「親切のお返し」 難民だった少年が看護師となり、世界で活躍する
2019年03月27日
「食べ物もなく、住むところもままならない。医療も、教育もない…そんな場所は、子どもが育つのに理想的とはとても言えません。でも、それが『難民キャンプ』です。私はまさにそんな場所で育ちました」
そう語るのは、トック・ジョンソン・ゴニー。南スーダン共和国(当時のスーダン)で生まれ、難民キャンプで育った彼は、やがて国境なき医師団(MSF)の現地採用看護師となった。そして今では、国際的に活動する医療コーディネーターを務めている。苦難の道も、希望を捨てずに歩み続けてきた彼が伝えたいメッセージとは?
難民だった子ども時代
私は1975年、現在の南スーダン、上ナイル地方のボルで生まれました。その3年前に和平協定が結ばれて第一次スーダン内戦が終結したのですが、和平が続くのかわからず、家族でエチオピアのイタン難民キャンプに避難しました。そこで小学校へ通ったんです。
子どもの頃はいろいろとつらい目に遭って、思い出すと目が潤んでしまいます。“難民の子ども”だった私は、はしかで命を落としかけ、今日生きているのも奇跡です。難民キャンプは苦痛と惨めさ、絶望でいっぱいでした。食ベ物と住居は人道援助団体が頼りでした。受け入れ地域の人びとは時に敵対的で、地元社会になじむため地域の人びとの目をうかがっていました。人生は時に、岩山を縫って流れる水のようにもてあそばれることもありますが、子どもにはそんな状況はふさわしくありませんよね。
ただ、多感な時期にさまざまな苦難と向き合ったことで、人生には目標があった方がいいと学んだんです。とらわれていた苦悩を頭から追い払うと、学校でも成績が伸び始めました。現地採用の看護師として
私は、難民キャンプで人の命を救う医療者の姿を見て育ち、その姿に深く感動していました。私たちに共感を示してくれる姿に、大きな刺激を受けたんです。そして、私も医療者になろうと決心しました。医療を通じて、最も助けが必要だった時に受けた親切のお返しができると考えました。医療が必要な人たちを自分の手で助けたいという熱意が、私の最大の原動力になったのです。
看護学士号を取得し、スーダンの現地スタッフとしてMSFの仕事に就いたのは2000年。勤務先はエチオピア国境のすぐ近くにあるアコボ病院でした。ここで、感染症対応、栄養、救急などさまざまな部門に携わりました。
その後、他の任地でも働きました。特に印象に残っているうちの1つが、北東部マバン郡での医療援助です。(2011年に)南スーダンがスーダンからの独立を達成した直後のことでした。避難していた多くの人が帰還し、大勢の患者さんの治療に追われたのを覚えています。
世界各地からやって来たプロフェッショナルとともに働き、見識が高まるとともに、人に備わった美点も教わりました。自分も、困窮する人を助けるために遠くまで赴こうという気持ちになりました。国際人道援助の世界へ
2010年、私は国境を越えて援助に出向くMSFの国際スタッフの職に応募しました。採用の通知が届いた時は、さまざまな思いが交錯しました。子どもの頃の苦労を努力で乗り越えたことが信じられませんでしたし、医療の担い手として国際人道援助の世界に南スーダンの旗を掲げて臨むことになり、興奮しました。子どもの頃の夢がかなったんです。その日はずっと、一輪の花に差す太陽の光のような笑顔が私の顔に輝いていました。
初回派遣への思いが高まるにつれ、外国での職業生活はどんなだろう、他の国々から来た同僚の海外派遣スタッフたちとはどう付き合えばいいのだろう、現地の人たちにはどんな風に思われるだろうと、思いをめぐらせました。そんな疑問も、ますます気持ちを高めていきました。
2012年以降、私は世界中のさまざまなプロジェクトで任務をこなし、MSFの医療スタッフとして成長してきました。そして今、私はアフガニスタンでMSFの管理職である医療コーディネーターを務めています。アフガニスタンでは薬剤耐性結核(DR-TB)感染者に治療を提供するプロジェクトを立ち上げました。
これまでの活動経験から明言できるのは、南スーダンには、国外でも活躍できる専門人材があふれているということです。難民だった子どもが、国際的な医療コーディネーターになったんですから、 素晴らしいでしょう?