海外派遣スタッフ体験談

エボラ対応活動で、現地の人びとの強さと誇りに感銘

吉田 照美

ポジション
正看護師
派遣国
シエラレオネ
活動地域
カイラフン、ボー
派遣期間
2014年6月~8月、2014年9月~11月

QMSFの海外派遣に再び参加しようと思ったのはなぜですか?また、今回の派遣を考えたタイミングはいつですか?

2014年4月からウクライナの多剤耐性結核の対策プログラムに参加していましたが、現地の情勢不安のため、5月から日本で待機していました。その間に、シエラレオネでのエボラ出血熱の緊急プログラムのオファーをいただいたので、参加を決意しました。

今回、シエラレオネのエボラ緊急プログラムへ2度にわたり参加しましたが、1回目の任期の1ヵ月間、エボラ出血熱の脅威と深刻な人材不足を目の当たりにして、終了前には次もエボラ出血熱のプログラムに参加する意思を表明していました。

Q派遣までの間、どのように過ごしましたか? どのような準備をしましたか?

1回目の活動参加の前は、ほとんどエボラ出血熱に関する知識がなかったので、インターネットや書籍、MSFのオフィスから送ってもらった資料を読んで、できるだけ備えました。

2回目の派遣前には、エボラ出血熱に対する注目度が世界的に高まっており、また、現地で対応にあたる医療スタッフの感染もあり、家族は再び参加することに反対でした。いくら現地で人手が不足しているとはいえ、2回目に参加するべきか、かなり迷いました。

さらに、2回目だからこそ効果的に仕事をしたい、という自分に与えたプレッシャーもあり、現場での緊張度は、1回目よりも高かったと思います。

しかし、何のいわれもなく術もないままエボラ出血熱で命を落とし、地獄の苦しみを味わわなければならない人たちのために、現地でがんばっているスタッフと働きたい、という思いを原点とすることを心に定め、参加を決意しました。気負いすぎることなく前回の経験を生かし、基本に忠実に、自分にできることをやろうと考えていました。

Q過去の派遣経験は、今回の活動にどのように活かせましたか? どのような経験が役に立ちましたか?

緊急プログラムに参加したのは今回が初めてでしたが、プログラムの流れが速く、そのスピードを把握するのに苦労しました。

1回目と2回目では別の場所で活動しましたが、同じエボラ出血熱のプログラムでも、患者数や感染地域、感染拡大の時期はそれぞれ異なっていました。今回のように広範囲で長期にわたるアウトブレイクでは、プログラムの目的や実践方法など、その時の疫学調査によって決められていきます。さらに、実際に現場の状況に合わせて、実践内容が少しずつ調整されます。

私はチームのリーダーではなかったので、プログラムの運営の詳細には関わりませんでしたが、疫学に基づいたアウトブレイクの動向によって介入方法をよく見極めることが大切であることを学習しました。

それでも、その状況にどんなことが必要か、どのように順序立てて行動すればよいかを常に考えることは、これまでの活動と共通であり、現地スタッフとの協働や、チームワークを確立するためのコツなどは活かせたと思います。

Q今回参加した海外派遣はどのようなプログラムですか?また、具体的にどのような業務をしていたのですか?
患者のケアにあたる際は、全身に防護服を着用する 患者のケアにあたる際は、全身に防護服を着用する

エボラ出血熱の緊急プログラムで、私は看護チームのスーパーバイザーを務めました。1回目の派遣ではスーパーバイザーが自分ひとりでしたが、2回目は同じスーパーバイザーの職を担うスタッフが複数存在したため、役割分担をすることができました。

1回目の派遣では、30名ほどの看護チームのリーダーとして、現地スタッフの指導管理のほか、患者への直接的なケアとして飲食介助、清拭やシャワーの介助、内服薬の投与、採血や点滴、また薬局管理などを担当していました。

また、治療センターに来る人たちにエボラ出血熱の感染があるかを医師と一緒に見極めるトリアージも実施しました。

2回目の派遣では、35名ほどの看護チームの中で、現地スタッフのチームリーダーとの協働し、患者への直接的なケア、薬局管理の補佐などを実施しました。

治療センターでは、患者がいつ入院するかという連絡が不明確なことが多く、また自分から治療センターに直接来る患者もいて、ベッドの移動も頻繁に行う必要がありました。そのため、1日のスケジュールや担当事項をおおまかに相談しておいても、緊急事態に対応しなければならないことがほとんどでした。
防護服を全身にまとっての仕事は、炎天下のシエラレオネでは過酷を極めます。看護師や医師は、自分の身の安全を守るため、患者のいるテント内でケアできる時間は1時間で、必ず2人以上で実施するという決まりがありました。もし突発事項があっても対応可能にするためです。

テント内では、患者の容体が急変したり、予測できないことに多く遭遇します。前もってケアの内容をメモに残し、なお優先順位にも常に気を配り、チーム内で情報交換をして、効率よく仕事ができるように努めました。

それでも時間内にすべての患者に十分なケアを提供することができず、苦痛のため患者が私たちを呼んでいても次に入るチームが対応することを患者に説明して、後ろ髪をひかれる思いでテントを出なければなりません。次に入るチームは、この患者がたった1人で亡くなってしまう姿を見ることになるだろうと予測しなければならない時も、言葉に表せないほどでした。

