「暴力には笑顔で」 それがささやかな抵抗 パレスチナの見えない傷あと

2018年08月03日

MSFから心理的なケアを受けるパレスチナ人のエスタブラクさんMSFから心理的なケアを受けるパレスチナ人のエスタブラクさん

山々と鮮やかな対照をなす青い海。生い茂る緑の草木が灰色の岩肌に映え、オリーブ園の中に平屋建ての建物が静かにたたずむ。パレスチナ自治区・ヨルダン川西岸地区には、こんな美しい光景が広がる。

だが、よく目を凝らしてみれば、違和感を覚える。

道沿いに並び建つ軍の監視所。有刺鉄線付きの柵や何メートルにも及ぶ高さの壁。道端には、岩石や焼け焦げたタイヤの残がいも転がる。町の外れにはこんな看板が建つ。

「イスラエル法により、命の危険があるためイスラエル市民の町への往来は禁止」

このヨルダン川西岸地区は1994年、オスロ合意に基づいて、ガザ地区と共に「パレスチナ自治区」になった。しかし、イスラエル人入植者による進入は続き、イスラエル軍による支配と厳しい監視が続く。イスラエルによる長年の不法占拠と対立は、パレスチナの人たちの身体だけでなく、心もむしばんでいる。

だが国境なき医師団(MSF)フレデリク・ドログル心理療法士は、「所得の低い地域に住む人びとの場合、医療サービスの優先順位では、メンタルヘルスのケアが最後になってしまうのが普通」だと指摘する。人びとのニーズに応えるため、MSFはパレスチナ側と協力。村落を訪れ、住民に心理療法、心理的応急処置、心理教育を提供している。2017年は西岸地区内の3つの街で計644人を治療した。 

もろ刃の暴力

西岸地区でMSFの心理学者らが患者と面会する様子。西岸地区でMSFの心理学者らが患者と面会する様子。

ヨルダン川西岸地区の北部の街、ナブルス市。一部の住民は、2005年の戦闘終結後、生活が落ち着いてきたと考えている。だが、まだ日常生活には暴力が残る。MSFのスタッフはこう指摘する。「西岸地区の情勢は、検問所や小競り合いの数だけでは計れません。住民が心の平穏を保てているのか、安心して暮らせているのかに目を向ける必要があります」

リーマさん(50歳)、ヘバさん(38歳)、エスタブラクさん(17歳)——いずれも仮名——はナブルスでMSFの心理療法士から治療を受けている。それぞれの世代を代表してインタビューに応じた3人は、イスラエル人入植地の近くで暴力にさらされながら生きてきた。入植者から襲撃される。自宅に物を投げ込まれる。侮辱され、挑発される……。

「入植者はたびたび村に来て、石や催涙ガスを家に放り込んでいきます」とリーマさん。ヘバさんの集落では、学校が狙われる。「子どもたちが怖がっています。先生も授業の半分程度しか集中できません。入植者がやって来るかもしれないので、窓の方に注意を向けていないといけないからです」

エスタブラクさんはかつて銃撃で重傷を負い、そのまま死んだと見なされて集落の近くにある入植地の入り口に置き去りにされた。その後、2年間、収監された。まだ14歳だった。

2017年にMSFの心理ケアを受けた患者の約4割は未成年だ。エスタブラクさんのような。

銃撃で重傷を負った後、収監されたと当時のことなどを振り返るエスタブラクさん銃撃で重傷を負った後、収監されたと当時のことなどを振り返るエスタブラクさん

どの住民も、自宅の窓に防護用の格子を取り付けている。リーマさんは毎日、自宅から目を向ける場所がある。入植者の土地であり、2016年、息子が殺害された場所だ。

「深夜1時ごろでした。銃声を聞いてすぐ、息子が撃たれたと直感的に思いました」

窓越しに見える入植者が住む家々のオレンジ色の屋根。それを目にする度に、あの苦しい記憶がよみがえる。

リーマさんの自宅前の風景。ここで、息子が撃たれた。

リーマさんの自宅前の風景。ここで、息子が撃たれた。

身体の障害から心の障害へ

一方で、暴力は必ずしも、目に見える形で起こるわけではない。西岸地区で暮らすパレスチナ人に重くのしかかる規制にも、暴力は潜む。

自由が認められない移動

パレスチナ人が迂回しなければいけない道路。パレスチナ人が迂回しなければいけない道路。

例えば、移動するのも1日がかりの大仕事だ。パレスチナ人は、「安全上の理由」だとして、イスラエル人入植地の道路を通ることが禁止されている。入植地のエリアは広がり続けているため、迂回するのがとても大変だ。10分ほどで行けたナブルス市から近郊のコフル・クァドゥム村までも、今は45分かかる。従来の道沿いに入植地が建設され、パレスチナ人は通れなくなってしまった。イスラエル兵とパレスチナ人の間で毎週金曜、この道路をめぐって小競り合いが起きる。

パレスチナ人家庭の格子のある窓。パレスチナ人家庭の格子のある窓。

同様にイスラエル側が、パレスチナ人村落を囲い込むことも正当化されている。これも「安全上の理由」からだ。ヘバさんの育った村も、隔壁と有刺鉄線で囲われてしまった。村に続く道には、頑丈で鮮やかな黄色の隔壁があり、イスラエル人だけが開錠できる。情勢が落ち着いていると見なされる間は開放され、人びとの出入りも自由だ。しかし、投石や逮捕のあった時などはイスラエル軍が閉鎖し、住民は自由に行き来が出来ない。

