バルカンルート:保護を求める旅が「ゲーム」と呼ばれるようになったわけ
2017年10月23日
シラミが発生し、駆除する方法はこれしかない。
通過していく人、戻されてきた人、足止めされている人。国境なき医師団(MSF)は首都ベオグラードに拠点を置き、こうした人たちを診察し、心のケアをしている。15~25歳の若い男性が多く、越境を試みては見つかって引き戻され、その度にひどい暴力を受けている。
果てしないこの繰り返しは、いつしか「ゲーム」と呼ばれるようになった。
「私たちは人間です」——保護を求める人びとの叫び
国境警備隊、有刺鉄線、電気柵が「ゲーム」に挑戦する人を阻む。一方、通過地点や一時滞在キャンプ、収容センターなどで足止めされ、精神的に追い詰められる人もいる。世界は、彼らの存在を忘れ去っている。
男性(24歳)/アフガニスタン出身

警官にすねを何度も殴られた。
「殴りながらゲラゲラ笑っている警官もいました」
私は学生です。2年間をここで無駄にしてしまいました。繰り返し殴られました。どうしてこんなひどい目に……。私たちは人間です。動物じゃない、野良犬じゃないんです。この辺りでは野良犬がゴミにまみれて寝ています。私たちもそんな日々です。この前また警察に殴られ、「銃で撃て。殺してくれ。この人生を終わらせてくれ」と言ってやりました。
男性(15歳)/アフガニスタン出身

クロアチアで警察に捕まりました。スロベニアとの国境付近にいた時のことです。何時間も殴られました。服を脱がされて丸裸にされ、凍えそうでした。そのまま車に放り込まれ、セルビアまで運ばれてきたんです。今着ている服は、セルビアでもらったものです。
男性(30歳)/アフガニスタン出身

目に催涙スプレーを吹きかけられた。
セルビア北部のホルゴシュという国境近くまでたどり着いたところで、服を脱いで、毛布と一緒に置いて行けと命令されました。とても寒く、雪も降っていて、みんな震えていました。
次に、一列になって両手を上げろと命令されましたが、その姿勢を続けられない人もいました。それを理由に警官が私たちのわき腹を棒で殴ったのです。さらに、目を閉じるなと命令され、しみるスプレーを吹きかけられました。周りは警察犬に囲まれていました。
少年(12歳)/アフガニスタン出身
兄さんと一緒に移動していたけど、はぐれてしまいました。上の兄さんは18歳でドイツに、下の兄さんは16歳でオーストリアにいます。どうやって会いに行けばいいかわからない。2人を困らせたくないし、どうすればいいかわかりません。合法的には行けないらしいので、「ゲーム」に挑戦しようと思います。
男性(27歳)/パキスタン出身
みんなここで、だんだんヘンになるんです。どこにも行けないから。動物みたいに閉じ込められています。食事は動物のエサ以下。家を借りることは認められていません。食材を買ってきて料理することもできません。ここは都市部から何kmも離れていて、何もないんです。引き返すことも進むこともできないし、ここにずっといるのも無理。どうしろと……。
男性(16歳)/アフガニスタン出身
3ヵ月かけてヨーロッパにたどり着き、そこからブルガリアまでは友達と一緒でした。オーストリアに連れて行ってくれるという密入国業者と接触したのですが、そいつは僕をさらってソフィア市内の薄暗い部屋に8日も閉じ込め、父から身代金をとろうとしたんです。僕は逃げ出せたけど、あの部屋にまだ何人が閉じ込められているのか……わかりません。
男性(30歳)/アフガニスタン
機動隊に殴られ頭が割れた人たちを見ました。10代くらいの若い人が多く、顔は血まみれでした。機動隊は私たちの宿泊場所に催涙弾を打ち込み、踏み込んできて警棒で殴りかかってきたのです。大勢がけがをしました。
匿名
60人ぐらいのグループに入って行動していました。でも、国境を越えてハンガリーに入ると、30人、20人、10人という3つの小さなグループに分かれました。私は20人のグループに入りました。数時間歩き続けたところで警察に見つかり、捕まったんです。
警官は6人か7人。茶色の警察犬も5匹いて、2匹には口輪がはめられていませんでした。犬はほえ続け、友人は手首をかまれて傷穴ができてしまいました。私は顔の、目のこの辺りに膝蹴りをくらって意識が遠のきました。気が付いて、視界に入ったのは、1本のプラスチックロープで手首をつながれ、1列に立たされている仲間たちでした。抵抗できない状態で並ばされ、腕や脚を殴られました。特に脚は何度も殴られ、右脚がすごく痛みます。
男性(29歳)/アフガニスタン出身

MSFは診察や治療を続けている。
1年半前、イラン、トルコ、ブルガリア、セルビア、クロアチア、スロベニアを経由してオーストリアまで行きました。オーストリアにいたのは半年間です。私は精神疾患があるため、オーストリアで何度か通院しました。
ところが、ブルガリアに退去させられました。2016年夏のことで、12人ほどの乗客と飛行機に乗せられました。指紋の登録をした首都ソフィアに送還されました。ブルガリアでは援助がなく、難民キャンプの環境もひどく、医師は会ってもくれません。そこで、やっとの思いでセルビアに戻ってきたのです。診察を受けられるようになりたいです。
今や「バルカン監獄」に……

保護を求める人びとが宿泊場所に利用していた。
彼らが社会の片隅に追いやられ、人目につかないところで忘れ去られてしまうのは、差別を助長する規制や、非人道的な勾留を続けている治安当局のせいだ。
親の付き添いもない子どもや若者が、何の保護もないまま足止めされている。安心・安全な生活を求めて多くの人が通過していったバルカンルートは今、「バルカン監獄」へと姿を変えつつある。