海外派遣スタッフ体験談

複雑な症例、多忙な業務に必死で尽力

城倉雅次

ポジション
整形外科医
派遣国
スリランカ
活動地域
バブニヤ
派遣期間
2010年12月~2011年3月

Qなぜ国境なき医師団(MSF)の海外派遣に参加したのですか?

ナイジェリアの報告に詳しく書きましたのでこちらを見てください。 今回はナイジェリアの急性期外傷治療と対極をなす、スリランカの再建手術プログラムに魅かれました。自分の経験と能力で患者さんの役に立てたらと希望しました。

Q今までどのような仕事をしていたのですか? また、どのような経験が海外派遣で活かせましたか?

多くの感染治療の修羅場を経験していたことが、一番役に立ちました。各種血管付き組織移植による再建手術を多く経験していることも、治療方針立案に大いに役立ちました。日本ではまずお目にかかれない重度の変形治癒・機能障害例が多く、骨の修復だけでなく腱移行による機能獲得や軟部組織の再建も同時に必要な症例が多く、すべてが応用問題でした。日々手術方法に頭を悩ませる毎日で憔悴(しょうすい) しました。

Q今回参加した海外派遣はどのようなプログラムですか?また、具体的にどのような業務をしていたのですか?
スリランカ北部とプログラム地域。

スリランカ北部を中心に26年続いたタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)と政府軍の内戦が2009年5月政府軍の勝利という形でようやく終結しました。2008~2009年にかけての政府軍の攻撃は激しく、長らくLTTEの支配地であった北部地域では多くの地元住民が巻き添えで負傷しました。その多くは、十分な医療を受けられていません。

プログラムの拠点である、バブニヤはちょうど戦闘ラインのすぐ南に位置し、内戦終結直後から、住居を失い難民となった多くの北部住民の対応やLTTEが残していった多数の地雷の撤去等のため、多くの国際援助機関が集結しています。MSFオランダ支部が2010年より開始したここでの整形外科プログラムは、戦傷による骨・軟部組織の外傷後、十分な治療を受けられていない、または治療は受けたが治癒に至っていない、治癒はしたが重度の後遺障害が残った、数多くの北部住民を対象にその治療にあたるものです。その性格上、ナイジェリアでの重度外傷の比較的急を要する初期治療とは対極の、1日1症例の待機・選択的な機能再建手術が中心となり、その多くが極めて困難で長時間の手術を要するものでした。

医療スタッフは、整形外科医、総合内科医、麻酔科医が各1名と手術室看護師1名(後に病棟看護師も1名)に加え、バブニヤの近くのリハビリ施設で脊髄損傷患者さんのリハビリプログラムも同時進行で行われていたため、そちらの看護師と理学療法士も1名ずつ、あとは現地の病棟・手術室看護師と通訳が3名でした。

手術室で。スタッフと記念写真。

活動拠点はバブニヤ総合病院(VGH)内に設置された、MSF専用のプレハブ病棟と新築の手術室です。毎週火曜と木曜の午後は、VGHで外来を行い、患者さんを診察して手術計画を立てます。VGHに来ることができない患者さんのため、毎週月曜日は遠隔地へ外来をしに行きます。行先は、LTTEの最後の拠点であった、北部のキリノッチ、西部海岸のマンナール島、それにマニク農園と言う避難民キャンプです。キリノッチへ行くには厳重な停戦ラインを通過しなければならず、外国人は立ち入り禁止のため、手続きに時間がかかりました。キリノッチ市民病院までの道路は穴だらけで、周りにはまだ多数の地雷が埋まっています。病院の一角にも砲撃のあとと思われる穴が残り戦闘の激しさを物語っていました。

水・金は終日、火・木は午前が手術でしたが、あまりの症例の多さに手術予定表は何度も大幅な変更を余儀なくされました。時間が限られているため、どうしても重症患者さんを先にせざるを得ません。土・日は原則休日でしたが、手術の必要な患者さんがあまりにも多いため、手術日がどうしても不足し、最後は土曜日や月曜日も、外来をもう1人の内科医に頼んで手術をしていました。

Q週末や休暇はどのように過ごしましたか?

