ある日突然、粉々になった骨 「また自分の足で歩ける」絶望を希望に変える力

2018年09月27日

義足を装着して笑顔を見せるステファニーさん義足を装着して笑顔を見せるステファニーさん

情勢不安が続く中央アフリカ共和国で、国境なき医師団(MSF)は負傷した人びとへの外科治療を行っている。しかし手術が成功しても、後遺症を負うと退院後の生活に支障をきたす。そこでMSFは首都バンギのシカ病院に術後ケア施設を設置し、リハビリテーション医療や心のケアに取り組んでいる。

手術を乗り越え、リハビリに取り組む患者たちは「手足が動かせるように」「将来を考えられるようになりました」と感謝の気持ちでいっぱい。

一日も早い社会復帰を目指して——理学療法士と患者が一丸となり、前を向いて歩みを進めている。

襲撃や事故で足を失い、絶望の淵に

ステファニーさんは2017年4月、バンギの町をバイクタクシーで移動中、自動車と衝突する大事故に巻き込まれた。シカ病院の救急外来に搬送されたが、粉砕骨折した右足は切断するしかなかった。 

復帰までは遠い道のり /ステファニーさん(27歳)

2児を育てるシングルマザーでもある
ステファニーさん2児を育てるシングルマザーでもある
ステファニーさん

「足を失うなんて論外」——そう思っていましたから、最初は切断を拒否しました。その後、どうやって暮らしていけばよいのでしょう?でも、お医者さんが見せてくれたレントゲン写真に、文字通り粉々になった骨が写っているのを見て、他に打つ手はないのだと悟りました。

手術後に目覚めたときは、本当につらかった。悲鳴を上げて涙を流し、食べ物も受け付けませんでした。病院で手足を切断した他の患者さんたちとの集会に参加して少しずつ落ち着きを取り戻し、現状を受け入れられるようになっていきました。シカ病院には4ヵ月入院しました。切断部の治りが悪かったので、また手術を受けなくてはならず、義足をつける時期も遅れたんです。

リハビリはすごく長かった。車椅子から始めて歩行器、ステッキと変え、その後やっと松葉杖に移れました。足のことで引け目を感じていましたから、退院するのはすごく不安でした。ほとんど家に閉じこもり、外出するのは理学療法に出かける時だけでした。新鮮な時間でした。ここでは、同じ境遇の仲間が、からかいあったり、お互いに面倒をみたりしたりしているんです。

2ヵ月前、ようやく義足が届きました。本当にほっとしました。また足が持てると……。傍目にはそれと分からないので、以前ほど他人の視線を感じません。また教会にも行き始めました。
 
(自身が営んでいる)串焼きのお店も早く再開できることを願っています。そこまでこぎつけるのに、あと1年以上かかるでしょう。まだまだ長い道のりです……。

建設業で働くザカリアさんは4月8日、友達と出かけた際に若者のグループに手投げ弾を投げつけられた。国際連合平和維持軍(MINUSCA:国連中央アフリカ多面的統合安定化ミッション)が武装解除している間の出来事だった。8日と翌9日にかけて、数十人の負傷者がシカ病院に入院。ザカリアさんの状態は特に深刻だった。両足に開放骨折があり、左足は切断を余儀なくされた。 

前向きでいれば、どんな困難も乗り越えられる/ ザカリアさん(25歳)

苦境にあっても、ザカリアさんは
笑顔を忘れない苦境にあっても、ザカリアさんは
笑顔を忘れない

この病院に到着したとき、ほとんど意識がありませんでした。医師から「足を切断する」と伝えられたとき、すぐに悟りました——他に手立てはないと。義足をもらえる可能性があると聞いて、安心しました。

しばらくの間は切断部が治るのを待たなければなりません。片足で立つ方法も覚えなければ。バランスをとるのが一番難しいんです。

1ヵ月半前に退院し、それからは週2回ここへ来て包帯を替え、リハビリを受けています。理学療法士は色々課題を出してきます——私が早く車椅子を卒業し、杖を使って歩けるようにと。でも、なかなか自信が持てずにいます。 

私は他の患者たちから、半ば冗談で「ボス」と呼ばれているんです。みんなに話しかけ、いつもハツラツとしているから。ただ、時々もどかしくなります。義足を付けて再び歩けるようになり、建設の仕事を再開したい。いつか素敵な女性と結婚することも……。

小売店を営むアルーンさんは、ラマダン(イスラム教の断食月)の期間中、モスクで日没のお祈りを終え帰宅していたところを男2人に刺され、バイクを強奪された。 

将来を考えるきっかけに/アルーンさん(28歳)

腕の可動域を徐々に広げていく腕の可動域を徐々に広げていく

27日間をシカ病院の集中治療室で過ごし、その後10日間を内臓外科で観察を受けながら過ごしました。刺し傷が何カ所あったのか分かりませんが、3回手術が必要だったのは確かです。手術していなければ、死んでいたでしょう。

胸郭と肺のダメージが大きかったため、呼吸のリハビリを中心に取り組みました。右腕は最初、傷のせいで数センチ以上持ち上げられませんでしたが、理学療法士のサポートで少しずつ動かせる範囲を広げています。

この病院のおかげで、気落ちせずに平静さを保てました。事件がきっかけで、妻や2人の子どもたちの未来のために何ができるか考えるようになりました。バンギで生まれ育ちましたが、もう安心できません。他の場所は全く知らないのですが、また一からやり直しだとしても、絶えずおびえながら暮らすよりも、ここを出て行く方がいいと考えています。 

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