フランスにたどり着いても……路上生活に追い込まれる難民の若者たち

2019年10月04日掲載

パンタン・センターを訪れる若者 © Augustin Le Gallパンタン・センターを訪れる若者 © Augustin Le Gall

紛争や暴力、貧困などを逃れて、アフリカなどから難民や移民として欧州にたどり着いた人たち。中には、保護者や家族を伴わずに、フランスに渡って来た未成年者もいる。2018年にフランスに着いた4万人の若者のうち、わずか1万7000人しか各県当局による「保護者のいない未成年者」として公的認定を受けられず、フランスの児童保護援助機関の保護下に置かれなかった。

国内法と国際条約によって、フランスは 保護者のいない未成年者を保護する義務があるものの、実際には保護者のいない未成年者に避難所を用意して適切な保護下に置く対策は、ほとんど講じられていない。なお悪いことに、フランス当局は、行政手続きをわざと煩雑にして、案件審査段階で保護申請を思いとどまらせやすくしている。──この制度で若者は根無し草にされ、不安定な状況に追いやられる。その一方で当局は、全ての責任を免れている。 

心に傷が残る、放浪の旅

ワークショップで描かれた絵が飾られるパンタン・センター © Augustin Le Gallワークショップで描かれた絵が飾られるパンタン・センター © Augustin Le Gall

保護者のいない未成年者にとって、フランスにたどり着くまでの旅は長くつらい。ショッキングな旅であり、その道中には暴力が横行している。故郷で起きた残虐行為のために、全てを残して出て来なければならなかったばかりか、激しい暴力被害に遭った人も多い。外国へ逃れる道中で、とりわけアフリカ・リビアを通り抜ける最中に、身柄の拘束や性暴力、拷問などの多くの被害が報告されている。

MSFは2017 年に、フランス・パンタンにパンタン・センターを開いた。看護ケアやメンタルヘルスのサポート、社会的法律的援助などをしている。一方、2018年にMSFが診察した若者の87%が、フランスにたどり着く前の間に暴力や拷問、虐待に遭ったと話している。

フランスに着いても、休む間はない。慣れない土地で、お金もないまま、自立するしかない状況に追い込まれるなど、とりわけ弱い立場に立たされる。路上で寝泊りしたくなければ、急いで煩雑なフランスの行政手続きに取り組み、交渉するなどして自らの地位を得ていかなくてはならないのだ。 

複雑な制度

行政手続きの用紙を手にする難民の若者(左)© Augustin Le Gall行政手続きの用紙を手にする難民の若者(左)© Augustin Le Gall

だが、行政手続きは非常に難しい。行政職員にとっても、保護者のいない未成年者に援助受給資格を出すまでの複雑な手続きは、頭痛の種だ。手続きではまず、行政職による審査で、保護者のいない未成年者に該当するかどうかを判断する。審査は面談形式で、 たった数分ということもある。

フランスでは、児童保護援助機関は18歳未満で両親や保護者によって守られていない全ての若者に対し、国籍を問わず、宿泊所と医療と教育を提供する義務がある。

だが審査によって行政は、本人たちの主張を退け、未成年者とは認めない。審査では、若者は、未成年者であるか、保護者がいないかどうかだけでなく、児童保護援助機関の保護下に置かれる資格があるかどうかもまでも同時に判断している。審査で未成年者である証拠は不十分などみなされた若者たちは、宿泊所や食べ物、医療どころか教育に至るまで一切援助を受けられない状態に陥ってしまう。パンタン・センターを訪れた若者の半数以上は、初回訪問時には路上で寝泊りしていたことがわかっている。

また、県当局は保護申請を始める未成年者に対し、直ちに適切な宿泊所を最低でも5日間、無条件で提供する法的義務がある。だが、数百人もの10代の移民は、審査期間中、何の一時宿泊所も用意されず、当局に未成年者だと認めてもらえるまで、フランスの路上で寝泊りしていた。