Q派遣先ではどんな勤務スケジュールでしたか? また、勤務外の時間はどのように過ごしましたか?
シエラレオネの穏やかなひと時 シエラレオネの穏やかなひと時

チーム内で朝・昼・夜とローテンションを組んで勤務していました。朝の当番では採血を担当し、深夜は電話でオンコールに当たりました。

緊急プログラムだったので特定の休みはありませんでしたが、夜勤の前など時間のあるときには体を休めるようしたり、メンバー同士で休み時間を調整したりしました。精神的にも体力的にも常に疲労は大きくありましたが、それはみんな同じだから、お互いいたわりあおうという、メンバー同士の心遣いがいつもありました。

空いている自由時間はあまりありませんでしたが、それでも1~2回スーパーマーケットにおやつを買いに行ったり、インターネットをしたりすることもできました。一番ホッとしたのは自分の部屋です。就寝前に、お気に入りの作家の本を数ページ読みながら爆睡、という瞬間が至福でした。

Q現地での住居環境についておしえてください。

2回とも、それぞれの町にあるホテルを宿舎として利用していました。質素な作りで水シャワーでしたが(大雨が降ってシャワーの水が泥水になったこと数回)、それでも個室であり、食事もいつも準備されていたので、恵まれていたと思います。Wifiもありましたが、故障のためほとんど使えませんでした。

エボラとマラリアは症状が似ているため、エボラ対応プログラムではほかのプログラムにも増してマラリアに注意しなければいけないということから、抗マラリア薬と蚊帳はもちろん、殺虫剤と虫よけスプレーをいつも常備して使用していました。

Q活動中、印象に残っていることを教えてください。
ナースステーションで現地スタッフと ナースステーションで現地スタッフと

これまでにないアウトブレイクの中、海外派遣スタッフの働きもそうですが、なによりも現地の住民である現地スタッフと患者の、逆境における精神的・身体的強さに大きく感銘を受けました。

自分が感染していなくても家族の誰かが感染したら、社会から圧倒的な差別を受け、村八分にされます。患者であった場合はなおさら、治癒して治療センターから退院しても村人や親せきから帰ってくるなと言われた人もいました。治癒して退院が決まっても、喜べずに涙を流す人もいます。

現地スタッフは、エボラ出血熱の対応に関わっているというだけで、差別を受け、自分の家に住めなくなっていました。小さな娘を2人かかえて困り切ったスタッフや、自ら首都フリータウンから志願してプログラムに参加したスタッフも、周囲の目があり食堂で食事さえできず、帰る場所を失くして途方に暮れていました。

現地では、誰もが明日は我が身とエボラ出血熱に対する強い恐怖を抱いています。患者は耐え難い身体的苦痛に加え、孤独と、家族を失った悲しみにさいなまれながら、社会から理不尽な扱いを受けています。
湧き上がる怒りはあっても誰を責めることもできず、それでも彼らは、エボラなんかに殺されてなるものか、エボラなんかに自分の運命を委ねてなるものかと、治療センターのテントの中で、必死で日々を生き抜いています。残念ながら亡くなっても、恐怖と苦痛と絶望に耐えていった人たちの尊厳を前に、手を合わさずにはいられませんでした。

現地スタッフも、いつ自分たちが感染して患者になるかわからない不安と隣り合わせで働いています。自分の仲間が患者から感染して、目の前で倒れていく姿を見ています。悲しみと衝撃のあまりしばらく呆然としてしまうスタッフもいました。あまりに大きすぎる代償とリスクに、家族から治療センターで働くことを反対されることもあったようです。

それでも彼らは、働き続けます。「遠く日本から来てくれて、私たちを助けようと一緒に働いてくれてありがとう。私たちは、私たちの国を自分たちの手で守らなければいけない。逃げるわけにはいかない。エボラと闘い抜きます」と話していましたし、実際にそう闘っていました。

エボラ出血熱は人びとの生命を脅かすだけでなく、内戦後、壮絶な苦労とともに十数年で築き上げてきたシエラレオネの社会、教育、文化・伝統、経済までも崩壊させました。

終息したとしても、再び復興への道を歩むのは気の遠くなるようなことですし、実際に、困難を極めるはずです。それでも、エボラ出血熱の悲劇をはるかに上回る、シエラレオネの人たちのはかりしれない強さと誇り高さを肌で感じて、この人たちならまたやれるのだろうと、まさに鳥肌が立つような思いがしたことを、私は今後もずっと覚えていると思います。

そしてその復興の過程で、もしまた私が現地の人と一緒に働けることがあるのなら、ぜひそうさせてもらいたいと思っています。

Q今後の展望は?

日本の離島の病院で数ヵ月アルバイトをした後、熱帯医学の研修を受けることになっています。アルバイトと研修でチャージしたパワーを十分発揮できるように、次の派遣に臨みたいと思います。

Q今後海外派遣を希望する方々に一言アドバイス
エボラを克服した患者の退院をスタッフでお祝い エボラを克服した患者の退院をスタッフでお祝い

自分が考えているより、自分の力は大きくないし、逆に、それほど小さくもないかもしれません。国境なき医師団は、自分ができると思うことに少しだけプラスしてやってみよう、と挑戦できる場所だと思います。

MSF派遣履歴

  • 派遣期間:2014年4月~2014年6月、2014年8月
  • 派遣国:ウクライナ
  • プログラム地域:ドネツク
  • ポジション:看護師
  • 派遣期間:2013年4月~2013年10月
  • 派遣国:パキスタン
  • プログラム地域:ペシャワール
  • ポジション:看護師
  • 派遣期間:2012年6月~2013年1月
  • 派遣国:南スーダン
  • プログラム地域:ヤンビオ
  • ポジション:看護師

活動ニュースを選ぶ