海外派遣スタッフの声

初の派遣で赴いたスリランカへ再び: 黒﨑伸子

ポジション
外科医
派遣国
スリランカ
活動地域
バティカロア
派遣期間
2007年7月~2007年8月

なぜMSFの海外派遣に参加したのですか?

黒崎医師(写真左から3人目)

2001年に初めてMSFより海外派遣されてから、今回は6回目です。初めて参加するまで、海外医療援助活動に外科医のニーズはあまりないと言われて諦めていましたが、当時勤務していた大学病院廊下の掲示版にあった「あなたを待っている人たちがいます」という言葉に惹かれて、今に至っています。その頃は、大学病院で診療以外の雑務に追われて時間が過ぎていく空しさを感じており、もっと医療の本質に向き合いたいという思いが私を動かしたように思います。

今までどのような仕事をしていたのですか? また、どのような経験が海外派遣で活かせましたか?

初めて参加するまでは、大学病院に勤務しており、それまでの7割は小児外科専門医としての診療・研究や学生指導でした。したがって、MSFで広範囲な治療にあたらなくてはいけない任務に不安はありました。ただ、小児外科では消化器も胸部も扱いますし、研修時代には他の領域もまわっていたので、何とかなりました。初めての派遣では新生児外科の症例にも何例か遭遇して手術・救命できましたので、これまでの経験は有用だったと思います。ただ、日本には外傷外科という分野が確立していないし、その研修機会が少なく、地方の小さな病院で勤務している現在は、今後、自己研修が必要だと感じています。

今回参加した海外派遣はどのようなプログラムですか?また、具体的にどのような業務をしていたのですか?

直前まではナイジェリアへの派遣の予定で準備していたのですが、今回、私が最初の派遣で働いた地域に再び外科治療プログラムを立ち上げるというので、こちらに変更することになりました。

スリランカは1983年から約20年間MSFが各地で活動していたのですが、2003年に政府と独立運動をしてきた反政府組織との和平停戦合意が成立して、ほとんどのプログラムがスリランカから撤退していました。過去20年間の犠牲者(死者)は7万人近かったのですが、2006年後半から新しい首相・政府に反対する動きが徐々に過激になり、6月までの死者が6千人を超えるという事態になっていました。

今回は、東部でその周辺地域の重傷者がすべて搬送されているバティカロアの病院から、外傷外科をサポートして欲しいという要請をうけ、MSFの外科治療プログラムがスタートしました。6年前に比べ、病院の設備は充実し、外科医の数も倍以上に増え、整形外科や脳外科の専門医も勤務していました。また、幸か不幸か、現地からの要請のあった時期から完全に状況は変化しており、交通事故や転落事故などは相変わらず多いものの、紛争による外傷はほとんどありませんでした。ただ、今回の滞在期間、外科の指導医が不在になったこともあり、重症の入院患者さんの治療方針の決定・アドバイス、緊急入院患者の手術適応の決定、準緊急外科的処置のアドバイス、重症患者の手術(1.右手首が刃物で不完全切断された女性の腱縫合・神経縫合-骨接合は整形外科医施行、2.銃撃を受けた患者の緊急開腹手術)を行いました。

また、この病院以外にその周辺病院に外科的ニーズがあるかどうかを、3ヶ所の病院を訪問して調査を行いました。滞在期間中、数名の派遣スタッフが休暇をとる時期に重なったこともあり、この交替要員として移動診療の監督として同行するという貴重な体験をしました。これまでの派遣は、宿舎と病院を往復するだけの生活ばかりだったので、避難民キャンプの実態がよくわかりました。

週末や休暇はどのように過ごしましたか?

休みは土曜日の午後と日曜日でしたが、始まったばかりのプログラムであるために、多くの派遣スタッフは土曜日も他の週日と同じように遅くまで仕事していました。その分、日曜日は完全な休息日で、朝はゆっくり目覚めて、午後は日差しが弱くなる3時過ぎから6時頃まで皆でビーチに出かけて気分転換をはかっていました。私も、最後の日曜日以外は、人並みにゆっくり休めましたので、日本から持ってきた英語の本2冊を読破できました。

治安の面でも、昼間はバティカロアの街を歩いてまわることは比較的自由でしたが、それ以外は必ず車での移動と決められ、運転手は夜8時までしかいませんので、夜はみなと談笑・・・。ただ、みな仕事が忙しく、外出制限に不満をもつ人はほとんどありませんでした。