「私たちパレスチナ人は檻の中で暮らしているようなものです。その扉をいつ開け閉めするかは、イスラエル人が決めているんです」

MSFチームのスタッフは説明する。

検問所も、パレスチナ人の日常生活に大きな影響を与える。西岸地区とイスラエルの間にある常設の検問に加え、臨時検問所が「安全上の理由」を口実に恣意的に設置される。イスラエル当局の許可が下りれば行き来できるが、エスタブラクさんの家族はこう話す。

「『安全上の理由』が何か全くわからないけれども、とにかく引き返すしかないのです」

ナブルスでMSF心理療法を受けているジアドさん(30歳/仮名)もあきらめ顔だ。

「イスラエル側には決して説明を求めることはできません。臨時検問所が設置されたと聞いても、早めに仕事に出かけるだけです。たびたび置かれるので、遅刻をしても上司は理解してくれます」

土地をめぐって

1995年、暫定自治拡大合意(オスロ合意II)で、西岸地区にA~Cまでの3つの地区が設定された。統治も、パレスチナ当局とイスラエルの間で分割された。当初は暫定的に5年だけ続くもので、パレスチナ国家の樹立をもって失効するという内容だった。

ところが23年後の今も、この分割は有効なままだ。パレスチナ国家もまだ成立していない。そのため、多くの集落が二重の行政・統治体制の板挟みになってしまっている。

「3つの区分で統治が分けてあっても、ところかまわず占領状態です」と嘆くのは患者のジャマルさん(38歳/仮名)。

「イスラエル兵は、立ち入らないことになっている地区にも構わず入ってきます。『ここに入ってはいけない』なんて誰が言えるでしょうか」

パレスチナ人だけが暮らすリーマさんの集落は、2つの地区にまたがって分断されている。リーマさんの自宅は、イスラエル当局の許可なしには建物を建てられない場所にある。「近所の人が自宅の建て増しを申請しました。新築は認められませんが、増築は認められます。でもその申請すら認められるのに2年かかりました」

ヘバさんの家族が所有する土地には、何世代も前からオリーブが生えている。

「村の中にありますが、イスラエルの許可がないと行けません。立ち入りを許可されるのは年2回だけです。1日で土地を整え、その後3日でオリーブを収穫しなければなりません。これでは時間が足りません。去年は半分を収穫するのでやっとでした」

理不尽なのはこれだけではない。

「オリーブを集めに行っても、いつも入植者が先を越しています」。ヘバさんらがオリーブを収穫していると、入植者から罵倒され、野次を飛ばされ、邪魔される。身体な危害を加えられることもある。

こうした規制の中、不安と疑心暗鬼も生じやすい。西岸地区のパレスチナ人の中には、イスラエル当局に見張られていると感じている人もいる。ソーシャルメディアのアカウントも監視下にあり、イスラエル当局に全て筒抜けだ、と声をそろえる。

監視の恐怖におびえる日々

「何か行動する前には、必ず自問するようにします。フェイスブックに投稿する前、どこかに向かって一歩踏み出す前、それがイスラエルに政治的な行為だと誤解されないかと自問します。すべて筒抜けですから」とモハメドさん(23歳)。

エスタブラクさんが言い加える。

「検問所でイスラエル兵士が父に、こう告げたことがありました。『昨日何を食べたか覚えているか? こっちは知っているぞ。おまえたち全員を見張っているからな』」

実際に、イスラエルがパレスチナ人の暮らしを監視しているのかは、誰にもわからない。だがエスタブラクさんらのように、監視をほのめかされたケースがあり、不安を抱えている人がいることは、紛れもない事実だ。長きにわたって、さまざまな障壁や暴力が、パレスチナ人に精神的ダメージを与えてきた。

「ずっと頭が痛いとか、背中が痛いとか、疲れがとれないとか訴える人は珍しくありません。けれど、医師の診察と検査を受けても、全て正常で健康だと言われてしまいます。しかし、そうした症状は実は不安や、恒常的なストレスの表れなんです」。

ナブルスのMSFスタッフは指摘する。

「心の健康なくして健康なし、とはよく言われますが、ここの患者たちがまさにそうです。多くの身体症状は、日々の抑圧への反応なのです」


パレスチナ人家族を訪問するMSFのソーシャルワーカー。この家族の子どもも逮捕され、収監されている。パレスチナ人家族を訪問するMSFのソーシャルワーカー。この家族の子どもも逮捕され、収監されている。

微笑みを絶やさずに

パレスチナ人の心にはもはや、諦めの気持ちも生まれてきている。ヘバさんら多くの母親らは、こうした状況下では子どもの1人くらいは失っても仕方がないという覚悟を持つようになってきた。

「どの母親も、子どもが怪我をしたら、投獄されたら、殺されたらと考えるんです」

幼い頃、ヘバさんは暴力と占領の終わりに希望を抱いてきた。だが今は、その子どもたちの世代に終わればいいと希望を抱いている。

こんな状況で、パレスチナ人はささやかな抵抗を続ける。入植者に襲われても自宅に住み続けて日常を送る。農地を耕したり、敵意にも笑顔で応じたり。エスタブラクさんはこう打ち明ける。

「自宅が取り壊されても、微笑むことをやめません。それが私たちの抵抗なのです。家屋は壊せてもパレスチナ人のアイデンティティは決して壊せない。そうイスラエルに伝える方法なんです」
 

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