阪神・淡路大震災から25年 MSF緊急援助活動の記録

2020年01月17日

6400人を超える犠牲者を出した阪神・淡路大震災から、1月17日で25年。国境なき医師団(MSF)は、震災翌日の18日から緊急援助を開始し、水や毛布などの物資の提供のほか、無料診療所での診察を行った。

いま世界各地で活動するスタッフの中には、この震災と深いつながりを持つスタッフも少なくない。自分自身が被災した経験を活かせるのではないか——、ある看護師は、そんな思いを持ってネパール大地震の緊急援助に参加した。また、震災直後の神戸でMSFが援助活動を行ったことを知って、MSFの海外への活動に参加する決心がついたと話す神戸出身のスタッフもいる。

震災から25年にあたり、当時の報告書から被災地での活動を振り返る。
 

写真提供:神戸市
写真提供:神戸市

MSFの緊急援助活動

■1995年1月18日
救援活動を開始。MSF日本に登録された医師、看護師全員と連絡をとる。都合のつく医師、看護師から、西宮、神戸での医療活動に入る。

■1月19日
MSFの医師が神戸の甲南病院で診療を開始する。

■1月20日・21日
豊田、東京、大阪を出発したトラック3台が、毛布600枚、米5トン、チョコレート200キロ、携帯用ガスボンベ62個、食糧など、緊急に必要な物資をYMCAに届ける。

■1月23日以降
大阪のボランティア2名が、1000人の被災者を収容している本山南小学校で活動を続ける。

■1月28日以降
長田区の仮設診療所で、医師1名、看護師2名のチームが交代で診療を続ける。

※1995年の活動報告書より抜粋・編集
 

写真提供:神戸市
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緊張と不安で足が震えた惨状 ——ある看護師の記録

生まれて始めて見るガレキの惨状に言葉を失いました。と同時に、これだけの大きな被害を受け、精神的、身体的ダメージが強いであろう人びとに対し、自分に一体どんな援助ができるのか、緊張と不安で足が震えました。

 
避難所での医務室の常設は、傷病がある無いにかかわらず、24時間医療班がいる、というだけで安心感を与えることができたのか、非常に喜んでもらえました。
 
避難所生活は、プライバシーが確保できず、生理的欲求すらも十分に満たされないため、多大なストレスとなり、様々な身体的症状を引き起こしていました。特に、高齢者、障害者、乳幼児、慢性疾患を持つ人などの社会的弱者にとっては、医・食・住のすべてが自分のニーズにあったものを選択できないという厳しい状況にありました。

写真提供:神戸市
写真提供:神戸市

このように生活自体に苦痛を強いられている上、家や財産までも失った人たちへの、精神的サポートを中心とした健康管理、公衆衛生管理が私たちの役割でした。

 
蛇口をひねっても水がでない、食べたい物が食べられない、風呂は勿論顔も洗えない不便さを経験し、普段の生活がいかに幸せなものかを改めて感じさせられ感謝する気持ちになれました。
 
これらの経験から、常に自己の身体的・精神的管理、災害時の冷静な判断、器材の創意工夫による対応、そしてこれらを総合した方式で適切な行動ができるような訓練の必要性を痛感しました。
 
※1995年報告書より

被災者救援活動に参加して ——ある看護師の記録

私が新長田勤労市民センター救護所に参加したのは、緊急医療から復興医療へのちょうど過度期にあった3月27日以降のことで、区内の医療機関もおよそ85%は再開されていました。

 
長田保健所の方針で4月9日まで、所定の救護所以外に3カ所の避難所を巡回しましたが、被災者の方々は心身とも過酷な状況下で3カ月も過ごし、住居、仕事、家族、生活上の様々な問題を抱え、不眠、肩こり、頭痛、高血圧とストレス性の症状が目立ちました。このような問題を持つ被災者の方々を訪問し、かかり付けの医師や適当と思われる地域医療機関につなげていくのが主な活動内容でした。
 
4月9日、新長田市民センター救護所を閉鎖するときには、1月~4月までの救護活動に対し、大勢の被災者の方々から数々の感謝の言葉をいただきましたことを、声を大にして皆様にお伝えします。

写真提供:神戸市
写真提供:神戸市

その後、長田保健所のリクエストもあり、新長田駅から1キロほど南下したところにある南駒栄公園でテントを張って避難していた日本人被災者およそ100人、ベトナム人被災者およそ150人を対象に、健康調査、保健衛生調査及びアナウンス活動を3週間余り行いました。

 
私が長田を後にした5月16日、新長田勤労市民センターには、まだ207人の被災者の方々が避難所生活を余儀なくされていました。長田区全体では1万人以上が避難所で暮らしている状態です。
 
仮設住宅の絶対数が足りないこと、空いている仮設住宅があっても遠すぎて生活全般に大きな支障がでてしまうこと、5人以上の家族では狭すぎることなどがその原因です。見知らぬ土地で人知れず仮設住宅の中で亡くなった老人もいます。
 
義援金の支給も5月16日現在、全壊全焼世帯でも24万円しか出ていません。職業安定所では10人の求職者に対し1人しか就労できていません。神戸の復興はまだこれからなのです。
           
※1995年報告書より

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