最初の1ヵ月は天気が非常に悪く、毎日土砂降りでどこにも行けず、ずっと部屋にこもっていました。 天候が回復してから、他のスタッフは土日でよく小旅行に行っていましたが、私は病棟回診で手のかかる創処置があまりに多かったため、最後の最後まで全く休暇はありませんでした。回診後、病院から宿舎までバブニヤの街をぶらぶら歩き、レストランで食事したり、スーパーで買い物するのが土日の楽しみでした。余裕のある時は郊外へランニングに行ったり、貯水池へ泳ぎにいったりもしました。

バブニヤを拠点とする国際援助団体の数は数え切れないほどで、それこそ石を投げれば当たるほどの外国人が居住しています。土日は言うに及ばず、いつもどこかでパーティーが行われており、お誘いを受け最初はよく出かけましたが、だんだんそれどころではなくなり最後はほとんど参加しませんでした。しかし、正月に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の日本人宿舎に招かれ日本人ばかりでおせち料理を食べたのと、ピースウインズ・ジャパンの宿舎に招かれ手巻きずしや湯豆腐を御馳走になったのは、忘れられないいい思い出です。この時ばかりは、他に日本人がいるのはいいなと思いました。

Q現地での住居環境についておしえてください。

病院から歩いて30分くらいのところに我々の宿舎はありました。広い敷地に2階建てのリゾート風のコテッジが3棟あり、2棟は居住用で1棟は事務所でした。近くに資材置き用の倉庫も1棟ありました。スタッフには個室が割り当てられ、お湯の出るシャワー室もありました。平日は現地の女性スタッフが、毎日部屋の掃除と洗濯、昼と夜の食事を準備してくれました。各棟にキッチンがあり、朝と土日は自分で調理するようになっていました。屋上にちょっとしたヤシの葉の屋根の小屋もあり、1人でのんびりできました。事務所棟では無線LANが受信でき、速度は遅いものの自分のパソコンでインターネットやメールの送受信が可能でした。

Qよかったこと・辛かったこと
バブニヤ総合病院、MSF専用手術室。全てが新品なのであるが……。

手がけた症例のすべてにおいて、苦労はしたものの一応満足のできる結果を残すことができ、本当に良かったと思いますが、それに至るまでが、ものすごく辛かったです。予定手術とした感染性偽関節・慢性骨髄炎の治療も困難を極めたのですが、着任から1ヵ月を過ぎたころよりなぜか術後感染も急激に増え、対応に神経をすり減らしました。運悪く、たまたま麻酔科医が帰国し、次の麻酔科医が来るまでの麻酔科医不在の時期にあたったため、死にそうでした。毎日多い時で5人の感染患者さんを病棟で洗浄する日々が続きました。2ヵ月にわたり10人の感染患者さんに、多い人で4回から5回にわたる手術を行い、ようやく私が帰る前までに主な感染の鎮静化に成功はしましたが、帰国直前まで感染の手術に追われました。

このプログラムの致命的な問題点は、活動のため入国予定の医者になかなかビザが発給されないことでした。そのため、医者のバトンタッチが全くできません。私が行くまで約2ヵ月整形外科医は不在でした。私が帰る時も、次の整形外科医がいつ入国できるのかめどが立たない状況でした。とても感染患者さんを病棟に残して帰れない状況のため、休日返上で必死に治療にあたらざるを得ませんでした。大変つらい毎日で、思い出したくもありません。

もうひとつの大きな問題点は、現場のニーズと準備されていた手術器械との間に大きな食い違いがあったことです。日本でも普通に使っているT2という髄内釘が新品でずらっと準備してあったのですが、蓋をあけると通常使わない細いサイズしかありません。創外固定器も1セットしかありませんでした。特に創外固定器は、感染コントロールに必須の道具なので、その不足は麻酔科の不在と相まって死刑を宣告されたようでした。もし同じバブニヤで活動していたMSFフランス支部から追加の創外固定器を借り受けることができなかったら、先の感染患者さんたちの治療は不可能だったでしょう。

Q派遣期間を終えて帰国後は?

東北の震災があったため少し早めに帰国しました。4月から病院勤めにもどっています。被災地へも震災発生から1ヵ月遅れで1週間だけ入らせていただきました。

Q今後海外派遣を希望する方々に一言アドバイス

ナイジェリアにしてもスリランカにしても、最低限、日々外傷治療に積極的に関わっている整形外科医でないと何もできませんし役に立ちません。加えてスリランカでは、さらに応用力が要求されます。相談できる人は誰もいませんし、すべて自分で治療法を考え出さないといけません。新しい手術法などいつも考えるのが好きな人なら向いているかもしれません。

MSF派遣履歴

  • 派遣期間:2009年1月~2009年2月
  • 派遣国:ナイジェリア・ポートハーコート
  • ポジション:整形外科医
  • 派遣期間:2009年11月~2010年1月
  • 派遣国:ナイジェリア・ポートハーコート
  • ポジション:整形外科医

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