海外派遣スタッフ体験談

海外の医師たちとの出会いが財産に

城倉雅次

ポジション
整形外科医
派遣国
ナイジェリア
活動地域
ポートハーコート
派遣期間
2009年11月~2010年1月

QなぜMSFの海外派遣に参加したのですか?

今回ポートハーコートは2回めです。1回めの報告のときに書いた、昔パキスタンの辺境で医者のまねごとをして味わったトラウマも大きな理由ですが、もともと物心ついた頃より海外、特に途上国に漠然とした憧憬がありました。

海外は、大学のときのパキスタンが最初だったのですが、その後も、キリマンジャロ登山で訪れたアフリカや、シルクロードをたどった中国、卒後10年以降ほぼ毎年夏休みに放浪したインドと寄り道で訪れたタイ、職場を変わるたびヒマラヤをトレッキングしたネパールなどを訪れています。いつも圧倒される、それらの国々の熱気や強烈なバイタリティが、自分は心地よく好きなのですね。そのような国で、自分の専門分野を通して人に貢献できることは、この上なく幸せなことです。

Q今までどのような仕事をしていたのですか? また、どのような経験が海外派遣で活かせましたか?

整形外科外傷治療、特にマイクロサージェリー(微小血管外科)を駆使した、重度四肢外傷治療をライフワークにしていました。ですから、重度四肢外傷の患者が多いポートハーコートのこのプログラムは、自分の知識・技術・能力を最大限発揮することを要求される大変やりがいのあるものでした。ただし、使える器械は限られていますので、すべてにおいて創意工夫と応用が必要でした。

途上国をよく旅することも、現地の生活・文化にストレスなく溶け込むことには役立っているようです。もともと日本の生活様式自体に全く執着がありませんので、海外に長くいても日本食が食べたいというようなストレスはあまりないのです。

Q今回参加した海外派遣はどのようなプログラムですか?また、具体的にどのような業務をしていたのですか?

整形外科外傷治療の手術プログラムです。ポートハーコートは、ナイジェリア南東部海岸のニジェールデルタと呼ばれる世界有数の原油の産地に位置し、利権をめぐる底なしの抗争が続いています。ここでの治療対象は大きく3つに分類されます。1つめは銃による外傷です。銃の外傷による開放骨折には前回同様苦労しました。2つめは交通事故による外傷です。人口が世界8位のナイジェリア*の都市は、街中どこも人と古い車で溢れ、道路も悪いからだと思います。

  • データ出典: 国連人口基金による世界人口白書2009

そして伝統的に男性上位の社会に加え、マシェットという鉈で人を切りつける事件も多く、主な治療対象の3つめは、このマシェットによる手足の切り傷でした。夫にむやみに切りつけられた妻や子ども、けんかで手足を切りつけられた人、すべて悲惨な例ばかりです。今回これがとんでもなく多く、神経は19本、腱については何と115本も縫う結果になりました。

前回と一番違ったのは、整形外科医が2人体制になっていたことです。役割分担できたので、私は骨折よりも皮膚軟部組織欠損の修復に専念できました。これは非常によかったと思います。

Q週末や休暇はどのように過ごしましたか?
ボートクラブで。ニジェール川をバックに。

前回同様日曜の午前中は病棟回診がありました。今回は整形外科医が2人なので、本当は交代で休めたのですが、短期派遣で来た先生たちが休まないので、結局自分もこの時間帯はあまり休めませんでした。

休日の夜は宿舎の庭で食事会をすることが多かったです。プールのあるレストラン、ブルーエレファントへは毎週通って泳いでいました。暑かったですから。

今回よかったのは、ポートハーコートのボートクラブへ連れて行ってもらったことです。都会の喧騒を離れ、ニジェール川の畔でしばしくつろぎ、気になっていたパームワインも飲めました。

Q現地での住居環境についておしえてください。
クリスマスの病院で。

驚いたのは、前回どこでも普通に使っていた浄水器が撤去されていました。衛生的にやっぱり限界があったようで、ボトルの水を購入するようになっていました。

今回よかったのは、自分の携帯が使えたことです。前回、ナイジェリアはまだ国際ローミングの対象外で自分の携帯は使えず、慣れない携帯で不自由しましたから雲泥の差でした。

