エジプト:「移動診療」がつなぐ国民とスーダン難民──医療アクセスを支える“地域の連帯”とは
2025年12月12日
現在、約150万人のスーダン難民がエジプト国内で暮らしているとされる。だが、慢性疾患や心の不調を抱えながら、受診の手段や費用の壁に直面している人びとも多い。
その一方で、医療アクセスは難民だけでなく、エジプトの国民にとっても深刻な課題だ。
国境なき医師団(MSF)はこの1年間、地域の住民・団体と連携を深め、アスワン県内で移動診療を続けている。必要に応じて他団体への紹介、社会的支援も提供しながら、誰もが医療を受けられる体制を目指している。
戦火を逃れた150万人
その片手には国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の登録証、もう片方の手には飲み終えた薬の空き袋が入った小さなビニール袋を持っていた。声をかけると、「この場所を訪れるのは今回で3回目です」と話してくれた。
男性の名前はハーレドさん(仮名、61歳)。元々はスーダン中部のジャジーラ州で暮らしていたが、2023年4月にスーダンで内戦が勃発。故郷からの避難を余儀なくされ、国境を接するエジプト南部アスワン県に逃れてきたという。
県都のアスワン市から北に約40キロのダラウ村で、ハーレドさんは親族たちと暮らしている。ここに定期的にやってくるMSFの移動診療に、慢性疾患の治療を受けるため通っているのだ。
ハーレドさんは目に涙を浮かべ、こう声を振り絞った。
スーダンでは何不自由のない生活を送っていたので、離れるのは本当につらかったです。しかし、いまのスーダンには医療がなく、出るのが唯一の選択肢でした。私のような高齢者は、医療なしでは長く生きることができないのです。いま望むのは、いつか故郷に戻って残りの人生をそこで過ごすことだけです。
スーダンからエジプトに逃れてきた男性 ハーレドさん(仮名、61歳)
移動診療で医療アクセス改善
アスワン県は、多くのスーダン難民がエジプトで最初にたどり着く場所であり、保護や食料、医療といった人道援助が最も必要とされる中継拠点となっている。しかし、地元の病院を利用するのは経済的にも、手続き的にもとても難しいのが現実だ。
そこでMSFは2025年1月から、県内5カ所で移動診療を続けてきた。地元の団体「オム・ハビーベ財団(OHF)」と協力しながら、ダラウを含む各地を転々としている。
移動診療の目的は、医療へのアクセスを改善することで、既存の公的な医療体制の不足を補うことだ。
これまでに、1)一般診療7265件以上、2)非感染性疾患(NCD)診療6600件以上、3)心のケア1470件以上、4)ヘルスプロモーション(健康教育)2440回以上──を実施してきた。
MSFとOHFは、医師・看護師・心理士・ヘルスプロモーター(健康教育の担当者)で構成する合同チームを結成。毎日朝に各地を訪れて、医療を受けられないスーダン難民やエジプト人の地元住民に基礎医療を届けている。
住民と進める支援
エジプト人とスーダン人はアスワン県で共に暮らしているものの、医療アクセスを巡るニーズや行動は大きく異なる。
例えば、スーダン難民には所持品をほとんど持たずに避難してきた人びとがいる。法的な地位が曖昧なままだと、周りから暴力的な扱いを受けるかもしれないという不安から、移動や受診そのものに委縮してしまう場合が多い。
法的に難民登録されているハーレドさんでさえ、移動を最小限にとどめている。近年、増えている嫌がらせやスティグマ(社会的な偏見)を恐れているためだ。
ダラウでは歓迎されているし、地域の人たちはよく接してくれています。でも、個人レベルでは嫌な出来事が起きることもあり、そういうときはやはりつらく感じるものです。
スーダンからエジプトに逃れてきた男性 ハーレドさん(仮名、61歳)
MSFエジプトのヘルスプロモーション活動マネジャー、モーゼス・ルハンガはスーダン難民の心のケアの必要性についてこう強調する。
内戦から逃れるため家を捨てるしかなかった経験は、心の健康にも深刻な影響を与えます。不安、抑うつ、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱える人がとても多いです。さらには、故郷のスーダンや、エジプトに逃れる途中で経験した過酷な出来事、そして先を見通せない現在の生活。こうした背景が複雑に重なり、精神的な不調につながっているのです。
