海外派遣スタッフ体験談
国境なき医師団(MSF)に憧れ、医師の道に MSFは、「あらゆる違いや垣根を超えて仲間と価値を共有できる場所」
2019年04月01日空野 すみれ
- 職種
- 産婦人科医
- 活動地
- 南スーダン、ナイジェリアなど
- 活動期間
- 2018年~
高校時代、英語の教科書を通じて知ったMSFの活動。MSFで働くべく、医師を志し産婦人科医に。活動を重ねる度に、「MSFの活動は人としても医師としても成長に繋がる。やっぱり大好きな場所だ」とやりがいを感じている。
MSFを知ったきっかけ 英語の教科書で読んだあるMSFの体験記
中学時代にイラク戦争が起こりました。毎日、テレビで報道されていて、子どもながらにショックを受けました。高校入学後、しばらく色々なことに思い悩み、辛かった時期がありました。そんな時、英語の教科書で、MSFで働く日本人産婦人科医の体験記を読みました。人が人を殺し合う戦争の汚い現実がある一方で、戦争によって医療が届かない地域で、亡くなりそうな命と向き合い、救おうとしている人たちがいることを初めて知りました。MSFの活動の力になりたい、と思いました。高校2年生の時です。医師を志すことにしました。
キャリア形成 一人で治療できることを目標に
医学部に入学してからも、悩んだ時は、なぜ医師になりたいと思ったかを思い出すようにしていました。交換留学の時や初期研修中など、進路の節目で悩んだりすると、いつもMSFの公式ホームページを見ていました。それを見ながら、「自分がどれくらいMSFに近づいたか、MSFで活動するにはあと何が必要なのか」と考えていました。
専門を選ぶ時期になる初期研修2年目に、MSFの海外派遣スタッフ募集のための説明会に初めて参加しました。ちょうど研修医として内科や皮膚科など、さまざまな科を回って研修をしていた時期でしたが、産婦人科に進みたいと思っていました。手術や出産に関われることにやりがいを感じていたのはもちろん、なにより妊婦さんやお母さん、赤ちゃんたちを愛おしく思っていたからです。
産婦人科医としてMSFで活動することを念頭に、説明会で知り合ったMSFの産婦人科医に、「MSFに何年目になったら行けますか。私は早く行きたいのです」とメールで相談しました。すると、「子宮破裂や膀胱破裂などの症例にも、一人で対応できるようにならないといけない。日本のように、別の医師と一緒に手術とかはないから」と、率直にアドバイスを下さいました。「地道に力をつけていくしかないな」と覚悟を決め、「産婦人科医として、一人前に患者さんを治療できるようになる」ということを目標にしました。
産婦人科医になってからも、「もしも私一人で治療をするならどうするか」という状況を思い描きながら、治療や手術などで研鑽を積むように心掛けました。もっと症例を学びたいと思い、自分から周囲にお願いをして、さまざまな手術や治療にも関わらせてもらいました。目標があったので、手術も積極的に取り組むことができました。医師として、成長も出来たと思います。
応募の経緯 参加を後押ししてくれた家族の存在
夫の勧めもあって、産婦人科専門医の試験を受ける年に、MSFに応募しました。今も医師として、まだまだ研鑽が必要だと思っている位ですので、当時も、応募が早すぎないかと思っていました。しかし夫が「やってみないと何が自分に足りないか分からないよ」と。合格がまだ分からない時期でしたが、当時の募集要項には「専門医と同等の能力を要する」※注と書いてあったので、応募書類を送ってみました。
応募の際に役立ったのは、対応した手術件数や、分娩件数などをまとめた資料。研修医の頃から、患者さんの属性、疾患、どう自分が対応したかをまとめて、成果や足りない部分を客観的に分かるように記録に残してきました。専門医ではない時期でしたので、客観的な記録は応募の時にとても役に立ちました。また、経験したことのない手術については、正直に「やったことがない」とMSFに伝えました。これで無理だったら、また出直そうと思っていたので、合格できた時はとても嬉しかったです。
でも、家族に報告するのだけが気が重くて。心配をかけて申し訳ない、という気持ちが強かったからです。あんなに心配した父の姿を見たのは初めてで、心苦しい思いでした。でも、強く応援してくれている気持ちも感じました。意外だったのは、義理の両親です。義理の母は「私たちも長年、MSFに寄付してきたのよ。私は現場には行けないけれど、能力のある人に現場で活躍してほしい」と背中を押してくれました。本当にありがたいなと思いました。
※注:現在は、産婦人科専門医資格取得が必須条件となっています。
忘れられない出来事 子宮全摘手術 何度も「ごめんね」と心の中で謝った