前回出なかったお湯も出て、前半は何回か暑いお風呂にも入れました。でもよく停電するので、後半は事実上使えませんでした。

前回、英語でのメールの送信に苦労したので、今回は早々にエアカードを自分のパソコンにインストールさせてもらい、自分のパソコンでメールの送受信ができるようにしました。おかげで、日本語環境で快適にいつものとおりメールが送れました。ただし、接続の仕様上、メインのパソコンでだれもインターネットをしていないときに限られるので、メール送信は早朝にしていました。

今回10週間と長かったので、さすがに日本食を少々持参しました。結局余ってしまいましたが、いい気分転換になりました。テーブルが常時屋外に出してあり、夜は星空のもとでの食事でした。

Q良かったこと・辛かったこと
タイの整形外科の先生が帰る朝に記念撮影。

よかったのは、整形外科医が2人体制になっていたこと。そして多くの外国の整形外科および外科の先生方と知り合いになれたことです。これがMSFのプログラムに参加する最大の喜びで財産なのだと初めて感じました。当たり前のことだと思われるかもしれませんが、前回整形外科医は私だけで、外科医は日本人医師でしたので、外国人スタッフと一緒に手術した経験はありませんでした。

今回、前回の反省から持参する自分の手術器械の種類を増やし、微小血管結索クリップも用意したおかげで、バイポーラー凝固止血器*がなくても有茎の血管付き皮弁を多く挙上することができ、これは大正解でした。ただ、血行再建を試みた症例は2例とも損傷程度がひどく、完全に救肢できませんでした。諸事情から、さらに踏み込んだ手術へ進めなかったのもまた心残りです。

  • 生体組織の凝固・止血を目的とした高周波電気手術器。

辛かったことはいろいろありましたが、特に精神的にも人間関係にも疲れの出てきた後半には集中しました。後半に入って早々にカメラを水中に落として壊してしまったのがまず大ショックでした。後半の症例の写真は、他の先生に頼んで撮ってもらうしかなかったので、記録を残せなかった症例がたくさんあります。

年が明けて2010年の正月は大惨事で始まりました。たくさんの重症患者が病院へ運ばれ、休日返上で対応に追われました。何人か亡くなりましたが、「ジーザス!」と叫びながら亡くなっていく若者には、無神論者の私は畏敬の念を覚えざるをえませんでした。

Q派遣期間を終えて帰国後は?

じつは最終日前日にハイチで地震が起こり、同じMSF外傷センターのポルトープランスのトリニテ病院が被災しました。大西洋を挟んですぐそこなので、日本へ帰らずハイチへ転進させてほしいと願い出たのですが、当時は、公用語の一つであるフランス語が話せるスタッフ優先ということで、かないませんでした。さすがMSFと感心する一方で、帰国後は古巣の徳洲会の徳洲会医療援助隊(TMAT)が、3次にわたって救援隊をハイチへ派遣している状況が刻一刻と耳に入ってきたので、非常に悔しかったです。

そして、3月からしばらくぶりに常勤勤務医として復職した矢先、フランス語ができなくてもいいので、大至急ハイチへ行き、手術活動を支援してくれないかという依頼が突然あり、心中穏やかではありませんでした。現地ニーズと派遣のタイミングは難しい場合があるのかもしれません。

Q今後海外派遣を希望する方々に一言アドバイス

このナイジェリアのプログラムは、一般整形外科医には大変厳しいものがありますが、日本で外傷治療の経験を積まれた先生なら非常にやりがいのあるものです。特に日本外傷整形セミナー(JOTS:Japan Orthopedic Trauma Society)*に登録されているような先生方には、整形外科医が2人体制になり負担は軽減しているので、万難を排してぜひ参加されることをお勧めします。私もまたいつか参加したいと考えています。

  • 救急搬送された多発外傷患者の初期治療から機能再建に参画できる外傷整形外科医の育成を目的としている。

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