものです。息子が栄養治療施設で処置を受けている間、私はわずかばかりのお金を作るために絵を描いて、それを売っていました。息子は結核に罹って、ひどく痩せていました。他に支えてくれる家族もおらず、息子も結局、亡くなりました。まだ4歳だったのに……。当時はARV治療が受けられなかったんです。夫も息子も亡くし、私はひとりぼっちで収入もなく、住む場所もありませんでした。 

マーさんの治療中、住居の小屋を無料で貸しているダウさん © Minzayar Ooマーさんの治療中、住居の小屋を無料で貸しているダウさん © Minzayar Oo

HIVの私に、親類は関わりたがらず、家で水を飲むことさえ許してもらえませんでした。両親はとっくの昔に亡くなっていました。兄弟姉妹はいますが、それぞれ自分たちの家庭があり、私がHIVに感染していると知ると家に招いてくれなくなったんです。最終的に、ある友人のご家族が小さな離れに住むことを許してくれました。パズンダウン川の向こう岸、ヤンゴンのタケタ郡区です。食べ物を買うお金もなかったので、日中は歩いて約45分離れた仏塔に通い、一日中そこにいて、マンゴーの木から落ちた実を集めたり、仏塔の境内の公共用の水つぼから水を飲んだりしていました。供えられた食べ物をいただくこともあれば、物乞いをしなければならないこともありました。寺院の残り物をもらうために、他の貧しい人たちと一緒に並んだこともあります。食べ物が全く手に入らない日もありました。その時のことを思うと、今でもつらくなります。

私は日に日に具合が悪くなって、CD4の値は14まで下がりました(CD4リンパ球細胞はHIVによって破壊されるため、HIV感染症が進行すると数が減る)。ヤンゴンのラインタヤ郡区にあるMSFの診療所に行ったのも、治療を受けるためでした。MSFには息子の治療中に宿泊場所を用意してもらったことがあったんです。ただ、私自身の治療は、すんなりとはいきませんでした。とても多くの人がARV治療を求めていて、MSFもその全てを治療することはできなかったんです。私はもうだめだと思いました。手に入った薬は抗生物質だけ。その頃には、私の体調は目に見えて悪化していて、全身に潰瘍ができていました。小銭を稼ぐために時折、近隣の家庭の洗濯をしていたのですが、そんな外見のせいで依頼もされなくなりました。自分は死ぬんだ、と思いましたし、川に入って自殺することまで考えていました。 

ヤンゴン市内にあるMSFのHIV診療所 © Minzayar Ooヤンゴン市内にあるMSFのHIV診療所 © Minzayar Oo

MSFで治療をするためには、事務的な問題もありました。私はその頃、どの郡区にも住民登録をしていなかったんです。絶望のあまり、シュエグ・イェクタという寺院で出家し尼になりました。当時の私は死の床にあったといっていいでしょう。あるとき、MSFのあるお医者さんから、「医療記録を入手して、タケタ郡区のMSF診療所に治療を受けにいらっしゃい」と勧められました。衰弱していて、自分では医療記録が取れなかったので、人に頼みました。

MSFの治療はまず結核からでした。私は咳が多く、夜になると熱が出て、疲労を感じ、全身に潰瘍ができていました。タケタ郡区での治療を最初に勧めてくださった先生が、私に結核薬を投与する担当でした。MSFは私の肺を検査し、診療所に行き来するための交通費も肩代わりしてくれました。私はタケタ郡区の小さな竹づくりの離れで暮らしながら、結核の治療を始めたんです。投薬の期間は9ヵ月。その後、HIVのARV治療が始まりました。 

MSFのHIV診療所でカウンセリングを受け、薬を受け取る患者 © Minzayar OoMSFのHIV診療所でカウンセリングを受け、薬を受け取る患者 © Minzayar Oo

結核の治療中に、心臓の異常とぜんそくにも襲われ、市内にあるウェバギ病院に入院しました。ちょうど、ミャンマーで新年の到来を告げる恒例のティンジャン祭の頃です。受け入れられた先はHIV病棟でした。私がHIV陽性であることは病院側も把握していたからです。後になって友人が看病に来てくれましたが、最初は一人きりでした。病院で患者が1人また1人と亡くなっていくのを見て、再び自分の死を考えるようになりました。

病院に食事の世話をしてもらい、MSFに必要な薬の購入費用を賄ってもらいました。死にたくない、と思いました。その頃には結核治療の効果が出て、体力も戻り始めていたんです。収入源を増やすために、他の患者の洗濯も手伝いました。お金を稼ぎたかったのは、「生きたい」と思っていたから。亡くなった方のご遺体が台で運ばれていくところを目にして、私の番が来るのはいつだろうと考えたりもしました。回診に来た先生方には、仏陀への祈願を促されました。処方されたのは吸入薬の他、肺の粘液の解消を助ける注射薬です。洗濯で稼いだお金は、バナナなどの滋養のある食べ物に使いました。そのうちに、どうしても退院したくなりました。毎日、遺体を目にするのはあまりにもつらかったんです。

私の退院希望は受け入れられ、川沿いの離れに帰り着くと、瞑想が習慣になりました。病気のことを忘れたかったからです。「時が来たら、死はやってくる。それまでは毎日を大切に過ごそう」と自分に言い聞かせました。 

HIV患者は定期的に抗レトロウイルス薬を服薬する必要がある © Minzayar OoHIV患者は定期的に抗レトロウイルス薬を服薬する必要がある © Minzayar Oo

MSFで治療を始めると、CD4値が改善しました。定期的に治療を受け、医師の先生方もとてもよくしてくださいました。いつもそばで支えてくださったんです。

2006年ごろには体調も良くなり、HIVとともに生きる人の集まりに参加するようになりました。毎週日曜は、「フェニックス」という団体が主催する患者の集会に出席し、その後、国際保健団体に就職しました。今は性産業従事者の仕事場となるカラオケ店、マッサージ店、性風俗店、ナイトクラブなどを訪れ、HIV/エイズの予防と治療について話をしています。そこでお願いするのは、検査を受けることと、必要があれば治療も受けること。それから私の体験談で、どんな風になっても望みは持てるんだと感じてもらい、感染で気落ちしないように励ましています。

今は、ラインタヤ郡区に新居を見つけました。定期的にARVを服薬しながら、普通の人と同じように過ごしています。命ある限り、仕事も続けるつもりです。衣食住の心配がなくなり、健康を取り戻して自立できるようになったんです。 

関連情報