残された頼みの綱は、裁判所に上訴して、保護を求めることだ。これもまた時間がかかり、手続きは煩雑である。そのため、多くの未成年者が市民の支援団体に頼って命をつないでいるのが現状だ。だが幸い、法廷で異議申し立てをした結果、行政による最初の判断に対して、大勢の若者が未成年者認定を勝ち取っている。行政当局による審査がいかに専断的で、通り一遍なのかがわかる。 

簡単には受けられない医療と心のケア

センターの職員に予約ブックを見せる難民の若者(左)© Augustin Le Gallセンターの職員に予約ブックを見せる難民の若者(左)© Augustin Le Gall

保護者のいない若い外国人は、医療を受けるのも一苦労だ。未成年者でも成人でもないため、実際に受けられるケアはニーズに合っているとはいえず、また遠く離れた場所でしか受けられないことが多い。全ての未成年者に対し、医療と保護を徹底するのはフランス政府の義務なのだが、社会保護を受けるための行政手続きも煩わしい。だが、政府はこうした若者の特殊な地位などお構いなしだ。各国通過中に悲惨な環境をかいくぐり、時には拷問にまで遭ってから路上生活をしているので、若者は医療だけでなく心のケアも必要としている。

MSFのパンタン・センターで心理療法士が相談に応じる若者のうち、34%は心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症している。 

過酷な旅を乗り越えた難民の証言

カメルーンからフランスに逃れたマークさん(仮名)も、MSFのパンタン・センターで治療などを受けた。 

パンタン・センターを訪ねてきた難民の若者 © Augustin Le Gallパンタン・センターを訪ねてきた難民の若者 © Augustin Le Gall

僕は、カメルーンから来た。父はベティ族で、クンバ市で警備隊長をしていた。父は、カメルーンの英語圏少数派 に反対していたので、殺された。僕は父と一緒には住んでいなかったけれど、姉夫妻と一緒にドゥアラで暮らしていた。母は今も生きているよ。今はブルにいるけど、詳しい住所は知らない。すごく長い話だから、このことはあまり話したくないんだ。姉の夫が亡くなったとき、僕はドゥアラから出ていかなきゃならなくなった。バメンダへ行って、兄と妹と一緒に暮らすことにしたんだ。学校はやめなければならなくなった。中学校の3年生だった。でも2017年1月1日に、政権反対派の兄は僕に逃げろと言い出した。バメンダでは銃弾が飛び交っていたよ。兄の話では、所属している反政府勢力が子どもにも武器を持たせたがっていて、女の子でさえもそうだとのこと。何もかも危険になった。

そして、国を出て行けと兄に言われた。僕は「いいけど、どこに行ったらいいの?」 返事はなかった。兄は妹と僕を送り出した。ムーサが付き添ってくれて、ナイジェリアまで連れて行かれた。 

パンタン・センターの受付に向かう難民の若者 © Augustin Le Gallパンタン・センターの受付に向かう難民の若者 © Augustin Le Gall

ニジェールにはたくさん検問所があるのだけれど、お金さえ払えば警察は見逃してくれる。ニアメでは、僕らを含めて27人が迎えのトラックの荷台に登った。実に色んな国から来ていたばかりだったよ──コートジボワール人、カメルーン人、ガンビア人……。アガデス県到着は段取りよく進んだ。駅に着くとバイクが迎えに来ている。警察は事態を把握していたけれど、お金を受け取って知らん振りしているんだ。ナイジェリア人たちに関係者以外立ち入り禁止のキャンプに連れて行かれた。それは2階建ての家で上の階も下の階も人で一杯だった。全員外出を禁じられた。警察は移民を見るのを好まないと言われたよ。

1週間が過ぎたある晩、問題が持ち上がったんだ。数人のアラビア人が夜更けに僕らを連れ出しにきた。境界を越えるのによい時間と砂漠の抜け道も熟知していた。僕らにくれたものといえば5リットル缶入りの水、タピオカと粉ミルクだけ。

