国際女性デー2012:コートジボワールで紛争地に取り残された妊婦たちを救う
2012年03月08日コートジボワールでは、2010年10月の大統領選挙の結果を巡って内紛が起こり、多くの人びとが命の危険にさらされました。中でも妊婦の置かれた状況は過酷なものでした。激しい紛争地となったアビジャンでは、ほとんどの医療施設が閉鎖され、医療スタッフは他の地域へ避難しました。産婦人科の救急医療が必要な妊婦を残して……。国境なき医師団(MSF)は2011年2月、アビジャンのアボボ地区で緊急医療活動を始めました。緊急対応コーディネーターのキャロリン・セガンが当時の状況を振り返ります。
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戦闘を避けるため、アビジャンでの活動は病院の敷地内に限定されていました。その状況でMSFは2つの危機に直面しました。戦闘の負傷者が相次いで運ばれてくる中、安全な場所を求めて出産間近の妊婦も数多く来院し、収容能力が限界に達したのです。MSFが立ち会った分娩は約2カ月で1400件にのぼり、ときには1日に80人以上が出産しました。
妊婦・負傷者が同時に集中、院内に銃弾も

つつある
すべての医療施設が閉鎖されたアボボ地区では、MSFの緊急医療活動に対して多数の負傷者が搬送されてきました。救急処置室(ER)は患者でいっぱいになり、私たちはERの外の床の上で救命救急活動を行わなければいけないほどでした。同時に、産科病棟には出産間近の女性が多数押し寄せました。複数の基礎医薬品が不足し、状況は困難を極めました。
産婦人科の緊急医療と負傷者の治療の両立は本当に大変でした。活動を始めた当初、手術室は1室しかありませんでした。もう1室を後から設置したのですが、それでも受け入れ態勢は不十分で、治療する患者に優先順位をつけざるをえませんでした。ひどいときには、帝王切開が7~8件あり、さらに負傷者の外科手術と手当を行わなければならないこともありました。
しかも、病院周辺の治安状態は最悪でした。病院にはたびたび武装兵が押しかけて来ました。彼らをなだめ、病院から退去するようにお願いする場面が何度もありました。また、流れ弾が病院内に飛んでくることもありました。
妊婦が銃弾を避けながら各地のチェックポイントを通過し、病院までやって来るのはあまりに困難です。そのため、ほとんどの女性は自宅で出産するしかありませんでした。中には手遅れになってから病院に到着し、亡くなるケースもありました。
ただ、当時のアボボ地区で妊娠・出産に関する合併症に対応できる能力を持っていたのは私たちだけでした。MSFの活動がなければ、さらに多くの妊婦が亡くなっていたことでしょう。