最初の活動地である南スーダンでは、やはり苦労しました。日本ではいつも経験を積んでいる医師と一緒に手術もするので、安心した状況で仕事ができます。でも南スーダンでは話に聞いていた通りで、一人で対応しなければならないことがたくさんあり、慣れるまで時間がかかりました。
産褥の緊急子宮全摘の手術も、MSFで初めて経験しました。患者さんの緊急子宮全摘を決断するのには勇気がいりました。日本だったら、緊急子宮全摘の手術をすることはあまりありません。病院でさまざまな治療ができるので、子宮を全摘しなければならないほど、状況が悪くなることが少ないからです。
子宮破裂をした女性を手術中。赤ちゃんはお腹の中で既に亡くなっていました。破裂の程度も想像以上にひどく、一部修復も始めたのですが、決断を迫られました。子宮は残してあげたい。でも、子宮を残そうと頑張るかわりに、命を失ったら元も子もない。全摘した方が命を救えると、悩んだ末に子宮全摘することにしました。「子宮を残せなくて、ごめんね」と何度も心の中で謝りました。
今後の夢 妊娠出産で命を失う女性を減らしたい
ナイジェリアでは、分娩が進まない20代の女性が来院しました。3回目の妊娠で自宅出産しようとしたのですが、赤ちゃんの頭が見えるだけで出て来ない。最初の出産の時は帝王切開だったと聞いて、すぐに子宮破裂を疑いました。赤ちゃんは残念ながら亡くなっていました。女性は、子宮と膀胱の壁に穴が開き、膀胱内に赤ちゃんがいるのが分かりました。他のMSF医師にも協力してもらいながら、手術で膀胱を修復し、子宮を全摘。女性の命を助けることができました。
こうした事例は、アフリカなどの途上国では珍しくありません。南スーダンでは、妊娠中のお母さんが、2~3日歩いて、自宅から病院に来ていることもありました。自宅から病院までの物理的な距離や、文化的な習慣などもあって、自宅出産を選ぶ人が多くいます。過去に帝王切開していれば、リスクがあるので病院で出産した方がいいのですが、それでも自宅出産をします。赤ちゃんの命が脅かされたり、お母さんも子宮破裂などのリスクが高まったりします。
子宮破裂を治療出来ることも大事ですが、もし子宮破裂を予防出来たらどれだけ良いだろう、と考えるようになりました。MSFの医療チームのリーダーたちは、公衆衛生(予防を含めた広い視点で人々の健康にアプローチする学問)を学んだ人が多いのですが、彼らに私の思いを話したところ、公衆衛生を学ぶよう強く勧められました。
現在はMSFの活動はお休みさせて頂き、イギリスの大学院で公衆衛生を学んでいます。病院で助けられる命ももちろんありますが、それにも限りがあります。もっと早い段階でお母さんたちに病院に来てもらえたら、もっと救える命が増えるのではないかと考えます。学んでいることを、今後生かしていけたらと思います。
最後に あらゆる垣根を超えて仲間と働く
長年憧れていたMSFは、想像していた通りの場所で、すんなりと溶け込むことができました。MSFで初めて活動するとき、同僚だけではなく、ドライバーさんといった現地スタッフまでもが、心から私をMSFの仲間の一人として受け入れてくれました。国籍や言語、年齢、役職や職種など、あらゆる違いや垣根を超えて、MSFの仲間と働ける場所だと思います。MSFの良さであり、魅力です。
研修医時代の同期などを見ていると、それぞれの専門で研鑽や経験を積んでいます。私はその路線とは違うキャリアを歩んでいますが、自分でやりたいことを選択しているので後悔はないです。
今後は、医療の現場で一人一人の患者さんに寄り添える臨床医になると同時に、予防を含めた大きな視野で人々の健康を守ることのできる公衆衛生の実務家を目指していきたいと思っています。MSFには臨床医だけでなく、疫学者や医療コーディネーターなど、さまざまなポジションで活躍できます。今後は、そうした役割での活動にも挑戦したいと思っています。また、MSFに参加する医師の先輩方は、さまざまな働き方をしながらMSFで活動されています。日本で職場を持ちながら数年おきに活動に参加している方、フリーランスとして柔軟な働き方で参加している方もいます。そうした先輩方の働き方も参考に、今後もMSFの活動に携わりたいです。
キャリアパス
2013年
神戸大学医学部卒業
神戸大学医学部卒業
福岡県飯塚病院で初期研修/産婦人科研修
2016年
東京都立大塚病院産婦人科で勤務
東京都立大塚病院産婦人科で勤務
2018年
MSFに初参加。 南スーダン、ナイジェリアで活動
MSFに初参加。 南スーダン、ナイジェリアで活動
2019年
MSF コートジボアールで3カ月活動
MSF コートジボアールで3カ月活動
イギリス・ロンドン大学衛生熱帯医学大学院に在学中