MSFエジプトのヘルスプロモーション活動マネジャー モーゼス・ルハンガ
こうした複雑な状況を想定し、MSFとOHFは活動を始めた当初から「地域社会の主体的な関与こそが成功の鍵」と考えていた。
いくら移動診療をしていても、地域社会の協力がなければ、支援を必要とする人びとにどんな需要があるのか把握しづらいためだ。
そこでMSFとOHFは、住民と医療者をつなぐ役割を担う「地域の協力者」と連携して活動している。
具体的には、エジプト人については地域の市民団体と連携し、スーダン難民には地域のリーダーやコミュニティ支援員と協力している。定住する人びとはもちろんのこと、移動を続ける人びとにも医療が届くようになった。
経済的負担が阻む受診
活動をする中で、エジプト人、スーダン人のどちらにも共通する最大の障壁があった。それは「経済的負担」だ。特に、医療機関までの交通費や薬代の支払いが難しいケースが多い。
割合はスーダン難民の方がまだ圧倒的に多いが、生活費の高騰によって移動診療を頼るエジプト人の患者も増えてきている。
7人の子どもを育てるエジプト人の母親、ヘバさん(仮名)もその一人。約4年前から糖尿病と高血圧の治療を受けており、医療費を支払いながら家族の食費をまかなうことは大きな負担だった。
2025年に入ってMSFとOHFの活動が始まってからは、移動診療を利用してきた。
この日は、数日前からせきが続いている息子のマゼンさん(13)と一緒に来院。ヘバさんの糖尿病の定期受診日で、「マゼンさんも診てほしい」と思い連れてきたという。
ヘバさんは移動診療の取り組みに対し、感謝の言葉を口にする。
エジプト国民として公的医療サービスを利用することはできますが、ここでは薬をすべて無料で受け取れます。薬局で薬代を払わないだけでも、家族の生活費に回せるお金がわずかに増えて本当に助かるのです。
7人の子どもを育てるエジプト人の母親 ヘバさん(仮名)
“医療”だけじゃない移動診療
スーダン難民のアリヤさん(仮名、40歳)さん。母国の内戦勃発後、故郷にとどまろうと9カ月間は耐えしのいだが、状況が想像以上に深刻化して国外へ避難。水や食料がないなか何日も砂漠を歩き、寒い夜を乗り越えて安住の地を探し続けた。
現在は、アスワン市から南に約30キロ離れたカルカル村に身を寄せ、夫と日雇いの仕事をしながら2~14歳の子ども3人と暮らす。
ある日、4人目の子どもを妊娠していることが分かった。出産費用はなかったが、「ここなら産むことができる」と初めてMSFの移動診療を訪れたという。
しかし、この移動診療では分娩(ぶんべん)の対応をしていない。そこでMSFの担当者がアリヤさんに必要な医療機関を紹介・手配し、移動費も含めて支援を受けられることを説明した。
さらに、3人の子どもが移動診療を利用することができたうえ、そこで開催している子ども向けのグループ活動にも参加を始めた。いまは新しくできた友人と遊ぶ時間を楽しめている。
アリヤさんは安心した表情を浮かべてこう話す。
自分には出産のための費用を払うお金がなかったので、移動診療で手配をしてくれて本当に安心しました。また、子どもたちが遊んでいる姿を見ると、私も幸せな気持ちになれます。こうした活動は特に心の面で子どもの助けになっていて、心から感謝しています。
スーダン難民の妊婦 アリヤさん(仮名、40歳)
このように、移動診療で対応できない分野を必要とする患者に対しては、MSFの看護師が外部機関への紹介を担当している。アリヤさんのように二次医療を必要とする患者だけでなく、保護、金銭的負担、社会サービスなど、医療以外の支援を求める人びとも少なくない。
この紹介サービスは2025年9月に始まったばかりだが、すでに80人以上もの患者を他団体へ紹介しており、さらなる支援を求める人の多さが浮き彫りとなっている。
こうした支援が成立しているのは、コミュニティ支援員の協力による部分が大きい。受け入れ側の地域住民と難民の連帯、そして組織間の連携の強さが、多くの人びとの苦しみを和らげる力となっている。