また、週末の夜は宿舎の庭でドラム缶を改造して作ったもので、シーフード・バーベキューをやって、大騒ぎでした。日本食は、味が薄く、暑い気候にもあまり合わないのですが、醤油があったので、魚の煮付けを作って、皆からは喜ばれました。

現地での住居環境についておしえてください。

この地域のプログラムがスタートした時は、オフィスと宿舎がいっしょだったそうですが、プログラムが増えてていくのに合わせて、宿舎は別になって、階下に4部屋(一部は1部屋を2名でシェア)だったのが、2階に6部屋が増築されていました。私が行った時点で、フィールドコーディネーター、ロジスティシャン兼アドミニストレーター、水・衛生担当、物資配布担当、看護師に医師(内科、産婦人科、外科、麻酔科)と総勢9人。コロンボなどからの訪問者がいても十分な余裕がありました。ただし、トイレ・シャワーが1個しかなく、朝は順番待ちで大変でした。宿舎の裏には、水道のまわりを囲って、バケツにためた水で水浴びができるようにもしてあり、寝る前に汗を流すには、夜空の星を眺めながら・・・というのも、なかなか素敵な体験でした。

スリランカは食事がとても美味しいところで、とくに7月まではマンゴーやパパイヤが安く手に入ります。また、水牛からとれる凝乳はヨーグルトに似て、フルーツといっしょに食べたり、木の樹脂から出る蜂蜜のようなシロップをかけて食べたり・・・。カレーの味だけではなく、さまざまなスパイスを使って、野菜や魚を煮込んでつくった料理のメニューは毎日みなの楽しみでした。夕食で残ったものを、それぞれ翌日のランチボックスに詰めて持っていきます。

良かったこと・辛かったこと

良かったこと:

  • 6年前に出合った人と再会できたこと(当時現地スタッフとして働いていた人が何人もいましたし、バティカロアの病院でも、たくさんの看護師が私のことを覚えていてくれて、お互いに大感激でした。)
  • プログラム立ち上げの難しさ、事前の調査の重要性を実体験できたこと
  • いつもの宿舎—病院の往復だけでなく、難民キャンプや他の病院の実情を知ることができたこと

辛かったこと:

  • 入国手続きが遅れて3週間も待たされていったのに、実際には外科医としての仕事をすぐに始められる状態ではなく、自分たちの存在が無駄ではないかと思い悩んだこと
  • 外科治療プログラムに関する現地の判断とMSFのプログラム担当部門の回答待ちの時間のズレ
  • MSFの派遣のために職場を離れたので、入国できるまで待っている間に別の派遣に行こうとしても難しかったこと

派遣期間を終えて帰国後は?

派遣前の勤務に戻ります。国立病院非常勤外科医として勤務しながら、実家(開業医)でも高齢の父を助けながらの勤務を並行して行います。今回は、不完全燃焼に終わってしまったので、もう少し期間をおいて、次の派遣に参加できるように準備します。

短期ですぐに派遣で使えるようなフランス語がマスターできるとは思えませんが、ミッション参加の機会を増やすためには、つくづくフランス語が必要だと思っているところです。

今後海外派遣を希望する方々に一言アドバイス

「何か自分でも人の役に立てるのであれば・・・」という気持ちで、多くの方がMSFにコンタクトされていると思います。ところが、一度体験してみると、その医学的技術よりも、活動地のさまざまな意味での過酷な状況とそのなかでよりよい解決方法を見出す手法やチームワークに多くを学ぶことに気づきます。そして、また、次も参加したいと思うのは、経験が自分を変え、何かを得て成長できるという期待からだと思います。

自分の真摯な気持ちに向き合って、それぞれがかかえる壁をこえることができたら、そこで得られるものはさらに大きいと信じています。日本でのブランクは、必ず埋められて、余りあるものがあります。

MSF派遣履歴

派遣期間
2001年4月~2001年8月
派遣国
スリランカ
プログラム地域
バティカロア
ポジション
外科医
派遣期間
2003年2月~2003年4月
派遣国
ヨルダン
プログラム地域
アンマン
ポジション
外科医
派遣期間
2005年6月~2005年6月
派遣国
インドネシア
プログラム地域
シグリ
ポジション
外科医
派遣期間
2005年9月~2005年9月
派遣国
インドネシア
プログラム地域
シグリ
ポジション
外科医
派遣期間
2005年11月~2005年11月
派遣国
リベリア
プログラム地域
モンロビア
ポジション
外科医
  • 黒崎医師はこの後ナイジェリアに派遣されました。ナイジェリア派遣時の「派遣者の声」はこちらをご覧下さい。