砂漠では人身売買の“ハブ”ともいうべきものをみたよ。エチオピア人とエリトリア人をぎゅうづめに押し込んだピックアップトラックが何台も来ていて、砂漠のただ中で僕らと合流した。ピックアップトラックは32台。移民は僕らを合わせて700人くらいはいたと思う。僕らのピックアップトラックも入れて5台が一緒になって出発した。 

強盗や襲撃に遭いながら……妹も失って……

5日間砂漠を抜けて走り続けたある日、朝10時に強盗に襲われた。襲撃は2~3時間続いた。銃を撃ちだしたので妹に「体をかがめて洞窟に行きな」と言ったんだ。友人が妹に別の方角へ行くようにと言っているときに一発の弾が妹のあばら骨にあたった。妹を病院へ連れて行きたかったけれど、僕らはどうすることもできなかった。弾についていた毒で妹は死んだ。7~8人が同じ襲撃で命を落とした。あそこじゃ誰も助けてくれないんだ。

強盗が立ち去った後、運転手は口をそろえて「ハヤ、ハヤ(急げ、急げ)!」と言うばかり。時間がなくて、遺体は数人分しか埋葬できなかった。僕はシーツをバッグに入れていたから、それで妹を包んで砂漠に埋めた。妹を失って、僕は半狂乱になった。家に帰りたい、それだけを願った。

砂漠の中を運転し続けたけれど、その後は日中だけ移動していた。日暮れには車を止めて、誰にも見られないようにした。あの旅は長いことかかったよ。奴らは衛星携帯電話で他の人身売買業者と連絡をとりあっていた。飲み物も食べ物も尽きていたので、水がなくなったらどうすればいいか友人から教わった。缶の中におしっこをして、それを飲んだんだ……。 

過酷な拷問 鉄パイプで殴られた

数日後、僕らはリビア国境に着いた。カトルーンで途中下車した。ようやく休憩し、体を洗って着替えることができた。それからセブハに連れて行かれた。そこに奴らの拠点があった。

セブハに着いたとき、頭領にフルネームを聞かれてみな答え、記録された。頭領から「お前たちはムーサに売られたんだ。家族に電話をすれば自由にしてやる。そうしたらフランスへ行け」と言われた。でも僕は電話する相手もいなかったから、ありとあらゆる種類の拷問を受けた。鉄パイプで殴打されたり、セメントの塊を胸に投げつけられたりした。奴らは僕の歯も1本金てこで無理やり抜いたから ものすごく血がでて、顔は風船みたいに腫れ上がった。奴らは女性たちをレイプし始めた。小さな女の子でさえもだよ。僕らの目の前で。娘たちを助けようとした母親たちは殴られていた。

お金がなかったから、僕は何度も売られた。最初はあのアラビア人どもと一緒に仕事をしていたガーナ人。彼は70万CFAフラン(約12万7800円)出したら僕を解放してフランスへ送ってやるといった。僕はまた売られた。まだセブハにいたけれど、今度はリビア人で20万CFAフラン(約3万6500円)出せと言われた。だけどそこの牢屋は一番ひどかった。2000人くらいの人が庭に押し込められていてね。見張りの1人は、タバコを吸っては、やって来て僕らを殴っていた。壁に人を叩きつけて死なせることもできたほどだ。誰も逃げられなかった。

屋根こそなかったけれど、高圧電線が庭の上に張り巡らされていて、触ろうものならあの世行き。夜は眠れなかった。横になるスペースもないので、僕らは座っているほかなかった。食べるときは15人ずつのグループに分かれて食べた。固形ブイヨンと塩を缶詰のトマトに混ぜて味付けにした。何人もの人が毎日亡くなっていた。飢えか拷問のせいで。

それから僕はまた売られて、3度目のこのときはザウィヤに連れて行かれた。トリポリで売却は4度目になった。そのとき、逃げ出せたんだ……。 

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